たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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最新の絵日記ダイジェスト
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2018/06/04 チョコをくれたのは誰?

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2018/04/24(火) 背中押されて川へドッボン
泳ぎを覚えたのは小学校1年生だったのではないかと思います。もし違っていたとすれば2年生だったかも知れませんが、おそらく1年生で間違いなかったと思います。わたしたち家族が暮らしていたのはー岡山県都窪郡妹尾町妹尾藤野町ーだったと記憶しています。わたしの疑問は(何故町の中に町があるのだろう?)ということでしたが、それはさておき、藤野町にはわたしを含めて7人の小学生がいました。5年生が一人、4年生が一人、3年生が一人、2年生が二人、1年生が二人と言う具合に。わたしは1年生でした。同級生がもう一人いましたがこの時はわたしが一番最年少で同級生はいませんでした。このころは、町内や部落の上級生が下級生にいろんな遊びを教える学びの集団というものがありました。ある時このうちのメンバー5人が泳ぎに行くことになり、近くの川に出かけました。泳げないわたしも誘われて付いて行きました。先輩4人は泳ぎなれたものでみんな橋の上からザブンザブンと飛び込みます。そうするとカイツブリが遠くへ逃げていきます。それが面白くてわたしは橋の上から眺めていました。1級上のターラン(同前忠夫さんだったように思いますがその方の通称)が橋の下から「ケンチャン!飛び降りろ!泳げ!}と叫んでいます。彼らは泳いで鬼ごっこをしたりするなど遊んでいましたが、時折、そうしてわたしに「泳げ!飛び込め!」と誘うのでした。幾度か断っていると誰かがわたしの後ろに近づいていました。わたしは気がつきませんでした。突然、ドン!と背中を押されて、皮の中にドッブンと落ちました。それからは必死でした。もちろん犬掻きですが、やっとのことで岸に泳ぎ着きました。すると、「ケンチャン。泳げたが〜。よかったのお〜」と言って近寄ってきた4年生のテッチャンがその次の日からも平泳ぎやらクロールを教えてくれました。わたしも必死に練習しましたが、間もなくみんなと遊べるほどに泳げるようになりました。何事もやってやろうという勇気と努力が必要なんですね。シャイで引っ込み思案のわたしに欠けていた飛び込む勇気を教えてくれたのが近所の仲間であり、先輩たちでした。そんなシャイで引っ込み思案なわたしの背中を押したものにもう一つ”逆立ち事件”がありました。

2018/04/23(月) 同級生が池で亡くなった!
これまでは小学校5年生までの学校での記憶をたどってきましたが、今度は学年に関係なく思いつくままに記憶の糸を手繰ってみたいと思います。まず、最初に思い出すのは、同級生の池での死亡事故です。「えっ?なぜ?」という驚きがわたしを支配しました。この池ではありませんが、わたしたちは池でジュンサイのようなぬめりのある植物の芽や菱の実をとっていましたし、あちこちの池でも泳いでいました。木のタライに乗って友達と落としごっこをするのも無茶苦茶楽しかったのです。菱の実もこれがまあなんとも美味しいごちそうでした。栗のような味がするのでした。川ではよく茂った藻をぐるぐる巻いて水を堰き止め、石垣の間にに隠れているナマズやドンコを捕まえたり、網で鮒を掬ったりと放課後は大忙しでした。泳ぐのを止めて静かにしていると小魚が体をちょんちょんつつくのです。くすぐったいような、気持ちいいような何とも言えない感触でした。母は先生に言われたわたしの勉強のことが気になったのでしょうか。そろばんを習えと言われてそろばん塾に通ったことがあります。一時は面白くて3級まで進みましたが、でも、やっぱりそろばんよりは川や池で遊ぶ方が面白かったのです。意気揚々とわが家に凱旋すると「こらっ、けんじ」と大叱られしたことが幾度かありました。そんな折、同級生が池で亡くなったとの報があったのでした。池で遊んでいた時に死んだというのです。この時初めて池の怖さと特徴を知りました。池の水は表面は温かいが、その下は急に冷たくなるということをこの時知りました。同級生は飛び込んだ時に心臓麻痺を起こしたらしいと言うのです。それからは池で遊ぶときはまず首までゆっくりと体を沈め、体全体を水に慣らしてから泳ぐようになりました。しかし、わたしはいつどうして泳ぐことを覚えたのだろう?

2018/04/22(日)   柔術の道場
学校というものはどうしてあのように退屈で面白くないのでしょうか。それともわたしがおかしいのでしょうか。妻などは学校は面白かったし、勉強も好きだったと言います。しかし、わたしはちっとも面白くありませんでした。勉強もそれほど好きではありませんでした。(でも、時には”あっ”と引き付けられる時や興味が湧くものがありました)が、そんな時やものや事には没頭できるのです。そんなわたしですが、小学校5年生になっても教室の窓から空を眺める空想授業は続きました。教室の窓はちょうど坂道に沿って出来ていました。そこで斜め左の教壇から右に首を向けると目線に石垣と坂が見えます。その坂を人が通っている時に見えるのはズボンと靴、着物と下駄や草履などでした。誰も通っていない時は右斜め上右は全面”空”でした。不思議なことですがその時は石垣や坂が消えているのです。先生がいくら注意しても空想授業がやめられません。そんな折にふっと別の思いにとらわれたことがありました。(相撲が強かった友人にどうしても勝てないのは何故だろう?どうすれば勝てるようになるのだろう?)そんな思いにとらわれ始めたのです。(チビの俺が勝てるとしたら?そうだ!隣のタコオという村に柔術の道場があると聞いた。よーし、そこへ行ってみよう)ということで、次の日の夜にその柔術の道場に行き入門しました。3学期の初め頃だったと思います。柔道ではなく柔術の道場でした。棒術も教えていたようです。道場には棒術の練習用の棒も置いていました。寒い日も暗い坂道や焼き場のある所を恐々通って通いました。自転車でライトを灯して30分ほどかけて行くのですが、一生懸命でした。ところが、3学期が終わるころに母が突然「妹尾」の家から「岡山」へ転居すると言ったのです。{えっつ!?」と思いましたが、わたしが反対など出来るはずがありません。言われたとおりにする以外に術がありませんでした。要するに親というものは相談するのではなく言葉が優しいか、命令口調かは別にして子どもに命令を伝えるのです。なぜ転居するのかという理由さえ話してはくれません。こうしたことから柔術の道場がよいは2カ月ほどで終了となってしまいました。

2018/04/21(土) 空には象やトラ、それにクジラまで
小学校4年生の記憶はお空の動物園と成績です。3年生まではパンだとかお餅だとかの食べ物が中心でしたが、4年生になるとヤギだとか乳牛だとかの動物が出てきてミルクを飲ませてくれたのです。親戚の農家に母が連れて行ってくれた時に飲ませてくれた牛乳のなんと美味しかったことか。教室の窓からお空を眺めていると牛がお乳を飲ませてくれるのです。あのとっても不味い脱脂粉乳を飲んだ後の午後の授業の時などはなおさら美味しく感じるのです。そうこうしているうちに象やら虎やら動物がいっぱいでてきます。こんな動物園なのにクジラも空を飛ぶのです。突然「タバタ!」とわたしを呼ぶ声がします。何度か名前を呼ばれてやっと我に返ります。{はい!」「後で教員室に来なさい」「はい!」ということで、放課後教員室に行きますと、「お母さんからなにか聞いたか」「いいえ、なにも」「ふ〜〜む。何故かなあ」「・・・・・?」「帰ったらお母さんに先生から聞いたことを教えてって聞きなさい」ということで、帰って母に聞くと、母は「あはは、先生がね。お前の成績が百点と零点の二つしかないから宿題をちゃんとやらせることと勉強をきちんとやらせてって言うのよ。でもね、おまえはおまえの思うようにやったらいいよ」と言います。「ふ〜〜ん。そうかあ」ということでこのお話は終わりとなりました。勉強はすべてその時任せでしたから通知表はずっと一貫していました。成績表は、3を中心にバランス良く1から5まで毎回そろい踏みしています。結局、その時々で気の向いたものは点数が良いということでした。この気まぐれな性格は生涯を通して今日まで一貫している性格のようです。こんなわたしでしたが、不思議なことに成績のいい奴からも一緒に勉強をしようと誘われたこともあります。学校でも歴代1,2だと言われた大寺の住職の息子、本郷君からも一緒に勉強しようと誘われ、お寺の離れで二人が一緒に勉強したこともあります。だが、しかし、長続きしないのもわたしの特徴のようです。

2018/04/20(金) 呼び出された校長室
小学校3年生の学校での記憶にはもう一つ”校長室”での嫌な記憶があります。それはちょうどお昼休みのことでした。友だちと鉄棒で飛行機飛びをやっていました。まず鉄棒を逆上がりします。そして、次に腕を伸ばして鉄棒が腰の高さにまでくるように体を引き上げます。それから足を鉄棒の上に乗せ、両足で立ちます。そして、それから両手で鉄棒を掴んでグルンと後ろ周りに前方へ飛ぶのです。飛んだところへ棒切れで印をつけます。時々、言い争いが起きます。後ろに手をついた位置が違うとか、尻もちをついた位置が違うとかなどですが、そこはいいかげんなところで決着をつけて喧嘩になることはほとんどありませんでした。ひとしきり遊んだ後、仲間は教室に引き上げました。わたしが勝利した後の仲間すべての飛んだ位置へつけた印を足で消していたところ、学年が下の女の子が上級生にいじめられているのを見てしまいました。わたしは大声で「やめろ!」と叫びましたが、やめません。そこで石を三つ、四つ拾って上級生に投げつけました。上級生は逃げ、女の子も無事教室へ帰りました。ところが、2年生のクラスの窓ガラスが投げた石の一つが当たって割れてしまいました。「いじめた奴が悪いのだから仕方ないや」と思って教室に帰ったところ、早速呼び出しです。「すぐ校長室へ来い」とのこと。そのころのわたしには教員室も怖かったのですが、校長室など初めて行くところです。何といっても小学校3年生ですから。怯えながら校長室へ行くと「何故ガラスを割った!」と大目玉です。事情を説明しても分かってもらえません。わたしは理解してもらえないもどかしさにイライラしながら叱られていました。ですからどんなに大声で叱られても(俺は悪くない)と腹の中では思っていました。大人や社会に対しての偏見というか(斜にかまえて物を見る)癖がついたのはこの事件からかも知れません。ずっと後で聞いたことですが、母も呼び出されて、割れたガラス代を払わされたそうです。しかし、母はわたしには学校へ呼び出されて行ったことも、ガラス代を支払ったことも一言も言いませんでした。(ケンジがいたずらや悪さで窓ガラスを割ることはない。なにか理由があるのだろうと信じていてくれたのだと思います)母は目に見えない大きな愛でわたしを包んでいてくれたのでした。

2018/04/19(木) 第二のトラウマは「音楽}
小学校3年生の記憶にはボロボロの「講堂」があります。体育館がなかったので初めは跳び箱の授業に講堂を使いました。多分低学年だけだったと思います。しかし、そのうち、低学年も跳び箱を外でやるようになりました。ボロボロの講堂が体育には適さなくなったのでした。ですから、グランドの向こうではドッジボール、こちらでは跳び箱と言う具合になりました。わたしは跳び箱が得意でした。誰もが飛べない一番高い跳び箱を越えることが出来ました。それと鉄棒は得意でした。中でも、飛行機飛びという遊びでは一番遠くまで飛ぶことが出来、誰にも負けませんでした。しかし、相撲ではなかなか勝てませんでした。チビのわたしには悔しくて悔しくてならない競技でした。講堂は危険ではあるものの補修しながら使っていました。演台が南にあり、その西下にはオルガンがありました。学芸会にはこの講堂が使われました。この学芸会で担任の先生は(3年生もやっぱり女先生でした)最初わたしに木琴をやるように言いました。ですが、わが家には木琴を買うような余裕はありませんでした。なにせ母が夜なべをしてやっとこさ「肝油」が買えたのですから木琴なんて無理でした。ですからなかなか上達するはずがありません。学校にある木琴も数が少なかったものですから学校での練習もままなりません。そこで先生が今度は笛をやれと言いました。笛も買ってはもらえませんでしたから結果は同じです。そこで先生が今度は猿蟹合戦の「猿」をやれと命じました。この猿役が嫌で嫌でたまりませんでした。だって、木琴が駄目で笛が駄目でとうとう柿をぶつけられる猿役か、と思い、自尊心がとっても傷ついたのでした。しかも、学芸会の当日、来ないはずの母が見に来ていたのです。わたしは舞台に出て硬直していました。この硬直は柿をぶつけられる猿役にはぴったりだったと思われます。この話も今でこそできますが、この話はずっと胸にしまったままでした。木琴や笛が買ってもらえなかったから音楽が嫌になったとはとても母には言いにくいことでした。音楽嫌いはこのトラウマが原因でした。絵を描くことと音楽をやることを毛嫌いし、避けたことはのちのち大いに弱った結果を招くことになったのですが、この時にはそんなこと思いもよりませんでした。

2018/04/18(水) 池に映った逆さの絵はダメ!?
小学校2年生の担任の先生は女先生でした。わたしの記憶ではとってもきれいな先生でした。ほんとうは顔立ちやスタイルよりも”優しかった”の印象が綺麗に見えたのかも知れません。わたしのいつ?という記憶は不確かなので、いつ、どこで見たのかはっきりしませんが、子供を抱えたマリア像の絵を見たときに「ああ、お母さんだ」と思ったことがあります。この小学校のころの思いは母には一度も話したことがありません。恥ずかしい気持ちがあったのだと思います。死ぬまでに一度話しておけばよかった、との悔いは残っています。確かに若いころの母は綺麗だったのかも知れませんし、子どもにとっての母はいつも綺麗なのかも知れません。それは優しさが綺麗を相乗させるのだと思います。この綺麗な先生が1学期で来なくなりました。赤ちゃんが出来るとのことでお休みになったのです。1学期の最後の日のお話は心の中に嵐を起こしました。これが最初の失恋だったのかも知れません。だって”大ショック”でしたもの。2学期からの担任の女先生にも”大ショック”を受けました。お絵描きの時間にクラス全員が写生に出かけました。わたしは池に映った家と樹木をとってもきれいだと思い、描きました。先生がやってきてわたしの絵を見るなり、「絵はちゃんと描かなきゃダメ!家も木も逆さでしょ」ときつい声で言い放ちました。わたしは絵を提出しませんでした。以来、わたしは絵を描かなくなりました。子どもの絵は「どうしてその絵を描いたのか?絵を描くに至る経過とその思いは何だったのかを尋ねなくてはならない」とわたしは思います。池に映る逆さの家だって木だっていいじゃないですか。逆さでも綺麗なものは綺麗なのですから。特に教師という職業についているならばなおさらそうでなければと思います。だってわたしは絵についてはいまだにこの事件がトラウマになっています。

2018/04/17(火) 麦飯はねて白米多く弁当に
小学校1年生になったわたしたちの昼食は3年生まで弁当持参でしたが、確か?4年生、5年生の2年間は給食になりました。転校後の岡山市岡南小学校、岡輝中学校は弁当持参でした。とすると、岡山市より妹尾町の方が給食開始は早かったことになります。従って、わたしの給食の記憶は2年間だけだったということになります。まずは、わたしが「わらくずパン」と呼んでいたとっても不味いパンです。コッペパンに似てはいるが似て非なるものでした。本当に不味かったのです。次の日には固くてぼろぼろになります。こっちもボロボロです。とても食べれません。先生が睨んでいるので少しだけかじって後はこっそりズックかばんに投げ入れます。そうしないとダメなのです。学校にはそのまま置いておけませんからね。友人たちがどうしていたかは全く覚えていません。おそらく自分のことで精一杯で他のことに気を遣う余裕さえなかったのだと思います。このパンを母が毎日ズックから取り出して油で揚げて次の日のおやつにするのでした。少しはましでしたが、これは二重苦でした。教室の窓の外の空には本当のコッペパンが飛んでいるのを眺めながら早く学校が終わらないものかと思う毎日でもありました。もう一つは、飲むと舌や口の周りにべったりとくっつく脱脂粉乳でした。これがミルク?という代物です。家畜の餌じゃありませんか。温かくても冷たくても飲めたものではありません。これも臭くて不味くて本当に嫌でした。ぐいと流し込む以外には方法がありませんでした。脱脂粉乳の代わりに牛乳が出され、この脱脂粉乳が日本の学校給食から完全に消えたのは1967〜70年ではなかったかと思います。さて、ここから母の苦労談です。弁当を拵える母の姿を横から見ていると、毎朝、お櫃をしゃもじでひっくり返し、ひっくり返ししています。白米3合、麦7合の中から出来るだけ白米を多く取り出して弁当箱に詰めようとしてくれているのですが、なかなか上手くは出来ません。それでも努力の後は確かにありました。わたしはスルメデンプが好きでした。隣の奴の赤いカツオデンプが欲しいなあと思ったこともあります。たまに玉子焼きが入っていると小躍りしたものです。もう一つの母の苦労談は「肝油」でした。これは注文しなければなりません。学校に支払う代金が必要です。母は肝油を給食時に注文するために(わたしが学校で友達に引け目を感じないように)縄ない仕事を夜中までするようになりました。夜、母がいない寂しさは肝油注文の代償でもありました。

2018/04/16(月) 命を守る地球を
わたしが6歳になった(1950年)年の6月から朝鮮戦争が始まり、小学校4年生になってから4か月目の7月まで戦争は続きました。そして、およそ300万人が命を無くしたといわれています。戦争をしないという日本国憲法の正しさはこの朝鮮戦争でも証明されました。殺人がもし死刑に該当するならば国連で「不戦条約の決議」をし、戦争を仕掛けた犯罪人に対しても国連における裁判で裁くべきではないでしょうか。シリアに対して化学兵器を使用したという立証がないまま米英仏3国が私的にシリアの化学兵器工場をトマホークで爆撃・壊滅するという報復的手法は間違っているとわたしは思います。また、現在の国連の運営手法は間違っています。現在の地球世界は群雄割拠の戦国時代と同じです。やくざが縄張り争いをしているのと同じです。人間はみな平等であり、人間の命が等しくかけがえのないものであるならば、各国が武力を無くし、国連に武力・権力を集約することが必要だとわたしは思います。そうしなければ紛争、事変、戦争などの惨害はなくならないとわたしは考えます。さて、話はわたしの記憶の方に戻しますが、朝鮮戦争の最中であった小学校4年生の途中までのわたしはどんなことをしていたのだろう?押し入れに閉じ込められたことはもちろん幾度もありますが、それはさておき、まずは桜が満開の校門を初めて潜った小学校1年生の記憶ですが・・・・・。

2018/04/14(土) 尻が腫れあがったあの日
ザリガニもいくらでも釣れました。道具はザリガニを入れるバケツと1m ほどの短い竹にタコ糸です。近所の仲間と示し合わせて鼻歌街道をルンルン歩いて行きます。川の流れの緩やかな浅瀬には赤い爪を持ったあのザリガニがいます。バケツをそこの土手に置いてから田んぼを見回します。そしてカエルを見つけます。竹の根元にタコ糸と合わせてしっかり握るとカエルを見据えてピシッと打ちますとカエルは硬直します。最初はブルブル震えていますが、手足をピーンと伸ばして固まります。いわゆる死後硬直と言われる状態になります。そのカエルの足の指を折り、皮をむきます。スルっとむけるのですが、そのカエルの足をタコ糸に結わえてザリガニの近くに投げるとスルスルとザリガニが近寄ってきます。カエルを食べ始めると竿を引き上げます。こうしてザリガニはいくらでも吊り上げられます。バケツ一杯になったらもう一つのバケツを持った仲間と「故郷」などの唱歌を大声で歌いながら意気揚々と凱旋します。裏山の広場で石で築いた二つの竈の薪に火を点けバケツを載せます。グラグラと煮立ったらみんなで食べます。「おお熱いのお。旨いのお」これがまあなんともホントに旨いのです。ある日のことです。たまたま母がわたしたちを見つけました。「あんたらー何しよん?」「・・・・・」「ザリガニを食べよんかな!」「・・・・・」その剣幕にみんな驚いて黙っています。母はバケツをひっくり返して火を消し、ザリガニを食べられないようにしてからわたしたちに命令しました。「みんな帰んなさい!けんじ!来なさい!」とわたしの手を引っ掴み、家に連れて帰り、わたしの尻を叩き続けました。「ジストマにかかったらどうするんじゃ。あほー。ジストマにかかったらどうするんじゃ。あほー」と泣きながらわたしの尻を叩き続けました。わたしは(エビは炊いて食べたらあたらん言うたじゃねえか)と思いながら叩かれ続けていました。その夜わたしの尻は腫れあがり仰向けでは寝られず俯いたまま眠ることとなりました。懸命に泣くのをこらえながら。

4月絵日記の続き


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