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2018/09/23(日)
部活は柔道部へ
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中学校では柔道部に入りました。柔道部にはまず第一に道場がありませんでした。練習畳は毎日倉庫からグランドに運び出してグランドに敷かなければなりません。第二に指導教官がいませんでした。保健体育の近藤先生(だったと思いますが?)が柔道がものすごく強くて恐い先生だと聞いていましたが、一度も来られたことがありませんでしたので恐らく指導教官ではなかったのだと思われます。もし、違っていたとすれば、生徒指導で部活どころではなかったのかも知れません。ですから練習は子供たちだけで自由にやっていました。それでも受け身や組み手など先輩から教わりました。陸上部や野球部も練習していますからこちらは狭いグランドの隅っこでした。従ってそれほど強くありませんでした。ところが、柔道部と違って陸上部と野球部は強かったので柔道部はなおのこと隅っこだったのかも知れませんが、良かったこともあります。今では役に立たない立たないと言われている指導方法の一つに「うさぎ跳び」があります。彼らはよくやらされていました。しかし、われわれには「うさぎ跳びグランド一周!」と命じる人がいなっかったのです。今思えばこれはラッキーでした。そして、雨の日はもちろん休みです。あれはいつだったか?思い出深い試合がありました。甲浦中学校の藤原君のとってもきれいな内股に関心したことがありました。今でも名前を憶えているくらいですからとっても素敵な選手でした。これに引き比べてわたしの方はと言えば、試合の時の選手の読みあげ方にショックを受けました。「次は、オカキ中学校タハタケカタシ君」と呼ぶのです。(えッ、違うじゃろ。オカキって何じゃ?煎餅やオカキを作るお菓子屋の中学校かい?違う、違う。コウキ中学校じゃ。タハタケ?違うじゃろ!タバタじゃ。カタシ?違うじゃろ!ケンジじゃ)と思うものの他に該当者はいないので当然前に出ました。この試合は勝ちましたが、次の試合では負けました。残念ながらベスト8にも残れませんでした。藤原君がどこまで勝ち上がったかは記憶にありません。彼はベスト8には残っていたのではないかと思います。柔道部に入って何が良かったかと言えば、受け身が出来るようになったことですね。これはその後の人生に於いて数度命拾いと言えば大袈裟ですが、大怪我からは救われたと思います。しかし、授業では(えッ、どうしたんだろう?)とふっと不安に思うことが一、二度ありました。いつしか先生が授業で言っていることがさっぱりわからないのです。しかし、これはあくまでもふっとなのです。真剣にではありませんでした。
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