たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/08/31(金) 子どもたちには自然が必要
釣りや貝取りなどはどうしていたのかというとどんなに遠くてもどこまでも自転車で行った。安倍池ではボラやイナやフナなどが釣れた。今の児島湖はまだ堤防で仕切られていなかったのでとても良かった。国や県は児島湖の生態系を壊してしまうという愚かなことをしたものだ。ここではマクラ貝がたくさんとれた。お吸い物にするととても美味しかった。カブトガニはうじゃうじゃいた。潮が引くとハゼがはね、カブトガニを除けながら泥の中を板スキーで郡まで遠征できた。この辺りではチヌや小鯖も釣れた。ママカリも当新田の辺りまで釣ることができた。浜野とか福島辺りではハゼがよく釣れた。また、小さなカレーも網で掬えた。ハゼや木っ端ガレーはこの辺りで今でも釣ったり、掬ったりすることができる。青江のウナギは有名であるが、奥田も含め、大学病院傍の枝川でもウナギにフナにコイに台湾ドジョウがとれた。今でもコイやフナはとれる。数年前までわれわれは鮒飯の会を催していた。(世話役が死亡されてから沙汰闇となってはいるが)枝川や西川は素敵な川である。もっと自然を取り入れながら整備すればニュージーランドのエイボン川にも負けない川になるとわたしは思っている。清輝橋から京橋辺りまでセイが釣れた。サヨリももちろんである。後楽園の相生橋辺りや後楽園の石垣では足の長いテンゴエビを捕まえることが出来た。なんにしても石垣の穴はすごい。ウナギもいたし・・・ヤスを持って潜るのはうれしくてうれしくて仕方がなかった。ところが腹立たしいことが当時でもおこなわれた。わが家の近所の枝川の橋の下である。この橋の下の石垣にはウナギもいた。わたしはひどい事件に2度遭遇した。一度は数名の大人が電線に別の線をつないで橋の下に突っ込み、魚を一時的マヒ状態に、あるいは感電死させ、大量に浮き上がらせた。これらを網で掬ってみな持って帰った。また、今一度はカーバイドを流し込んで大量に殺した。こんなひどい大人たちばかりではない。いい人たちも大勢いる。この橋を西に百メートルほど行ったところに五軒家の池があった。この池が年に一度水を抜いて池底を干す時がある。水を抜くと、いるわいるわ、うじゃうじゃといるのだ。みな好きなだけ持って帰れと大人が言う。バケツ一杯が関の山だがルンルン鼻歌で凱旋したものである。このような自然が子供たちには必要ではないかとわたしは思う。

2018/08/30(木) 天照大皇神
吉田くん家の思い出をもう一、二挙げて置こう。彼の家は農家であった。戦後の農地改革で地主になったという。彼の家の前は広い農作業場であった。前には母屋と横には納屋とがあった。富田から奥田にかけては全面田んぼであった。ある時、竜巻が発声した。田んぼの中を南から北へとさまざまなものを巻き上げ、渦巻いて通り過ぎた。われらは茫然とそれを見つめていた。今のところ、生まれてから74年にして、初めてで最後の経験である。彼の家の近くには農家であるから当然であるが、わら黒が作られていた。彼を迎えに行くとどうしても少しばかり時間がかかる。彼だけではなく数名が集まらなければならないからであった。そこで秋から冬になるとどうしても口が寂しくなる。そこで市場でサツマイモを5個〜10個余分に仕入れをして、吉田くん家のわら黒からわらを抜いて、焼き芋をつくる。わたし一人ではなく、当然みんなにもわけるのだが、これが母親からこっぴどく叱られる原因となった。ある時、母親がものすごい剣幕でわたしを叱るのだ。最初は何が何やらよく分らなかったが、しばらくすると、事態が飲み込めた。−吉田くんの親がわが家に怒鳴り込んできたのだ。そして、「わら黒をケンチャンが燃やしてしまった。わら黒の代金を支払え」ということで母はそのわら黒代を支払わされたーということであった。事実であるから当然母には詫びたが、胸の内には釈然としない部分もあった。(俺だけじゃないじゃないか。みんなに焼き芋食わせたのに・・・)と。だが、わたしが主導したことは間違いのない事実である。だから、ごめんなさい、ごめんなさいと謝った。もう一つは、吉出家の母屋の玄関には「天照大皇神」の大きな掛け軸が掲げられていた。何だろう?ある日、思い切って聞いてみた。「叔父さん!テンテルダイオウジン」って何や?」叔父さんが答えて「お前はアマテラスオオミカミさまを知らんのか?罰当たりじゃのお。恐れ多くも天皇陛下のご先祖さまじゃ」と言って気を付けをした。「へ〜〜」と答えたものの当時は何にも分らなかった。何故気を付けをせんのだ」と言われたが、わたしは戦中生まれではあるが、戦後教育を受けている。従って、天照大神も天皇も尊い方だとの教えは受けなかった。ましてや、気を付けなど出来るはずがないではないか。

2018/08/29(水) 天皇はちっちゃかった
まず毎日の学校に行くことからお話すると、わが家を出て、吉田くんの家に一緒に行こうと誘いに行くと、その近所に原田くんたちもいたから数名が連れ立って小学校に行く。東に行くと南高校のグランドに出る。その当時の南高校には塀はなかった。そこでグランドを真っすぐに抜けるのだが、ソフトボール部などが朝練の真っ最中である。われらは構わず真っすぐに歩く。すると、毎回朝練のお姉さんたちが「こらっ!回れ!回れ!」と怒るのだ。われらは構わず真っすぐに進む。怒ったお姉さんたちの様がなんとも愉快であった。グランドを抜けると田んぼの畦道を抜けて、人絹道路に出る。大人たちの話しでは戦争中に飛行機を飛ばすためにこんなに広い道路を作ったのだと言うが、ホントのところはわからない。名前の由来はクラレの製造していた人絹にあるのだろうと思われる。吉田君は車の排気ガスの臭いが好きだという。わたしは好きではなかったが取り立てて言い争うほどのものでもなかったので「ああ、そうか」とだけいつも返事していた。この人絹道理に並ばされたことがあった。天皇陛下と皇后陛下がお通りになるので頭をあげてはならぬと訓示があった。岡南小の全員が道路に整列させられた。黒い車が通る時頭を少し上げて見たが、皇后の姿しか見えなかった。天皇は皇后の陰に隠れていたのだ。(天皇の方がちっちゃいのか)と思った。この終生の記憶となった人絹道路を抜けてしばらく行くと右手に岡南小がある。岡南小をさらに東に行くと旭川に出る。この旭川がなんとも面白いわれらの遊び場であった。

2018/08/28(火) 岡南小には給食がなかった
岡南小学校にはまだ給食がなかった。妹尾小学校では4年生と5年生は給食であった。だから、わたしはかの有名な不味い給食を知っているのである。不味いわらパンの味も、唇にべったりと張り付くあの不味い脱脂粉乳の味も知っているのである。当時は嫌な給食ではあったが、この経験は不味い給食という話題に参加できるので、こうした経験は悪いことばかりではない。どんなことでも悪いことばかりではないということだ。岡南小では寒くなると石炭ストーブが焚かれたので弁当はそこで温めることが出来たのでとても良かった。但し、全員というわけにはいかなかった。温めることが出来なっかった同級生たちよ。今思えば大変申し訳ないことをしたものだ。ごめんなさい。同級生の中の多くに岡山大学附属中学校を希望する生徒に羨望の目と声が寄せられていた。わたしにはそれがどういうことなのかさっぱりわからなかったのであるが、高校になってからみんなが羨望する意味がわかった。つまり、彼らは勉強がよく出来るエリートたちだったのだ。わたしは休みが待ち遠しいばかりであった。土曜日の午後、日曜日、春休み、夏休み、冬休みは最高の遊ぶことのできる日である。市場での仕入れと鶏を飼育し卵を売っている農家から卵を仕入れれば学校に行っている間の時間はわたしの遊ぶことのできる時間であった。自転車でどこまでも出かけることが出来た。南は築港や郡まで、西は池田動物園の裏当たりまで、北は後楽園当たりまで、東は網浜辺り(旭川には京橋と相生橋以外には橋がなかったので泳いで渡って徒歩で行ける範囲)までが行動範囲であった。泳いだり、釣りをしたり、貝を採ったり、水晶を採ったり、和船を漕がしてもらったり・・・と遊ぶことには事欠かなかった。だから休みの前の日はわくわくしていた。中でも休みの長い夏休みのなんと待ち遠しかったことであろうか。

2018/08/27(月) スズメを獲るぞ!
東に行くと岡山南商業高校に突き当たるわが家の前の道路はまだ未舗装であった。風が吹くと砂塵が舞い、すぐに目が痛くなるのであった。特にカバヤのキャラメルで有名な林原の埋め立て地があちらこちらにたくさんあった。今では考えられないことだがギザギザの棘のあるアスガラなどで埋め立てられていたので目に入ると目が傷ついた。枝川に沿って北に行くと鹿田学区東古松であるが、獣骨の散乱した土地があった。しばらくするとそこに朝鮮学校が建設された。その先が岡山大学医学部及び大学病院であった。西に行くと大元駅の南に出る。枝川に沿って南に行くと富田である。枝川には鯉、鮒、ハヤ、うなぎ、あの大きな台湾ドジョウもいた。わが家の前の用水溝にもドジョウがいた。ドジョウやウナギは焼いて食べた。台湾ドジョウはかまぼこ屋に持っていくと買ってくれた。カエルや台湾ドジョウを大学病院でも買ってくれた。Yさん家の猫も持って行くとその猫も買ってくれた。次の日に、Yさんが「猫はもう殺されたじゃろうか。どうしよう?家の者が心配しだした」と言うので二人で「どうしよう」と相談していたところ、その翌日に猫が帰って来た。「あ〜〜よかった」と二人は胸をなでおろした。売られた猫は必死で解剖現場を逃げ出したのであろう。ある時、爺さんがスズメが食いたいという。そこで、Yさんとレンガを積んで仕掛けを作り、スズメを獲ろうとしていると、作業着の叔父さんがやってきた。「オイ、何をしようんなら?」「スズメをとるんじゃ」「スズメか。スズメならのー、焼酎か、酒に米を浸してやるんじゃ。おまえらみてーに米を置いとくだけじゃあとれんのじゃ。米を食ったらスズメが酔っぱらうじゃろ。そうすりゃー簡単なもんじゃ。やってみい。獲れたらわしにもくれろよ。焼いて食うとこれが美味いんじゃ」と言ってふらふら立ち去った。次の日から何日も何日もお爺さんの焼酎を盗んでは米を浸してやってみたがスズメは獲れなかった。酔っ払いもせず、仕掛けにもかからず、さっさと逃げるのだ。あの酔っ払い叔父さんに文句を言ってやろうと何日か待ち構えていたが、結局その叔父さんは現れなかった。

2018/08/25(土) いいかげんな人生の始まり
転居した奥田の住まいはバラックに近かったが、不満はなかった。住めるところがあるだけ有難く思えた。風呂は敷地の北側に木造の小屋が建てられ、五右衛門風呂が据えられた。その隣が仮設のトイレであった。湯を沸かすのは妹尾と同じく薪であったが、水くみはしなくてよかった。水道が敷設されていたのだ。これでわたしは毎日の水汲みから解放されたのだった。その上、わが家の前のご夫婦が薪炭を扱っていたので薪も採りに行かなくてよかった。但し、労力の代わりにお金が要るのだということがわかった。そこで、新しい仕事が間もなく始まった。母はなんと八百屋を始めたのだった。バラックを店に改造し、その裏に家を建てたのであった。檜の香りのする新居であった。だが、これらの家の建築費(借金)を支払わねばならない。こうして、わたしは毎朝4時半起きの青物市場5時半着という八百屋の仕入れが日課となった。青物市場は最初表町の鐘撞き堂の傍にあったが、後に青江に移設された。それからかなりの時を経て現在の築港に移設されたのだが、仲買の叔父さんや叔母さんたちは何かと親切にしてくれた。この親切は本当に有難かった。わたしは毎朝自転車の荷台に馬関籠を結わえ、その中に仕入れた物を積み込んで帰って母にわたすのだが、市場の人たちの親切がわたしの毎日を支えてくれていた。しかし、わたしの生涯で悔むべき点があるとすれば、毎日の仕事に追われて、わたしはわたしの生涯の目標を定めることがなかったということだ。残念ながらわたしの処世訓は「人には沿うてみよ。馬には乗ってみよ」という悪く言えばその場しのぎであり、よく言えばたおやかにその場を乗り越えようということであった。今思えば、職業にしても、医者になろうとか、弁護士になろうとかという目標は一切持たないで「いいかげんな人生」を歩んできたことは悔やまれる。とは言うものの「では、これまでのいいかげんな人生を否定」しているのか、と言われれば、そうでもない。これはこれで楽しく面白い人生であったやに思える。出鱈目でいいかげんな人生ではあったが「ネバナラナイ」という心の負担の少ない人生であったからであろう。

2018/08/22(水) 岡南小学校へ転校
転校して初めて登校した岡南小学校は妹尾小学校と同じく木造校舎だった。木造校舎に違和感はなかった。妹尾小学校も木造校舎だったのでこれが当時のわたしたちにとっては当たり前であった。周りには誰も知った者がいない。同じクラスではなかったが、皮手袋をこれ見よがしに手にはめた奴がわたしをにらみつけた。わたしはこれを無視した。転校したばかりで喧嘩というわけにもいくまいと自分を抑えた。そいつは近寄ってきて、わたしを皮手袋で押した。わたしは黙ったままでいた。「けんじよ。手をだすなよ」と自分に言い聞かせていた。誰かが「テツよ!」とそいつを呼んだ。「おお、こいつはテツというのか」と思った時、「オオ」と応えてテツはわたしの肩を押して離れていった。「やれやれ」とわたしは肩を落とした。そうはいっても緊張していた。1週間もすると友達は幾人かできた。一番最初の友達は上野君と言った。少し色黒の目が大きな子だった。それから杉野君、広瀬君などと友達になった。テツも近寄っては来たが彼に対してはわたしは中学時代も含めて何かの拍子にリベンジしそうなので”つかずはなれず”という付き合いをした。大人になってからもそうであった。当時、岡南小学校ではベーゴマが流行っていた。休み時間になると、机を前に集めて、教室の後ろに広い場所を拵えてそこにバケツを置き、その上に四角いゴム(ソフトボールのベースのようなもの)を敷いて、その上でベーゴマを闘わせて相手のベーゴマをはじき出した方が勝ちである。もちろん勝ったら相手のベーゴマをいただくのであるが、ある時、テツもやってきた。相変わらず偉そうな態度であるから、負けるわけにはいかない。少し勝っては少し負ける。一度には勝たない。だが、結果は勝つことになった。放課後も勝負だと言ったが、「いや、俺は帰るぜ」と言って相手にしなかったが、かわいそうなので少しだけベーゴマを返してやった。悔しそうにしてはいたが、それ以後、わたしには尊大な態度、及び喧嘩腰の態度はとらなくなった。杉野君は中学になると転校した。親父が刑務官であった。二日市の刑務所の周りでは広瀬君と3人でよく遊んだ。転居先の奥田でもしばらくして1級下の吉田君と友達になった。そして、母は奥田で八百屋を始めた。

2018/08/12(日) 転校
弓や矢も手作りながら本格的なものを作ろうと努力した。弓は竹をしならせるために火であぶった。矢は初めは竹の節を削って尖らせた。そのうち、自転車のスポークを中に仕込んだものも拵えた。鉄砲は傘の柄で根元部分にやすりで切れ目を作り、火薬を爆発する装置を作った。もちろんこれは銃の筒の部分であり、台座は木を削って拵えた。われわれが手榴弾と称するものも作った。ボルト二本と真ん中にネジを合わせるやつだ。まずボルトにネジを少しまく。そこへ運動会で使うピストルの紙管(爆薬)を入れる。そしてもう一方をボルトで締める。このボルトとネジを相手に投げつけるのだが、当たるとば〜〜んと音がしてボルトとネジが飛ぶのだ。竹で拵えた盾も作った。竹で拵えた盾を持ち、木で拵えた剣を腰に差し、腰に巻き付けた布袋には手榴弾を入れ、弓矢を持つ者と槍を持つ者とが対抗する部落の者らと闘いをする。何とも奇妙ないでたちである。しかし、これが大けがを引き起こした。矢が目にささり、大事件となった。こんな事件があった翌年の春、わたしは転校した。


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