たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2018/05/16(水) 里芋泥棒
ある秋の日のことでした。わたしたち家族は相変わらず粗末な夕餉の食卓を囲んでいました。煮た里芋がメインでした。食卓といっても今のような豪華な物ではありません。折りたたみのできる4本の足のあるちゃぶ台というテーブルでした。4人が座れば満席です。5人が座るととっても窮屈ですから隣の人が持っている茶碗を持つ左手とわたしの箸をもつ右手があたってうまく食べれないほど小さな黒塗りのテーブルでした。芋をつまんで箸を振りながら、姉がわたしに「あんたな、友達が来ても掃除の邪魔だけはせんようにな」と目を細めて言った。姉が目を細くして物を言う時は怖いのですが、続けて「わかった!?」と言いました。こういう時の姉はさらに怖いのでした。その時、母が「あのな」とみんなに話し始めた。「あのな、今日の芋はすこ〜しばかり不味〜てごめんな・・・。」すると、姉はわたしへの苦情の話しを打ち切って母に「今日は親芋を炊いたんじゃなあ。子芋はとっておくんかなあと思ったけど子芋はどこへ置いたんかなあ?」と尋ねた。それに答えて母は相変わらずゆっくりした口調で「せえがな、今朝畑へ行ったら里芋が全部盗られとったんじゃ。ほんまにびっくりしたわ。昨日の晩から今朝の暗いうちに盗んだんじゃろうなあ」「警察へ言うたん?」と姉。「警察は役に立たんじゃろう。せえでもな、よっぽど、困っとるんじゃろうなあ。戦争が悪いんじゃ。頭のええ人みたいじゃが生活に困っとるんじゃろうなあ」「なんで頭がええん?」「せえがな、こんな紙切れを置いてたんじゃ」と母は懐から達筆な筆跡の半紙を取り出して読みあげた」−子はそれぞれにい始末した。親を頼む」−「なによん、母さん。そりゃあ、バカにされとんじゃが」と姉。わたしと弟は黙って聞いていた。姉の攻撃から逃れてほっとした気持ちもあったが、泥棒を誉める母を初めて知った瞬間でもあった。姉は芋泥棒に憤慨していた。しかし、母は「まあ、里芋はまた来年じゃ。ごめん、ごめん。辛抱してな。ハッハッハ」と大笑いした。−子はそれぞれに始末した。親を頼むーがよほど気に入っていたのであろう。無謀な戦争をし、敗戦を迎えた戦後のひどい国民の生活苦の一コマであったと思われる。

2018/05/08(火) 南京事件
南京事件といえば、1937(S12)年12月に日本軍が中華民国の首都、南京市を占領した際の虐殺事件のことですが、およそ40数日〜60日の間に日本軍は中国軍の捕虜、敗残兵、南京城内外の一般市民などを虐殺したとされる事件のことです。この事件は欧米の報道機関が事件直後から報道しており、また、公式に日本は認めていますが、虐殺などなかったと否定する人もいます。わたしが言いたい南京事件はこの虐殺事件とは違って、とっても小さなことなんです。ナンキンが取れる時期になると、毎日毎日、朝も昼も夜もナンキンばっかりなのでした。「なあなあお母さんな。毎日日にち朝も昼も晩もナンキンばっかじゃ、顔も手も足も黄色くなってしまうよ。他になんかない?」と聞いた。この質問を母に聞く前には当然姉さんと呼んでいた叔母と4歳下の弟と話し合ってのことだった。わたしが母に苦情を申し上げた時には姉も弟も自分は知らないよというふうに横を向いていた。しかし、顔を横に向けていても耳はしっかりと立てていた。母の末の妹は母が育てていたのでわたしたちは一緒に暮らしていた。姉は炊事や洗濯、掃除が主な仕事であった。そこで、朝寝していたり、寝そべっていたりすると、姉はお前は掃除の邪魔だとよく箒で叩かれたものだったが、いじわると言うのではなく、優しい姉であった。わたしが小学校5年生の頃にお嫁入りしたように記憶している。毎日ナンキンばかりじゃなく他のおかずも考えて欲しいと3人が抗議したわけであるが、母は崩していた足をきちんと正座しなおしてわたしたちに次のように宣言した。「けんじ。よく聞きなさい。物は考えようで考え方も違ってくるものだ。朝はナンキン、昼はトーナス、夜はカボチャだと思いなさい。贅沢は敵です」と。・・・・・・!?わたしはよく理解できないままに黙ってしまった。

2018/05/07(月) チンチンイタイタ小便事件
裏戸を開けて右に曲がるとすぐ石造りの階段があった。右に下ると井戸があった。井戸を左に抜けると長屋があったが、この路地を抜けると少し大きな路地に出る。この路地を抜けて北へ向かうと岡山へと向かう大きな道に出ることが出来た。井戸から左にわが家を見ながら登ると小さな広場があった。ここには桐の木などの大きな樹木と神様を祭る小さな祠や瓦で拵えた神様が幾つか置かれていた。そのうちの一つがドウツウ様と言われていた蛇の神様であった。母からは常々「これらの神々に決していたづらはするな」と言われていた。わたしたちはこの広場ではチャンバラをしたり、西部劇ならぬ木で拵えたそれぞれが手作りした拳銃で打ち合いごっこをしていた。ある時、木登り試合をしようということになった。どんな方法でも構わないからとにかくてっぺん近くにあるカラスの巣から卵をとったものが勝ちだということになった。しかし、カラスの攻撃がきつくて誰も登り切れない。そこでわたしは釘倒しの勝負で得た五寸釘を家から持ってきて、金づちで木に五寸釘を打ち込み、竹剣を腰に登った。とにかく足掛かりになる枝に辿り着くまでが大変であった。カラスの攻撃は竹剣で撃退しながら、五寸釘で足場を固めながら登ったのだった。こうしてわたしはついにてっぺんへ登り詰め卵を手にした。だが、降りる途中でカラスの攻撃で卵を落としてしまった。しかし、わたしは遂に卵を取ったことは確かだった。が、しかし、木から降りると、みんなは卵を落として割ってしまったのだから「勝利者ではない」という。誰もがわたしの勝ちを認めないのだ。「五寸釘は卑怯ではないか」と言う者もいた。結局、わたしの勝ちを認めないまま「帰ろ!帰ろ!」とみんな帰ってしまった。なんとも面白くないわたしはドウツウ様におしっこをした。狙った訳ではないが、たまたまおしっこをしたところがドウツウ様の瓦の祠だったのだ。その日の夜、寝る前ごろからチンチンが腫れあがり、どうにもこうにも痛くて痛くて耐えられなくなった。母から「なぜ?」と理由を尋ねられて、「ドウツウ様におしっこがかかった」と告げた。その途端、母からピシャリとビンタを喰らい、「あれほどいたづらするなと言ったじゃろ」と厳しく叱られた。何だか知らないが薬を塗られたような気がするが詳細は覚えていない。数日後、腫れは引き、チンチンのイタイイタイは治ったもののほんとうにドウツウ様の祟りなのか、不潔な手で触った結果のバイキンの感染なのか原因はわからないがこの事件もいまだにわたしの中ではどちらが正しいのか結論を出し切れずにいる事件である。大方の方々の結論は「バイキン説」に軍配を挙げるのではないかと思いつつも。

2018/05/06(日) いぼいぼ飛んでいけ!茄子のヘタ事件
理由のわからない不思議な事がわたしには幾つかある。そのうちの一つがこの”このいぼいぼ飛んでいけ!茄子のへた事件”である。わたしたちは”イボガエル”と呼んでいたが、身体にイボイボがあるあのカエルである。綿を小さく丸めて糸に結わえてこいつにやるとすぐにパクッと食いつくのだ。そして綿をくわえて釣りあげられる様子がまたなんとも情けなく愛らしいのだ。釣りあげては手でカエルをつかんで離し、また次の奴を釣り上げる。次の日には顔も手の甲もイボイボだらけになってしまった。気持ちが悪いと友達からも言われるので気にはなったがどうすべきか術がわからない。かなり長い間このイボに悩まされた。ある時、母が「アホ―じゃなあ、ケンジは。カエルばあいじめるからじゃ。イボは茄子のヘタをイボに擦り付けて屋根の上に投げ上げるんじゃ。そうして神さんにイボイボ飛んでいけ〜!とお願いするんじゃ。そうしたらイボがとれるそうじゃ」と言うので、茄子を切って、ヘタをイボに擦り付け、
「イボイボ飛んでいけ!」と神さんにお願いして、屋根の上に投げ上げた。すると、数日後にはあれほどたくさんあったイボがすっかり取れてきれいになった。しかし、イボガエルはイボイボのあるカエルの総称であって触るとイボが出来るものではないとのこと。ヒキガエルは腫れものができるとの言い伝えがあるものの皮膚腺からの有毒な分泌物は手で握ったくらいでは分泌されないという。ではツチガエルは?ツチガエルは皮膚の独特の臭いが手に移るのを嫌ったためにそう言われたとの言い伝えがあるそうだ。すると、わたしのイボの原因はカエルではないということになる。とすれば、原因は”伝染性軟属腫”というヒトパピローマウイルスによる感染と言うことになるがどこで誰から感染したかその経緯に思い当たる事はない。このイボイボは魚の目でもなく、老人性角化腫でもなく、水疱瘡でもなく、フォオダイスでもない。それでは、やっぱりウイルス?う〜〜ん????やっぱりカエルだなあ。では治ったのは茄子のヘタ?でもホントに薬も手術もせずに治ったの?と聞かれる。そう、グルタルアルデヒドなどの薬も、外科手術も、ハト麦エキス服用もやらなかった。治療法に茄子のヘタなどはないと友人の医者はいう。では、偶然に自然治癒と茄子のヘタが重なった?う〜〜ん?やっぱり茄子のヘタじゃないかなあ?と疑問に思いつつもそう思う。まことに不可思議な”イボイボ飛んでいけ!茄子のヘタ事件”であった。いまだに原因も治癒の理由もわからないが、これと同じく不可思議なのが”小便事件”であった。

2018/05/04(金) 逆立ち事件
隣町は”峰”というところでした。ここにも同級生や上級生がいました。親たちが仲が良くないのでしょう。ずっと昔から水争いなどがあったからかも知れません。近所の親の受け売りでしょうが、われわれは”峰の奴らが”と彼らを呼んでいました。彼らも多分仲間内では”藤野の奴らが”と呼び捨てていたに違いありません。根性のねじれた了見の狭い部落意識といさかいが字の違う部落同士で常に存在していました。パッチンにしても、釘倒しにしても、三輪車の坂下りにしても、凧揚げや石投げなどありとあらゆることが”あいつらに負けてなるか”ということになってしまうのでした。字が違えば”よそ者”という古来から日本に根付く郷土主義がそうさせていたのでした。ある時のことです。峰の岡やんが逆立ちをして見せました。すると峰の仲間4人が一緒に逆立ちしました。こちらは3人でしたが二人はすぐに逆立ちをして返しましたが、わたしは逆立ちが出来ませんでした。藤野町の二人が{やれ}というのでわたしも逆立ちをやろうとしますが、バッタリと裏返ってしまいます。恥ずかしいやら悔しいやら顔は真っ赤になっています。しばらく経ってからターランが宣言しました。「来月の3日にもう一度ここで逆立ち大会をやろう!藤野町は6人だ。峰も6人そ揃えて来い。いいな!」と。”えッ!なんで?”と思いましたが、もう後戻りはできません。それから1カ月間は毎日毎日逆立ち尽くしでした。しかし、最初はなかなかコツがつかめませんでしたが、そのうちコツがつかめてきました。すると、逆立ちで歩くこともバック転も出来るようになりました。逆立ち試合の日は峰の6人と藤野町の6人は逆立ち歩きの距離も時間もほぼ互角の出来となり、わたしが出来た時には峰の岡やんが手を叩いて誉めてくれました。その時、峰の数人が顔をしかめました。もちろん岡やんに対してです。”なぜ、岡やんは藤野の奴を誉めるのか”と彼らは思ったのでしょう。でも、それ以後わたしは岡やんと二人きりの時は仲のいい友達になりました。こうした思い出はいっぱいあるのですが、{いぼいぼ飛んでいけなすびのヘタ事件」や「南京事件」「小便事件}もなかなか忘れ難い思い出です。


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