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2018/03/30(金)
やっと奥田へ
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こうして父と母が命からがら逃げのびることができた岡山大空襲はさらに8月6日の広島への原爆投下、9日の長崎への原爆投下、15日の終戦詔勅へと最悪の47日間を残すこととなった。岡山大空襲の被害状況は罹災面積7.69km2(市域の73%)、罹災戸数12,693戸、罹災者数約12万人、死者1,737人、負傷者6,026人とされているが、研究者はこれよりも被害が大きかったと指摘している。この空襲で岡山城(別名は烏城、また金烏城ともいわれた)も炎上、焼失した。このように岡山市が焼け野が原となった中を父と母はわたしを背負い、三門駅から岡山駅へ、そして奥田へと重い足を引きずりながら歩き続けた。まだ煙が立ち上る廃墟の街はまた死者で溢れていた。西川、枝川にも死者が溢れていた。燃え上がる家屋と降り注ぐ焼夷弾の暑さと恐さにたまらず川に飛び込んだ人たちは熱湯と化した川の中で死んでいた。燃え盛る炎と煙は人々に息さえさせなかったであろうと思われる。地獄絵図さながらの光景の中を父と母は奥田へと向かったという。奥田は焼夷弾の被害から逃れていた。夕刻に奥田に着いた父と母と親族、友人、知人は疲れた顔で無事を喜び合ったという。奥田には母の弟が大工の見習いとして勤めていた棟梁がいた。
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