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2018/11/04(日)
音入れ
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ある日のことである。学校から帰ると、いつものように母のところには数名の人がいた。八百屋の店を入った左手に吹き抜けの6畳間があり、冬は炬燵を、春、夏、秋は小机を置いて、接客をすると同時に会計場としていたが、そこには大抵近所の人や親戚の人たちが集っていた。いつものように「お帰り」「ああ」と挨拶をかわした。すると母が「けんじ。饅頭をお食べ」と言う。{ああ」と言って、靴を脱ぎ、座敷に上がって、饅頭をいただいていると、「けんじ。お茶が無くなったからお湯を沸かしてきてちょうだい」と母。「ああ」と返事してわたしは台所へ行き、やかんに水を入れ、お湯を、沸かした。このころは便所は外では無く店とは廊下続きの裏の家の中にあった。お風呂ももちろん家の中にあった。台所も土間ではなく板間となっていた。日米安全保障条約を岸信介が全権として調印した年(昭和35年)である。民主社会党が結成され、西尾末広氏が委員長となった。社会党が分断されてその力を半減させられたと言ってもよいだろう。そしてこの年は安保条約反対闘争も激しくなっていた。女子学生の樺美智子さんが全学連の国会突入の中で死亡した年でもありました。そして、7月には岸内閣が退陣し、池田隼人内閣が誕生しました。「貧乏人は麦飯を食え」の発言や「所得倍増計画」を打ち出したことでも彼はよく知られています。そしてまた浅沼稲次郎氏が刺殺された年でもありましたが、高校1年生のわたしはこうした社会情勢とは無縁の生活を送っていました。お湯を沸かして店にもどり、母にわたすと、母はお茶を入れ始めました。その時、「おといれを貸してください」と言って立ち上がる女性がいました。わたしは「へ〜〜。おならをするのに恥ずかしいから便所でするのか」と思いました。母は「どうぞ。奥へ入って突き当りよ」と応えました。当時のわたしは・便所・厠の知識しかありませんでした。しかも、・トイレに・おをつけることなど想像もしていませんでしたからこの「おトイレ」を「音入れ」と勘違いをしていたのでした。しかし、母はさすがです。「おトイレ」を知っていたようです。母にはおならにまつわる話がもう一つありましたが・・・。
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