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2018/10/17(水)
1年生の教科書とにらめっこ
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とにもかくにもわたしは1年生の教科書を読んだ。小説も読んだことが無ければ、教科書もまともに読んだことがなかったわたしには初めはとっても苦痛な作業であった。特に、暗記物は苦手だった。今でも自分は物覚えがよくない。英語などはとてもじゃないがついいていけないし、理科や社会もそうであった。とにかく暗記物は苦手なのだ。数学はそれでも「なぜそうなのか」がわかると先生が教えてくれた方程式以外でも解けることがわかった。方程式に頼らなくても、覚えなくても解答が引き出せるのだ。これは面白かった。途中はともかく答えは同じなのだから先生が方程式どおりじゃないと言っても解は正しいのだから「違うぞ、違う」と首を振る先生に従う必要はなかった。問題はスピードである。百マス計算のようなことを必死にやった。小学校の頃、妹尾で2年ほどソロバンをしていたおかげで暗算が役立った。不真面目といえども経験していればそれなりに将来役に立つことがあるものだ。音楽はこれまた苦手だった。音符がさっぱりわからない。家庭科はよくわかった。図工はまあまあというところであった。当時の受験は9科目であった。国語は教科書を読んでいくうちに漢字力がついてきたように思われた。妹尾では田畑賢司の賢が書けなくてひっぱたかれたほどであるから漢字を覚えることにはトラウマがあった。その点では、芸術性には欠けるが、英語などのようなアルファベット使用は暗記に無駄な労力を使わないでいいと思える。しかし、2年生の授業を受けながら1年生の教科書を勉強するというのはなかなか難しくもあったが、少しづつ慣れてきた。人間にとって慣れるというのは良いことである。但し、慣れて気を抜くと現場では事故を起こす素になるのではあるが。そう、気を抜かなければいいのだ。こうして岩戸景気を謳歌する前年となる昭和33(1959)年は過ぎた。この年、東京タワーが完成し、教師の勤務評定反対闘争が激化し、文部省は道徳教育実施要項を発表した。戦後13年目にして日本の為政者たちは国民をアメリカと自分たちに文句を言わないような「良い子ちゃんづくり」に力を入れ始めたのであった。日米安保条約調印の2年前という年を意識してのことであろう。このような時代とも知らず、わたしは中学3年生になった。昭和34年4月を迎えても、わたしにさしたる変化はなく、わたしは1年生の教科書とまだにらめっこをしていたのであった。どんなに成績が悪くても中学校は進級させてくれるが高校はそうはいかないことは高校生になって身をもって実感した。しかし、中学校は違うのだ。桑田中在籍のわたしの身内は校長から「学校に来なくていいから」と2年生の途中から来校差し止めのお達しと学校に来なくても卒業させるとの勅許をいただいている。さて、このようなわたしにも3年生になってある変化が訪れた。
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