たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2016/12/25(日) 足立たば(2)病床六尺
正岡子規が亡くなった日は1902(明治35)年9月19日。この年は「病益々重く殆んど危篤状態に在り。原稿は門下をして筆記せしむ」と記されています。2日前まで書いた、つまり筆記させたという随筆が「病状六尺」です。5月5日から9月17日まで136日間の記録ですが「病床六尺、これが我が世界である。しかも此の六尺の病床が余には廣過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめれて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、其れでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其れさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない」で始まる。ここから彼の病状の程度が重篤であると理解できるのであるが文面からは明るさも見える客観性を有している。これほどの苦痛に苦しめられながらも彼の精神的強さ、明るさはどこから来ているのかとわたしはいつも不思議な思いに囚われるのです。

2016/12/21(水) 足立たば(1)
正岡子規の歌に「足立たば・・・」で始まる和歌が8首あります。わたしはかねてよりわたしの足が立つうちに出掛けてみたいと思う所でもあります。わたしの願望を成し遂げるための準備としてそれらの歌をご紹介しておきたいと思うのです。
まず第一は、
足立たば大和山城うちめぐり須磨の浦わに昼寝せましを
です。歌の意味は明瞭で、わたしが元気で足が立つならば奈良、大阪、京都の古寺や名所を巡ってその旅の最後に須磨の浜辺で昼寝をしたいものだ、というくらいの意味です。歩くことが思うにまかせない彼にとっては切実な願いでした。
子規は慶應3年9月17日(1867年10月14日)生まれで名を常規(つねのり)といいました。後に升(のぼる)と改めています。諸説ありますが「野球を自分の名前のノボルからノボール、つまり野球としたという逸話」は有名です。彼が死を迎えるまでの7年間は結核を患い、同時に結核菌が脊髄を犯し、脊髄カリエスを発症していたのです。明治29(1896)年のことです。29歳だったでしょうか。彼は俳句中興の祖とも言われますが、和歌に於いても彼が革新をめざして始めた根岸短歌会が後のアララギへと発展したことでも知られるように和歌の革新、発展にも貢献しています。
富士のねに咲ける薊を吉備にある親に見せんと君思はずや
南(みんなみ)の伊予のいでゆは遠つ神六代(むよ)の帝のいでましどころ
吉備と彼が生まれた伊予に関する歌を2首ご紹介しましたが、彼が病床のうちに苦闘した一幕を「足立たば」を通して考えてみたいと思います。

2016/12/18(日) 寂しさの果てなむ国ぞ
シリアのアレッポをアサド政権とロシア軍が制圧したという。大量の死者及び避難民を出しながら政府軍と反政府軍とが戦争を繰り広げている。反政府軍はアメリカ軍が支援している。まるで米ロの代理戦争である。日本が自衛隊を送り出しているアフリカのスーダンも政府軍と反政府軍が戦争をしている。犠牲者は一般の人たちである。ありもしない大量破壊兵器を捏造してイラク政府を打倒したブッシュのアメリカ、これを確かめもせず追認したイギリスや日本の小泉総理たちは罪に問われないのか。このためイスラム国が生まれテロを繰り返している。アサド、プーチン、ブッシュ、オバマ、小泉・・・たちは民間人を殺戮した罪には問われないのか。国際法は戦争を始めた罪を裁くことは出来ないのだろうか。何のために国連はあるのか。各国から武器使用を禁じる国際法を作るべきではないのだろうか。侵略する罪、平和に違反する罪、民間人を殺戮する罪が何故裁かれないのか。
幾山川越えさり行かば寂しさの果てなむ国ぞ今日も旅ゆく 

2016/12/16(金) プーチン来たるも領土返らず
御仏の御鼻の先へつららかな  一茶
路傍の仏さまであろうか。有り難いご利益を下さる仏さまが鼻水を垂らしたように鼻先に氷柱をぶら下げてござる。なんとも悲しいお姿でございます。この一瞬を見逃さないのが俳人・一茶の凄さです。この仏さまのつららを下げたお姿を想像してみてください。
さて、ロシアの大統領プーチン氏が来日して昨日、今日と二日間安倍総理と会談されました。安倍総理が以前から協力を申し出ていた経済協力などの8項目が合意され、調印されたとのことです。しかし、肝心の国後、択捉、色丹、歯舞諸島の返還は安倍総理の記者会見での発言によれば「未来志向の協力で一歩前進した」とのこと。しかし、プーチン氏は「平和条約を締結して歯舞、色丹を返すとの過去の約束がある。手続きはこれに沿う必要がある。平和条約がないことは問題だ。だが、安保条約の問題も日本は抱えている。まず友好と信頼に足るパートナーにならなければ」と軽くいなされた。御仏の御鼻の先のつららのように安倍様の有難い御鼻の先にシベリアのつららがどっさりつけられた。一方、プーチン氏は温泉に入って、お酒をいただいてごゆっくりとされたそうな。多大な税金を浪費されてご愁傷様でした。
冬ざれやプーチン来たるも領土返らず

2016/12/15(木) 変革のための意思と力
海底(うなぞこ)に潜む勇気や冬ざるる
辺り一面冬の寂しい季節となってきました。海も波が高く寒々とした光景となりました。トランプ大統領の就任を間近に控え、NYも東京も株高に沸いています。まるで小春日和のお正月のようです。しかし、来年後半から再来年にかけては強風を伴った氷霰や時雨に見舞われる冬本番の中にわれわれがいるような気がしてなりません。英国は民族や国家の壁を越えようとの壮大な実験でもあるEUを離脱する道を選択しました。アメリカ国民はアメリカ第一主義のトランプ氏を大統領に選びました。自国の保護主義です。オーストリアでは破れはしたものの極右の代表が半数近くの支持を獲得しました。イタリアもそうです。首相が辞任しました。フランスやドイツも移民反対勢力として右翼が力を増してきています。
一方、シリア内戦でのロシアの軍事力、アジア及び世界での中国の軍事力を背景にした台頭に見られる緊張関係の増大があります。貿易戦争は避けられないと思われます。
一方、その奥深くに世界秩序を取り戻そうとの芽生えも見えます。また、その芽生えの成長を期待しています。
沖の石のひそかに産みし海鼠かな  野村喜舟

2016/12/14(水) 枯枝を折る音
薪焚いて風呂入る吾や今もなお  
妹尾の友人は今なお薪で焚く風呂を使用している。友人はこれがポカポカと気持ちいいのだとご満悦である。薪は住宅の工事中の端材や不要になって切り倒した樹木それに選定枝などをもらってきてストックしているという。昨日、周囲にたくさんの薪をストックしている家を見かけた。わたしの友人と同じように薪で風呂を沸かしているに違いない。そして、家の形状からすると薪ストーブで暖を取っているに違いないと思われた。わたしが小学生のころの我が家も薪で焚く五右衛門風呂であったが、水汲みと風呂焚きはわたしの仕事であった。その頃は水道が無く井戸であった。井戸と風呂との間を両手にバケツを持って何往復もしなければならなかった労働は小学生にはとてもきつかった。それでもお爺さんが「けんじ。いい湯だぞ。ありがとう」と褒めてくれると嬉しい気持ちになったものである。追い炊きする時の枯れ枝を折る音も気持ちがよかった。
枯枝ほきほき折るによし  尾崎放哉  

2016/12/13(火) いつか極道身を離る
鯛焼やいつか極道身を離る  五所平之助
五所平之助さんは映画監督の大御所である。「伊豆の踊子」や「マダムと女房」「今ひとたびの」などの代表作でその名はよく知られています。俳人としても久保田万太郎氏の指導を受け、俳歴は長いようです。
五所さんは縁日にでも出かけたのでしょうか。それとも街をぶらついていて鯛焼き屋が目についたのでしょうか。わたしは縁日に出かけてふと目についた鯛焼きを買ったのだと思います。見ただけで通り過ぎたのではないのです。尻尾まで餡のつまった熱くて甘い鯛焼きを口にしながら子供のころを思い出したのではないでしょうか。子供のころを思い出せば反転して自分の今の年が思われます。一瞬、わが生涯が走馬燈のように脳内を駆け巡ります。そんな風景の中の一つが若いころからの極道癖です。賭博、麻雀、パチンコ、喧嘩、酒、キャバレー通い等々の風景が思い出されて「ああ、俺も年を寄せたなあ。いつしか極道もしなくなったなあ」という思いを強くしたのではないでしょうか。
わたしも最近時に強く感じる思いなのでこの句に同感しています。
鯛焼や尻尾までの餡確かめて  

2016/12/12(月) 吉備津の女郎墓 
女郎墓や吉備津宮向く枯尾花  けんじ
吉備津神社の北側の山の中腹に苔むした一群の女郎墓がある。吉備津神社の門前町に女郎街があったのだと岡山市議会の矢木先輩から聞いた。彼は歴史が好きでまた造詣も深かった。確かめても見たが間違いないようであった。彼女たちの苦労がいかばかりであったか。計り知れないほどの苦しみであったに違いない。性の病気や肺結核やさまざまな病気が彼女たちを苦しめたに違いない。そんな彼女たちが亡くなると吉備津宮の北側の山の中腹に葬られたのである。彼女たちの恨めしい思いが吉備津宮の方に墓を向かせているのかも知れないと思う。昭和31年5月24日、売春防止法が制定され、翌年の4月1日から施行された。この法律によって売春は処罰されることとなり、売春を目的とした業務は廃止された。売春がいつの時代からあったかは定かではないが、江戸時代のはるか以前から行われていたと考えられる。そして昭和32年といえばわたしが中学校2年生のころまであったわけで岡山市中島の女郎の話は大人からよく聞かされたものである。得意げに鼻を膨らませて語る大人たちの顔は粗野で下品であった。女郎たちも成りたくて成ったわけではないだろうにと思いながら聞いていた。真金の十字路を東に向かいながらふと思い出したので吉備津宮の参道に車を乗り入れ、北斜面の墓のある方角を見やった。すると一陣の風が通りすぎた。慌てて襟をすくめた。

2016/12/11(日) 熟柿考
熟柿落つ吉備路の寺のさびしさよ  けんじ
柿は日本で最も発達した果樹である。もちろん中国や朝鮮にもあった。渋柿がもともとの柿であり、渋を抜き甘くして干し柿として食用された。今日まで続く美味しい食べ物である。この渋柿を鎌倉時代から甘柿にしようと品種改良が重ねられてきた。この美しい朱い紅色の実(赤き実からかきとなったとする説あり)は日本の秋を代表する色彩(いろどり)でもある。この色彩と美味しさが19世紀に日本から南フランス、米国カリフォルニア、ブラジルなどに伝わり、果樹園栽培がおこなわれているという。和食の世界への広がりと同様にうれしい気持ちにさせられる事実である。柿渋や柿酢も楽しくうれしい加工品である。わたしは柿渋染が大好きである。だが後記の如き風景が失われてゆく日本をさびしくも思う。
柿うるる夜は夜もすがら水車   三好達治

2016/12/09(金) 明日を夢見て
安養寺の銀杏の樹もすっかり葉を落としてしまった。樫や椎の木たちもドングリはもちろん茶葉を震い落として散歩する人や風や小鳥たちと寒いねえと話し合っている。美しかった紅葉も葉を縮れさせている。もうすっかり冬だ。またこの冬も樹木たちは休眠に入った。だが、よく見ると来る春に備えて萌ゆる芽を育んでいる。梅や櫻の木などの花芽はしっかりとふくらみを増している。再生の力を秘めて木々はくろぐろと冬を迎えているのだ。
落葉して木々りんりんと新しや      西東三鬼
落葉踏むけふの明るさあすもあれ    水原秋桜子

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