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2016/11/25(金)
日露の領土問題について(23)
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1973(S48)年10月、田名角栄首相とブレジネフ共産党書記長との会談がおこなわれた。そして、日ソ共同声明がだされた。その内容は「第二次世界大戦の時からの未解決の問題を解決して平和条約を締結する」というものであった。日本政府はこの共同声明から田中・ブレジネフ会談で領土問題は未解決とのブレジネフ書記長の言質を得たと認識したが早合点であった。ソ連国内での反発が根強かったのであろうか、日ソの共同文書に領土問題が明記されることはなかった。しかし、1991(H3)4月、ゴルバチョフ大統領が来日した時、領土問題の存在を公式に認め、翌翌年10月に日露首脳会談が開催され、東京宣言が発表された。日露はこの共同文書で「国後、択捉、歯舞、色丹4島の帰属問題について両国間で作成された文書や法と正義の原則に基づき解決することで平和条約を早期に締結するよう交渉を続ける」とした。この合意によれば、法と正義の原則に照らして樺太と千島列島を交換した日露通行条約及びカイロ宣言に立ち戻って全千島列島返還で解決するという主張は正当であるということになろう。しかし、日本政府はその後も4島に固執し、ロシア側は2島の枠を崩さない状況が続いている。議論の前提が法と正義の原則に沿っていないからである。
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