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2016/11/24(木)
日露の領土問題について(22)
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日ソ共同宣言で歯舞、色丹の2島譲渡を締結したものの国内の反鳩山派の反対とアメリカの4島主張の要請もあり、日本側が4島返還を主張したことにより2島譲渡は漂流することになった。その4年後の1960(S35)年、日本は日米新安全保障条約を調印したが、国内ではその前年から反対運動が激しくなった。その主な改定点はアメリカの日本の防衛義務を明確にして強化するとともに日本も自助と相互援助の義務を負うことであった。これに反対する行動は60年安保闘争と呼ばれた。6月15日の条約批准日には11万人のデモ隊が国会周辺を取り巻いた。右翼の一隊がデモ隊と衝突。こうした緊張した雰囲気の中で全学連デモ隊が国会構内に乱入し、警視庁機動隊との乱闘の中で女子大生が圧死した。こうして岸(現首相安倍氏の祖父)内閣は総辞職することとなった。しかし、ソ連はこの安保条約改定を受けて日ソの領土問題の解決交渉を打ち切った。2島を譲渡すれば歯舞、色丹はアメリカの軍事支配下になるからであった。そして「領土問題は日本側の捏造であり、当初から領土問題は存在しない」と表明した。日本政府(第一次池田内閣)もソ連との間の問題は領土問題が解決しなければ何もしないとの立場をとった。こうしてこの日ソ領土問題は暗礁に乗り上げたのであった。次の進展は田中内閣の時であった。
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