たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2015/05/21(木) 安倍のあかんべを許すな
今国会で初めての党首討論。戦争法案ではないと言い逃れに腐心する安倍首相肝いりのわが国の安全保障関連法案について「海外での武力行使をするや否や」と各党党首が安倍首相を質した。中でも特筆に値すると思われたのが日本共産党の志位和夫委員長の質問。前回衆院選で躍進した志位委員長が約11年ぶりに参加資格を回復。志位氏は党首討論で先の大戦に関する歴史認識を首相に問いただした。彼がポツダム宣言を引用し、「日本の戦争は間違った戦争だと明確に示した」と指摘したのに対し、安倍首相は「つまびらかに読んでいない」と答弁を回避した。「ポツダム宣言をつまびらかに読んでいない」との安倍表明はわが国の首相としてはありえない話である。事実であるとすれば首相としての資質はないと言わざるをえない。歴史認識について答えたくないからそう答えたのだと言うのならば国民を馬鹿にしているとしか言いようがない。そして、安倍氏が「先の大戦の痛切な反省によって今日の歩みがある。我々はそのことを忘れてはならない」と強調しているその言葉の本質は実はあれは「忘れた」のだ、あれはリップサービスなのだと証明して見せたことになる。安倍氏の祖父、岸信介元首相は戦犯として捕らわれてもいた。もし、岸信介氏がこの答弁を聞いたならば「聖戦であったと言え」と激怒したに違いない。だが、われわれ国民は彼の国民に対してのこのような不遜な態度を許してはならない。再び日本の兵器で自国民も、他国民も、人の血を流してはならない。

2015/05/20(水) ホタル
西暦57年の「漢委奴国王」の金印紫綬の件はひとまず終了。次はまたの機会に譲りたいと思います。さて、ここ1週間の楽しみは午後8時からです。えっ!TVかって?いえ、ゴールデンタイムではありますが、残念ながら不正解です。えっ!じゃ食事かって?そうですねえ。野菜はいろいろ育っていて美味しいですよ。でも、不正解です。えっ?めんどくさいから早く言えって!わかりました。正解はホタルです。8時ごろになるとホタルが現れます。わが家の前の日近川のホタルたちです。わが家の明かりを暗くすると居間からホタルが幽玄の舞を舞い始めます。午後8時半過ぎからホタルたちは川からわが家を越えて裏山に登っていきます。ラブストーリーの始まりです。もちろんTVもスイッチを切っています。この音のない沈黙の世界がわたしの最近の楽しみの一つなのです。ご興味を持たれた方はご一報ください。090−9062−4677までお気軽にどうぞ。ではまた。

2015/05/15(金) 卑弥呼は倭奴国の継承者であった!?
倭国大乱の中で卑弥呼が共立され、大乱が収まったという。倭国大乱は146年〜189年、卑弥呼共立は178年〜184年とされている。卑弥呼共立から最大で11年、最少で5年で倭国大乱が終息したということになる。なぜ卑弥呼が共立されたのか?なぜ卑弥呼共立により大乱は終息を得たのか?男王ではなくなぜ女王であったのか?(3)の答えはこれらの疑問の中にあると思われる。卑弥呼は金印を紫綬された倭奴国の王族の一員であったのではないか!とすれば、彼女の生まれは筑紫国ということになる。そして、彼女は魏志倭人伝にいう鬼道、つまり太陽を神とし、その王族は綿津見神を奉ずる神事に通じた未婚の女性だったのではないか!崇神天皇の時代に未婚の皇女の中から伊勢の天照大神にお仕えする斎王と呼ばれる女性を選ぶことが始まっていることからもその風習が受け継がれていると思える。卑弥呼が共立されるにふさわしかったかどうか?は彼女の出自が王族継承者の一人であるとともに神事に精通していたことにより各国の王の合意が得られたのではないかと思われる。そうであればわたしも合点がいく。

2015/05/14(木) 金印埋納は志賀島でよかった
今日は天気予報では晴れのち曇りの予報であったにもかかわらず朝方曇りでその後激しい雷を伴った雨となった。おかげで今日の農作業は予定が狂ってしまった。残念!さて、それでは(2)はどうであろう。志賀島は博多区役所から東北に向かい、香椎宮を経て、新宮町を左に折れ、海の中道を通って達する博多湾の入り口であり、玄界灘に面している。元寇の際の攻撃拠点ともなった場所でもあったように倭国にとっては最も重要な外交・軍事上のレーダー拠点のような場所であったと思われる。また、当時最大の輸送・移動手段は船舶であったはずである。陸上の移動手段は徒歩である。荷物の搬送もなかなかままならなかったはずである。魏志倭人伝には「倭国には牛や馬、虎がいない」と記されている。とすれば、荷物の搬送手段は人力に頼らざるをえない。となれば、やっぱり船だと言わざるをえない。そうであれば、航海の安全は当時の為政者にとっては死活に関わる問題であったに違いない。こう考えてくると、綿津見神はこの当時の神々の中でもとりわけ重要であったに違いない。そして、倭国の重要拠点であったと思われる志賀島に金印が埋納され、神事が行われていたとしても不思議はなかったと思われる。よって(2)もクリアーされるとわたしは考える。

2015/05/10(日) 神にも等しい先進国・中国
今まさに田植え前の農繁期。諸事忙しく気ぜわしい。古代の機械化が進んでいなかった人力中心の弥生時代の忙しさは想像を絶するほどであったと思われる。さて、魏志倭人伝にみられる「倭奴国」が記述上では「倭奴国」であるが、国名を著わした倭国の中の「奴国」と侮蔑した呼び方としてのな・「奴」を加えた「倭国」と二通りあると解すれば21か国の最後に「倭奴国」がもう一度出てきても不思議はなくなる。そして、筑紫国が九州を統治する国(白日別・しらひわけ)であるとすれば、北部九州が卑弥呼の邪馬台国であったと推察される。卑弥呼の部族神が綿津見神の神であったことは記紀により明確になってきた。問題は(1)倭国にとって後漢の光武帝より下賜された(西暦57年)金印がどれほど大切なものであったのか?今の時代のわたしに実感できないこと。及び(2)志賀島叶ノ浜の叶ノ崎に何故埋納されのか?ということ。(3)57年の倭奴国の神が綿津見神であったのか?つまり、魏志倭人伝(3世紀後半成立・撰者は晋の陳寿)の卑弥呼の邪馬台国が後漢書( 5世紀前半成立・撰者は南朝宋の范曄)に記されている57年の倭奴国のことかどうか?ということである。(1)については、当時の倭国にとってみればとてつもない大大国中国は文明先進国であって、その各王朝の王は神様にも等しいほどではなかったかと推察される。では(2)はどうであろうか?

2015/05/05(火) 倭奴国とは?
今日はこどもの日だ。鯉幟を上げるお家も少なくなった。この界隈でも1軒のみである。古代の子供たちはどんな遊びをしていたのだろう?志賀島では貝堀をしていたに違いない。5月だもの。さて、「漢委奴国王」の金印はなぜ志賀島に埋められていたのか。倭奴国と邪馬台国は一緒なのか。それとも違う国なのか。印綬は伊都国にされたのか。奴国にされたのか。もういちど戻ってみなければならない。伊都国説の問題点は「奴」は(な、ぬ)とは読むが(と、ど)とは読まない。だから学校で教えている通り「かんのわのなのこくおう}と読むのだというのが奴国説派だ。これに対し、伊都国説派は上古北方漢音では(と、ど)と呼んだのだと主張し、「かんのいとこくおう」と読むのだとしている。今一つの相違点は、奴国説派の21か国中最後の奴国を2万余戸の奴国と著者が間違えて記述したというのに対し、伊都国説派がそんな単純なミスをするはずがないと指摘しいる点だ。これに対し、小平氏は「倭奴」の奴は蔑称であり、倭国を指すと第3の説を唱えておられる。金印は一体なぜ志賀島に埋められていたのか?倭奴国とはどこなのか?が問題である。藤堂明保氏編になる「学研漢和大辞典」によると、「奴」は中国上古音では「nag」と発音し,中国中古音では「no」(ndo)と発音したという。時代でいうと金印の印綬された後漢の時代は上古音であり、中古音にあたる隋・唐の時代でも主流は(の)の音としている。(ど)音はカッコつきだとしている。そうすると、伊都国説は「ない」と判断せざるをえない。

2015/05/04(月) 綿津見神は志賀島だった
昨日は朝早くから町内総出で畔の草刈、水路清掃、空き地の草刈り等をおこなった。古来からおこなわれてきた田植えの前の一大行事ではなかったかと思われます。午後から降り続いた雨も今朝は上がり、今はまだ曇っていますが、まもなく晴れてくるのではないかと期待しています。さて、住吉大神は日向の小門(おど)だというところまで辿りつきましたが、阿曇連(あづみのむらじ)はどこで綿津見の神々をお祀りしていたのだろう?もういちど小平氏の調査結果にもどってみよう。彼は「古代より阿曇家が祭ると伝えられ、現代に至ってもその子孫が祭祀を執り行っている神社は全国に1社しかない。福岡市志賀島の志賀海神社である。住所は福岡市東区志賀島字勝山877番地。旧官幣大社(宮内省による戦前までの制度)であり、底津綿津見神、仲津綿津見神、表(うわ)津綿津見神を祭っている。宮司は2008年1月現在、阿曇磯和氏である。神社の由緒も古事記に見られる綿津見神の3柱を神裔阿曇族によって奉斎されている」と記しています。間違いなく志賀島なのです。邪馬台国・卑弥呼の神々である綿津見神々を奉斎する志賀海神社まではやっとたどり着きました。それでは卑弥呼の邪馬台国は「漢委奴国王」の金印が印綬された倭奴国と同一なのでしょうか。倭国大乱は146年〜189年。卑弥呼共立が178年〜184年。金印印綬から卑弥呼共立まで約120〜130年という時の経過があるのです。そのうえ、倭国は卑弥呼が共立されるまでの間、大乱の時期を経ているのです。倭国大乱により金印は遺棄された説も説得力がないとは言えません。中国は後漢の時代、朝鮮半島は弁韓、馬韓、辰韓の時代である。志賀島が博多湾の入り口であり、蒙古の元が攻めてきた歴史を語る蒙古塚も残されている志賀島は当時の重要な地であったことは間違いないはずです。

2015/05/03(日) 住吉大神は日向の小門
岡山市を流れる旭川の河口近く(福島)の河川敷にも住吉さんがある。航海の安全を守る神様だと子どもの頃聞いた覚えがある。本家は大阪市住吉区にある住吉大社であり、もと官幣大社であったという。しかし、そもそもはここではなかったと聞いている。神社縁起及び日本書紀では、神功皇后が三韓征伐の帰り道に新しくこの地にお祀りしたのだとのこと。それでは元はどこに置かれていたのかということになる。小平氏は「日本書紀にによれば、その場所は住吉大神と別名同一神である表筒男、中筒男、底筒男が居た所となるので、日向国、橘、小門(おど)の水底である。古事記及び日本書紀に見る天照大神と同じ所であることから、2代目天照大神(卑弥呼の後継者”台代”)の出身部族(南部日向豪族)の部族神である」と比定している。日本書紀にはイザナキノミコトは筑紫の日向の小門の橘のアワキ原に来られて・・・底津綿津見の命、中津綿津見の命、上津綿津見の命(阿曇連達が祭祀をおこなっている)と底筒男命、中筒男命、上筒男命(住吉大神のことである)を生んだ。そして次に左目を洗って天照大神を生んだと記している。つまり記紀によれば、2組6柱の神々は天照大神と共に生まれた神々であるということである。大和朝廷は卑弥呼と台代(とよ)を天照大神として記すことにより、また天照大神を皇祖神とすることにより、天皇家の正当性を主張するとともに、航海の神々も2組としているところにその特徴があるようだ。では、初代天照大神である卑弥呼につながる綿津見の神々は阿曇連(あづみのむらじ)によってどこでお祀りされていたのだろうか?

2015/05/02(土) 狗奴国・熊曽国・肥後・熊本県
今日も快晴だ。今しばらく小平氏のご意見に耳を傾けてみよう。彼は「筑紫国は筑前・筑後。豊国は豊前・豊後。肥国は肥前・日向・大隅・薩摩。熊曽国は肥後」であったという。肥後国球磨郡(現・熊本県球磨郡人吉市)及び大隅国曽於郡(現・鹿児島県曽於郡西部及び姶良郡東部、国分市)が和同6年(713年)に日向から律令時代の行政区画により分離された経過から見ると、大隅半島及び鹿児島市の近くまでの領域と熊本県球磨川流域は肥国(後の日向国)であったということになる。肥後(熊本県)という「肥」のつく名は後につけられたもので、名は残されなかったのだという。なぜならば、熊曽国は大和朝廷に敵対したためだと主張する。(吉備国=吉備津彦はなぜか?との吉備国名に違和感をもつわたしとしては納得がいく主張ではある)この熊曽国が魏志倭人伝にいう卑弥呼に敵対した狗奴国であると彼は比定する。では、海神様の宮殿はどこにあったのか?宮崎県(日向国)には高千穂の名が二つある。延岡市から五ヶ瀬川を西へ遡った処と宮崎市から大淀川を遡った(都城市の更に西)処だ。宮崎市の北、大淀川と一ツ瀬川との中間には「住吉」という地名が見える。大阪の住吉と同じ地名だ。大阪の住吉には海の神様がお祀りされている。なにか関係がありそうな気がするのだが?どうだろう?

2015/05/01(金) 九州は火の国
「筑紫国を白日別という」の意味は筑紫国が諸国を統率する国だということはわかった。では、他の3国の意はどうであろう。「熊曽国は建日別という」の意は、建はタケルであり、勇猛なの意であるので、勇猛な国であるということになる。「豊国は豊日別という」の豊はトヨと読み、今は「ゆたか」の意と思われる。しかし、小平氏はトヨむ(どよむ)が正しいと言う。その説を採用すれば「豊国は鳴動する神聖な国である」という意になる。なぜ神聖なのか?それは卑弥呼の後継者である台代(トヨ)の地であるからだと言う。うむ、そうであれば天孫降臨の地である高千穂も納得できなくはない。そもそも九州は霧島火山帯に覆われている。阿蘇のカルデラは大きさでは世界一だ。姶良(あいら)は桜島を含むカルデラ、指宿(いぶすき)は薩摩半島から大隅半島にまたがるカルデラ、鬼界は種子島西方の硫黄島(鬼界が島)を含むカルデラで約6300年前の大爆発は噴煙や火山灰で九州南部には人が住めなくなったと言われている。九州全土が火の国であり、鳴動する国であったことは確かだ。(その後、現在の熊本県(肥後国)はいまでも火の国と称しているが、小平氏はこの時の肥国は現在の肥前、肥後ではないという)「肥国は建日向日豊久士比泥別という」の意は勇猛で朝日を迎える鳴動する国であるという意味となる。建日は勇猛。向日は朝日を拝む。豊はどよむであり台代である。久士比は神聖さを強調する言葉であり、古事記記載の肥国は現在の宮崎県、鹿児島県(日向、薩摩、大隅)だと小平氏は言うのだ。う〜ん、今少し、わかりかねているわたしがいるのだ。だって、台代は豊国と肥国の2国にまたがることになってしまうではないか。加えて、それでは、後の肥国とは何がどう違うのか?現在の肥前及び肥後、つまり肥国はどう理解すればいいのだろう?


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