たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2015/04/30(木) 筑紫国は諸国を統治する国
国産み神話から判断すると淡路島、四国、隠岐諸島、壱岐、対馬、佐渡が古代のこの当時の政治、経済の中心地ではなかったはずですし、後の大和朝廷の本拠地である畿内は大八島完成の最後となっていますから中国の史書に見られるとおり九州が政治、経済の中心であったことは間違いないと思われます。そこで、古事記の筑紫の国産みを見ると「次に筑紫島を生んだ。この島もまた身が一つで面(おも)が四つある。面毎に名前がある。筑紫国は白日別(しらひわけ)という。豊国は豊日別(とよひわけ)という。肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかいひとよくじひねわけ)という。熊曽国は建日別(たけひわけ)という」とある。別(わけ)とは地方豪族の称号であるとのこと。筑紫の白(しら)は白す(しらす)統治するの意。日は真(まこと)に神聖なの意であるとのこと。とすると、筑紫国(北九州)は真に神聖な諸国を統治する国ということになる。だが、なぜ天孫降臨の地は高千穂だったのか?大和朝廷・天皇家の祖先は熊曽だったのだろうか?いや、そんなはずはない。

2015/04/29(水) 国産み神話から
古事記にはわが国の国産み物語が記されています。中国向けに書かれたという日本書紀は天地創造を陰陽論(おんようろん)に基づいて書かれていますが、国内向けの古事記には陰陽論の表現は序にしかなく、宇宙空間がどのように創られたかの記載はなく、天地が出来た時に神々が現れたと記されています。陰陽論とは混沌から陰と陽が分かれて天と地になったとするものです。神が天地を創造したと記す旧約聖書とは世界観がまるで違います。唯一絶対神信仰とは違う八百万の神々を祈るというこの世界観の違いは今現在もわれわれ日本人の心(否、脳かな)の中に坐しています。つい最近の出来事としても新デザインの神棚を取り付け毎日礼拝する若い人たちが増えています。さて、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が創った島々は、おのごろ島、淡路島、四国、隠岐諸島、筑紫島(九州)、壱岐島(長崎)、津島(長崎対馬)、佐渡島(新潟)、そして最後に畿内(大倭秋津島)を産み、大八島国が出来たと記しています。おのごろ島は未詳とされていますがこの国産みの順序は大和朝廷の経済活動を含む流浪転戦の軌跡ではなかったかとわたしは想像しています。この国産みの軌跡にわたしは大和朝廷が朝鮮から渡来した鉄生産の技術を持った一集団であったのではないかとの思いを寄せているのです。余談ですが、最初の頃の国産みの失敗(ひるこ、淡島誕生)の中に女から声掛けをして性交したから失敗したのだ。次は男から声をかけよう。そうすると国産みが成功したとのくだりから男性優位の社会への転換点が弥生時代であったことが推察されます。さて、この国産みの順序からすると、日向国高千穂への天孫降臨は当時覇権を握っていた政治、経済、文化の中心地である九州への定着が主眼であったと思われます。では、筑紫国の中での中心地はどこだったのでしょうか?

2015/04/28(火) 富と軍事力と呪力
綿津見神は海幸彦に「この釣り針をお兄さんに渡すとき”この釣り針は心のふさがる釣り針、心のたけり狂う釣り針、貧乏な釣り針、愚かな釣り針”と言って、後手で渡しなさい。そうして兄が高い処に乾いた田を作るならあなたは低い処に湿った田を作りなさい。そうすれば兄は3年のうちに貧乏になるでしょう。もしそのようなことを恨んで兄が攻めて来たら、塩みつ玉(海を満潮にする呪力を持った玉)を出して溺れさせ、もし苦しんで助けを求めたならば、塩ふる玉(干潮にする玉)を出して生かし、悩ませ苦しめなさい」と二つの玉を授けました。言われたとおりにして釣り針を返すと兄は徐々に貧しくなり、攻めてきました。そこで教えられたとおり悩ませ苦しませたところ、兄は弟の護り人としてお仕えしますと降参しました。そこで、兄の子孫は隼人として今も天皇に仕えています、というものです。ここから見てとれることは、水田の作り方を航海術に長けた海の神が教えたこと、そして航海術はもちろん海戦のやり方も教えたのではないか、ということです。わたしは神話にはそのもとになる事実があったはずだと思うからです。水田経営、鉄の生産と同じく、莫大な富をもたらす古代のこの当時の航海は命がけでしたから、海の神様への信仰は一際深かったに違いありません。ここに志賀島での金印発見の手掛かりがあるのではないかとわたしは思うのです。余談ですが、熊襲は鹿児島だという説は古事記によれば比定できません。余談を今一つ。言葉は霊力を持つと信じられていましたし、呪力そのものも信じられていたと思います。万葉集も言霊であったに違いありません。

2015/04/27(月) 海幸彦と山幸彦
「古事記」には、ニニギノ命が日の御子として高千穂の峰に降臨し、笠沙之岬(鹿児島県南さつま市笠沙町野間岬)で山の神の娘である木花佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と恋に落ち、二人の間に生まれた子供たちのうちの海幸彦と山幸彦の話が記載されています。いわゆる神武天皇につながる日向三代の2代目の争いのお話です。海の獲物をとって暮らしていた海幸彦に山の獣をとって暮らしていた山幸彦が兄の海幸彦に「お互いに獲物をとる道具を変えてみよう」としつこく迫り、兄が根負けして道具を交換した。ところが弟の山幸彦は1匹の魚も釣ることができず、兄の大切な釣り針も海に無くしてしまった。兄は釣り針を戻せと迫り、山幸彦は自分の剣で5百本の針を作って戻そうとしたが、許してもらえなかった。そこで海の神の宮殿に行き、海の神の娘である豊玉姫と結ばれ、海の神の霊力も手に入れ、海の神の力で無くしていた釣り針も鯛の喉に刺さっていたのを取戻してもらいました。そこで、海の神である綿津見の大神は山幸彦に返す時にはこうして渡せと返し方を伝授しました。

2015/04/23(木) 海の神様との関係は?
邪馬台国は出雲を経て畿内へ至ったという日本海ルート説は間違いだ。「水行20日及び水行10日、陸行1月」とは瀬戸内海ルートだとの畿内説については後ほどどこかで触れたいと思います。その理由はわたしがまだ西暦57年にとどまったままなのでなんとかここから脱出したいとまだもがいているからです。さあ、元気をだしてがんばってみよう。中国正史・隋書には「後漢の光武帝の時(西暦57年)に、朝貢してきた。使いは自ら太夫を名乗っている。また、同じく後漢の安帝の時(西暦107年)、使いが来て朝貢した。この国は倭奴国である」とある。光武帝の時、これが「漢委奴国王」の金印を賜ったことである。なお、中国の正史・後漢書には次の記述がある。「中国後漢の安定の時、永初元年(西暦107年)に、倭の国王師匠達は奴隷160人を献上して、謁見を願った」と。倭奴国は50年後の107年にも存在していたことになるが、倭奴国が魏志倭人伝の卑弥呼の時代の奴国と同一国かどうかは不明である。倭国のことを「倭奴国」と呼んだとも考えられる。こちらの方がわたしは正しいと思う。それではなぜ?筑前志賀島なのか?それは、古事記に出てくる山幸彦と海幸彦の物語の海幸彦と関係があるのではないだろうか?

2015/04/22(水) 出雲は奈良まで支配していた?
大国主命が現在の長野県や新潟県に至る地方まで勢力下に治めていたのであれば当然丹波、丹後もその支配下にあったと推察される。
奈良県桜井市にある三輪山には出雲の神様である大物主神(大国主命の別名)が祭られている。同じく出雲系の祭祀をおこなう神体山及び神社は現在の島根県以外の地では大阪府交野市の磐船神社、京都府亀岡市の出雲大神宮、宮津市の籠神社奥宮、丹後市の神谷太刀宮、岡山県新庄村の永江山、赤磐市の石上布都魂神社奥宮がある。もちろん推定の域はでないが、古代出雲族の影響下にあったのではないかと思われる。大国主の命とは大きな国の主であり、大物主神とは万物の主ということになる。三輪山信仰の根っこにあるのは古代日本列島人が抱いた自然信仰である。巨石、古木、雨、雷、山、川、海などの自然の事物や自然現象への敬いや恐れに対する祈りであろう。この世界へ大物主神として人間・大国主命が一体化したのである。三輪山には人々が神を拝むための拝殿は作ってあるけれども、祭神を祭る本殿はないという。三輪山そのものが大物主神であり、三輪山は神体山だとされている。ここには古代の財物、権力、信仰、支配の進化と一体化がある。古代出雲王国は奈良に至るまでの広大かつ強大な国ではなかったのではないだろうか。

2015/04/20(月) 出雲の棚田
奥出雲の棚田は他と比べてずっと大きく整然としているという。このうちの大原新田は「日本の棚田百選」にも選ばれているという美田であるらしい。これらの棚田はたたら製鉄に必要な砂鉄を採るため、人々が鍬で山の斜面を切り崩し、土砂を水路に流し、重い砂鉄をえり分けた後の斜面を整地して造られたとのことだ。砂鉄をえり分けるために土砂を水路に流す工程を「鉄穴(かんな)流し」という。奥出雲は花崗岩の地質が多いので砂鉄がたくさん取れたというから、吉備地方も砂鉄が採れたのではないかと思われる。吉備津神社の近くに「真金の十字路」という地名(R180)があるように吉備における製鉄も盛んではなかったかと推察される。また、宮崎駿監督の映画「もののけ姫」はたたらによって森が侵されていく様子を描いたと言われているが、自然破壊のその後の棚田再生は人間の英知の一つではなかったかとも思える。このように製鉄産業で巨大な利益を得た古代出雲族は権力を築き、現在の島根、鳥取、福井さらには新潟や長野に至る巨大国家を造り上げたのではないだろうか。大国主命とはその巨大国家を築いたその人ではなかったかと思われる。だが、出雲と言う地名はなぜついたのだろう。宮崎の日向に対し、島根の出雲。雲が出る、とは日を遮り、日の邪魔をすることになるではないか。雲隠れとは死を意味することであるから卑弥呼(日巫女?日御子)に敵対したのか、それとも大和朝廷、天皇家に敵対したのか。大和政権は卑弥呼の後継なのか。それとも違うのか。なぜ?がますます大きく、広くなってゆくばかりだ。

2015/04/19(日) 海上20日は出雲
「南に投馬国がある。海上20日かかる」については、帯方郡から南の説であっても、奴国又は奴国の近くを出発するという北九州説であっても「出雲である」としています。両者の違いは女王国が九州か、奈良かの違いとなります。その違いはここでは置いておいて古代のこのころの出雲は鉄生産を主体とする産業を基盤とした王国があったと思われることについて触れます。「出雲国風土記」でたたら先進地と記されている島根県の奥出雲地方(雲南市、奥出雲町、飯南町)を中心とする中国山地では江戸時代には全国の鉄生産の8〜9割を占めていたといわれています。現在も奥出雲町では真冬の厳寒の中、日本古来の製鉄「たたら」の操業がおこなわれています。今年も2月4日12人の職人がたたらの神様「金屋子さん」にお祈りし、粘土で炉を築き、それに砂鉄と木炭をくべ、3昼夜徹して燃やし続け、こうして4日目の7日に炉を壊し、長さ3m、重さ2・5トンの母鉄を取り出している。この鉄生産、鉱山開発が出雲族の磐座信仰の源ではないかと指摘する学者もいます。

2015/04/18(土) 邪馬台国はやっぱり九州!?
しかし、4月6日をもう一度ご覧いただくとありがたいのですが、必要最低限の部分だけ再掲しますと「東南に奴国がある。距離は百里である。南に投馬国がある。海上を20日かかる。南に邪馬台国がある。女王の都する所である。次に・・・21か国記載・・・。次に奴国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。これらの国々の南に女王の勢力に入らない狗奴国がある。帯方郡より女王国までの距離は1万2千余里である」とあります。この紀行録の「南に投馬国がある。・・・。南に邪馬台国がある。・・・」の南とはどこか。つまり、出発の起点はどこか、ということが百家争鳴の起源となっているのです。奴国、あるいは北九州のどこかならば、南に海上20日は太平洋の中となってしまいます。そこで魏志倭人伝の作者が方角を間違えたためだと言う方が多いのです。そこで日本海ルート説派は出雲を経て丹波・丹後から陸行で奈良へ、瀬戸内海ルート説派は大阪・河内から熊野を経て奈良へ(神武東征のルート)との説を唱えておられます。ですが、わたしは朝日と夕日を見ながらの旅行者が方角を間違えることはなかっただろうと思っています。また作者が方角の間違いを犯してはいないと思われます。とすると、南はどこから見て南なのか?わたしは投馬国も、邪馬台国も帯方郡から見て南ではなかったのではないかと思います。帯方郡から投馬国は海上20日、帯方郡から邪馬台国は海上10日、陸行1月かかるということだと思うのですが、近年九州説派が少なくなった現状の中での九州説は言いにくい環境にあるのですが、今現在は九州説に傾いています。女王国は帯方郡から1万2千余里という距離記載も無視できないでしょう。

2015/04/17(金) 女王国ってどこなの?
魏志倭人伝の記述で論争のない地点はどこかというと、帯方郡(ソウル)〜狗邪韓国(金海)〜対馬〜一支国(壱岐)〜末蘆国(唐津)〜伊都国(前原)〜奴国(博多)であり、不弥国は比定できていない。そうすると、帯方郡(ソウル)〜奴国までの里数は計1万6百余里となる。実距離は帯方郡〜狗邪韓国が750km、〜対馬までが80km、〜壱岐までが90km、〜唐津までが55km、〜前原までが30km、〜博多までが20kmであり、倭国内の狗邪韓国(同地を倭国とするには異論はあるが)から伊都国(前原)まではおおむね1里が80mである。帯方郡(ソウル)〜狗邪韓国までと伊都国(前原)〜奴国(博多)までの平均里数が105m、200mと長い里数となっている。そこで帯方郡(ソウル)から奴国(博多)までの実距離合計1025kmを記載里数合計1万6百里で割って平均をだすと96.698mとなる。とすれば、1里が80〜100mでまず間違いないといえる。そうすると、奴国から女王国までは1万2千余里であるので、後1400余里は112km〜140kmの範囲内となるので、北九州は間違いないと言えそうだ。(現在の山口県は対象外ということはみんな一致している)だとすれば、女王国・邪馬台国は博多から東及び南にかけての一帯となり、現在の大分県の一部をも含む辺りが比定されなければならないと思われる。

4月絵日記の続き


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