たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2015/03/31(火) 吉備津彦命
それでは温羅を退治したとする吉備津彦命とはどんな人だったのでしょう?吉備の中山の東北山麓に吉備津彦神社があり、西北山麓に吉備津神社がある。吉備津神社が本宮であり、大化の改新により備前、備中、備後の3国に分割された際に備前と備後にも分社されたという。第7代孝霊天皇の第3皇子で元の名を彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこ)命といい、崇神天皇10年に四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命と吉備を平定したとされる。その子孫が吉備臣になっている。が、皇族なのになぜ尊ではなく命なのだろう?なぜ皇族扱いにはなっていないのだろう?日本書紀によれば、孝霊天皇の即位は西暦になおすと紀元前290年となる。中国大陸は周の時代で春秋戦国時代の最中であり、朝鮮半島にもまだ国はなく、ちょうどこのころに水稲耕作が北九州に伝えられた頃である。また、漢の委奴国王の金印が下賜された57年より347年も早い時代となるので年代的にはありえないと言わざるをえない。もちろん倭王・卑弥呼の時代までにはさらに182年もかかるのである。社伝によれば、吉備津彦は吉備中山の麓に住み、281歳で亡くなったという。もし、彼が実在したとすれば、日本書紀の記載年よりも600年以上も後のことであり、少なくとも卑弥呼より早いということはありえない話であろう。

2015/03/30(月) 晴れの日は津島遺跡に
津島遺跡をご覧になった方も多いかと思います。津島遺跡は岡山県総合グランド内陸上競技場の西手、武道館の東手に当たる中間にあります。弥生時代前期の集落と水田が隣接して発見された例は全国で初めてです。集落を設けた微高地の周辺と湿地の間に3〜5アールのごく狭い範囲に水田が作られていました。この水田と湿地の境には杭列、微高地との境には矢板の列で区画されています。方形の区画は認められていませんが、この水田とは別に畦畔で区画された弥生前期の水田が広範囲にわたって検出されています。また、弥生時代後期の河川跡からは建物の部材などを含む木製品も多数見つかっています。そこで、1971(昭和46)年に国史跡指定及び2002(平成14)年に追加史跡指定され、集落域と水田域の整備が為され、竪穴住居や高床倉庫のほか湿地や水田部分が2009(平成21)年3月に完成しています。竪穴住居は内部の見学が可能ですし、出土品は陸上競技場メインスタンド内の「遺跡&スポーツミュージアム」に展示されています。弥生時代前期のこれらの水田跡遺跡は北九州に続くものとして吉備国の国力を示すものでもあります。否、このころは津島国であったかも知れません。晴れた日などにぜひお出かけください。そして、貧富の差や身分の差、あるいは奴婢の出現、クニや王の誕生などに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。わたしは国力が豊かであった吉備国が出雲や九州と違ってなぜ古事記や日本書紀に記載されなかったのか、と不思議に思っています。大和政権と敵対した熊襲国と同じように大和政権に敵対したから排除されたのではないかと思います。温羅とは鬼ではなく吉備国王だったのです。あなたもそう思いませんか。

2015/03/29(日) 桜の花見は古代にも
さくらがちらほら咲き始めた。さくらはバラ科サクラ属だが韓国の本家論がすさまじいようだ。「済州島ニダの王桜(ワンボク)が日本のソメイヨシノの元祖で百済王が持ってきた」というのだ。これに対して日本側は「ソメイヨシノの両親はエドヒガンとオオシマザクラでDNAが違う。江戸末期に江戸の染井村の庭師と植木職人たちが接ぎ木で育成したハイブリッド種で自然繁殖しない種だ」と反論している。古代日本列島にはソメイヨシノはなかった。あるとすれば山桜だったに違いない。しかし、果たして古代倭にあったのだろうか。わたしはあったと思う。山桜と野桜は中国の桜を起源とし、宋代にわが列島に伝わったという。そのまた起源はヒマラヤだという。だが宋は中国の歴史の中に3つある。春秋時代の宋(紀元前1100〜前286年)、南北朝の宋(420〜479)、及び960年から1279年まで続いた宋だ。しかし、奈良時代に「田の神が来臨する花として栽植された」と文献にあることからすれば春秋時代の宋に違いない。そうであればわが吉備国の津島遺跡の近くにも津島人たちは山桜を植え、愛でていたに違いないと確信する。魏志倭人伝に「倭人は酒が好きだ」との記述がある。桜の花の下で神に祈りを捧げながら宴会を開いていたに違いない。

2015/03/28(土) つくしが顔をだしている
わが家の前の日近川の土手につくしが顔を覗けている。もうすっかり春本番だ。筑紫の菜畑遺跡はもう少し早く春本番を迎えたことだろう。今頃は樫の木で作った鍬や鋤で田起こしをしていたに違いない。大変な重労働だったに違いない。だが、縄文時代ほどには飢えに苦しまなくてもよくなった。祖先神に感謝の祈りを捧げたに違いない。そして田起こし労働の間に、あるいは帰り道に食事の采につくしや野蒜を採取したことだろう。この菜畑遺跡は縄文時代晩期後半の時代には谷底平野に湿原が広がっている状況で、背後の丘陵には照葉樹林があったという。ここで最初は陸稲的な状況でイネの栽培が始まっていたという。とすれば、現段階での遺跡年代でいえば、陸稲ならば断然岡山の方が早い。しかし、水稲でいえば菜畑遺跡の方が早いようだ。水田遺跡は18平方メートル余りで小さな4枚の田だという。当時は直播で栽培されていたようだ。弥生時代前期の地層からは大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水溝、木の杭、矢板を用いた畦畔が発掘されており、日本で初めて水田耕作による稲作農業がおこなわれていたことを実証するものだといわれている。それでは、岡山、吉備地方ではどうだったのだろう?

2015/03/27(金) 古代日本列島弥生人へと進化
最新の研究で日本列島への水稲耕作技術の伝播年限が早められ紀元前5世紀中ごろとされている。ではそのころの中国や朝鮮半島はいったいどのような状況だったのだろうか?紀元前12世紀に殷王朝の王族である箕氏が朝鮮の地を治め、後に周王朝(前1046建国)が侯国に封じたとある。しかし、前770年から前221年に秦王朝ができるまでの約550年間は春秋戦国時代であり、中国国内は戦乱の時代であった。朝鮮半島は侯国に封じられたままの状態で箕氏朝鮮が前194年まで続いている。そのため周王朝との関わりは低かったと思われる。また、箕氏朝鮮は伝説上の王朝との説もある。そのためわたしは水稲耕作技術が朝鮮から伝来したと比定する説の確率はかなり低いと思っている。春秋戦国時代の戦乱から中国中南部の人たちが日本列島へ逃れてきたのではないかと思っている。径路はともかくこうして水稲耕作技術が伝えられると、彼らと一緒に暮らすなかで古代日本列島縄文人は彼らと混血し、古代日本列島弥生人へと進化していったのではないだろうか。縄文時代人は背が低かったと言われているが、弥生人へと進化することで身長も伸びたのではないかと思える。

2015/03/26(木) 水稲耕作は九州から東北へ
受験生必携の日本史概要によれば「農耕の開始ー稲の伝播経路は不明であるが、中国南部または朝鮮半島南部からはいってきたと思われる。農工具として木製の鍬、鋤、田船、田下駄が使われ、貯蔵庫としての高床式倉庫がつくられた」とある。ウイキぺディアを引くと「紀元前5世紀中ごろに大陸から北部九州へ水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州へと広がった」と記されている。初期の水田は佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡市の板付遺跡その他の遺跡から水田跡や大陸系磨製石器、炭化米等が北部九州地域に集中して発見されている。青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から弥生時代中期の広範囲で整然とした水田区画が1981(昭和56)年に発見されたことから弥生時代前期には東北まで伝播していたと考えられ、水田農耕はかなりの速さで日本列島を縦断している。また、中央高地の松本平や千曲川流域などの高地や青森県のような寒冷地にまで広がるには約200年を要したとされている。その理由の一つは感光性のモミが日照時間の短い処では育たなかったことだと言われている。さて、それでは、いったいどこから誰が水田耕作技術を日本に伝えたのだろう?

2015/03/25(水) 灘崎では稲作を6千年前からやっていた!
弥生時代は水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住したことにより始まるとされています。弥生時代とは北海道、沖縄を除く日本列島の時代区分の一つです。およそ紀元前3世紀中ごろ(異説あり)から紀元後3世紀中ごろまでの時代の名称です。しかし、しかしです。わが家の近くの総社市南溝手遺跡の縄文末期の土器片の中からプラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が1994年に発見されています。さらに、真庭市美甘姫笹原では4500年前の土器からプラント・オパールが発見されています。そして、なんと!今は合併して岡山市となった灘崎町では約6000年前の地層から大量のプラント・オパールが見つかっているのです。これらの新しい発見の結果、少なくとも約3500年前からすでに陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作がおこなわれていたという学説が多数発表されました。また、水稲(温帯ジャポニカ)も縄文晩期には導入されていたいわれ、現在では稲作の開始時期が確定できない状況になっています。それならば、縄文式土器から弥生式土器への移行が弥生時代への移行でいいじゃないかというのですが、これについても東日本では弥生式土器と縄文式土器の区分が不明確であり、編年の基準としては使い難い状況になっているのです。(最近では式を省略する)はてさてどうしたらよいものやら。いやいやそれはともかく今年の田植えの準備を始めなければなるまいてと思いつつ、でも、でも、次は少しばかり稲作について考えてみようと思い直してしまうのです。困ったものですね。

2015/03/24(火) 縄目模様の土器や弓矢の発明
およそ1万年前くらいから気候が温かくなり、海面が上昇し、現在の日本列島の形になっていったといわれています。このおよそ1万年前から8千年近くの間を縄文時代といいます。打製石器や磨製石器、骨角器とともに弓矢の発明がこの時代にありました。縄目模様の土器が作られ、煮炊きや保存が可能になりました。土器製作の主役は主に女性だったようです。犬だけではなく、猫もいたのではないでしょうか。発掘された土器に猫の足跡がついていたという報告も目にした覚えがあります。穀物の保存とネズミ対策としての猫の存在はかかせません。さて、穀物の保存が少し出来はじめると住居は移動型から定住型へと移り変わっていきますが、まだこの時代は竪穴住居だということです。稲作が伝えられ、金属器も伝来してきました。人々は石器時代と同じように自然を恐れ、また敬いながら、家族の幸せのために懸命に働き、支えあって暮らしたことでしょう。太陽と同じく月に対しても特別な思いを持ったに違いありません。

2015/03/22(日) ウグイスの里
3月になるとウグイスの鳴く声が聞こえ始めた。古代の日本列島人は夜が白み始めると起き、快晴日であれば、朝日を拝み、「猟や漁がうまくいきますように、家族が幸せに暮らせますように」とお祈りをしたはずです。そんな折にウグイスの鳴く声を聴くと、幸せ感がさらに増したのではないかと思われます。杉や桧、楠などの巨木や巨石にも神が宿ると思い、家族の幸せを祈ったに違いありません。飢えと闘う家族は家族のために懸命に働いたに違いありません。ニラと水仙の葉を間違って食した人もいたかも知れません。水仙の葉には毒性があります。ニラと間違って食べると病気になり、死に至る人もいたかも知れません。医学の発達していない古代日本列島人は偶然の不幸を神の祟りと思ったに違いありません。自然の脅威や不慮の災難は為す術のない神の祟りです。科学の発達した現代でも同じような心根がまだ息づいています。それは人間の弱さに起因すると考えられます。一方、人はみな家族の幸せのために現状を開拓し、克服しようとの努力を日々積み重ねてきたのです。祖先神に感謝と祈りをささげながら。しかし、人はみな、置かれた自然環境の中で家族の幸せのために働くという平等性があったと考えられます。

2015/03/21(土) 闇との闘い
今朝は4時前にふと目が覚めた。犬の遠吠えが聞こえる。心無い奴がちゃんとした施設もしないまま50匹以上の犬及びそのうえ猫まで預かって飼っている。近所の方に頼まれたので、河田議員を紹介し、解決を依頼している。しかし、あれが狼の遠吠えであったなら洞窟で暮らす古代日本列島旧石器時代人の家族の恐さはいかほどであったろう?われわれの想像をはるかに超えた恐さであったに違いない。闇の恐さは幼かった子どもの頃を思い出す。フクロウの声が恐くて屋外のトイレに行けず、いつも眠っている祖父を起こしていたことを。堅くて折れない樫の棒や石斧はどんなにか心強く立ち向かう気力を与えてくれたことだろう。樫の棒や石斧の製作には気が遠くなるほどの時間と労力を費やしたに違いない。なにせ道具といえばサヌカイトをはじめとする尖った石しかないのだから。弓矢や丸木舟の製作にはもっと多くの時間と労力を要したはずだ。闇の恐さから抜け出して夜が明け初める頃、太陽が顔を出し辺りが温かくなり、明るく照り輝きだした頃、人は太陽に向かい、手を合わしたに違いない。

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