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2013/04/05(金)
さくら散る真昼
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今日は花見としゃれこんだ。明日、明後日は風雨激しく今日の花見が最高と思い定めてお弁当を買い、西川の傍のベンチで花吹雪を見ながら遅いお昼をいただいた。そして、ふと思った。敗戦間際の昭和20年の桜は咲いていたのであろうか。咲いていたはずだ。昭和21年敗戦後の桜はどうだったであろうか。焼け野が原になって焼けた桜の木は別として咲いていたはずだ。人々は桜花を見つめ、なにを思ったであろうか。父は米国を直接見聞した外国航路の船乗りの経験から敗戦を予感していたという。敗戦前の教師はどう思っていたであろうか。敗戦を予感しながら生徒を戦地に送り出す教師もいたはずだ。終戦後の桜は教師にはさぞ辛かったことでしょう。自分の間違いを正直に認めざるをえず、話さざるをえなかった教師たち。今、教師たちは自分たちをとりまく状況をどう思っているのだろう。敗戦の教訓から政治と教育を切り離して教育委員会の独立性を保持したが、今また政治の下に従えようとしている。教育委員会の委員、及び教師は文科省の指示に従い、県教委、市町村教委も制度疲労を起こしている。そこをつけ込まれ「こんな無能な教育委員会など不要だ」論がかまびすしい。教師は敗戦前の正しくなかった教育・指導の悔しさを思い出すべきではないかとわたしは思う。教師は「忘却」という言葉に逆らう強さを取り戻してほしい。「正しい」という言葉に執着してほしい、とわたしは願う。散るさくら、残るさくらも散るさくら。良寛和尚の辞世の句は「死」にこだわらず「真理を貫け」と言っているようだと花吹雪を見ながら思った。なんでも唯々諾々と受け入れていいはずがない。
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