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2017/05/18(木)
『ソクラテスの弁明』の「無知の知」 (その1)第5079回
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午前中及び午後共にゆったり読書をしました。合間合間に2017年6月の予定表(全体、湘南台カルチャーセンター及び幼稚園等3か所分)を作成し完成させました。 17時〜18時15分は、横浜道場(西が岡小学校体育館)の幼年等の稽古でした。体験入門者が1名いました。18時45分〜20時45分は、同所で通常稽古を形中心で行いました。 さて、タイトルの件ですが、2017年5月8日のブログの「ムチの無知」は当然ソクラテスの「無知の知」をもじったものです。 哲学史の勉強という事で、東京での学習会でヘーゲルの『哲学史』を皆で勉強した事があります。また、個人的には、各種の哲学史の書籍を読みました。特に、波多野精一氏の『西洋哲学史要』が纏まりがあり、その哲学(者)はそれ以前の哲学(者)の課題を如何に継承し発展させ、また次の哲学(者)に課題を残し引き継いで行ったかという視点で書かれていて、大変分かり易かったです。ちょこちょこ読んで参考にさせて頂いております。 その本のP52〜53では、「無知の知」がこう書かれています。 (引用開始) (前略)認識とは何か。事物の普遍的で不変な本質を見抜く事である。例えば勇気とは何かを認識するというのは、個々の勇気ある行為を知覚するだけでなく、勇気を勇気としているところのもの、つまり全ての勇気ある行為に共通した普遍的な本質を見抜く事である。しかるに事物の本質は、その概念に表現される。従って、認識するとは事物の概念を確定する事だという事になるのである。 では、我々人間はその様な理想的な知識を持っているだろうか?ソクラテスは自らを省みて「否」と答えた。我々の知っているのは大抵は個々の場合だけである。その上、本当に知っている事も結構不確実である。よくよく吟味してみると、知らないのに知っていると思い込んでいるのが殆どである。従って、我々は先ずその様な偽の知を追い払い、自分の無知を承認する事から出発して真の知に向かって進む事が出来る。 (引用終了) 長くなるので、明日に続きます。
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