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2017/04/30(日)
「働く」という事、「労働」という事 第5061回目
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今日の9時〜12時は、「特別稽古(その1)」(長後公民館体育室)で、組手中心で行いました。13時〜15時は、「特別稽古(その2)」(湘南台公民館ホール)で、形中心で行いました。 終了後1日遅れの「(師範の)家族の日」という事で、妻と相模健康センターに行きました。 さて、タイトルの件ですが、「働く」事=「労働」は、人間がサルから人間になる過程で重要な役割を果たして来ました。というか、人間は「労働するサル」だと言うことです。 人間は、自然に働きかけ生きる糧を得るだけでなく、自然を人間の為に作り変えて来ました。それこそが労働です。労働は、ただやみくもに働くという事ではなくて、ある計画や目標を持ち、それを達成する為には、どうしたら良いか考え、そして実践し、その経過や結果を踏まえて、計画を継続するなり修正するなりします。成功を経て、又失敗を経て人間の認識能力が高まって行きます。認識は労働(実践)の賜物です。また、認識が正しいかどうかの基準は、労働(実践)での検証です。 私が空手道の指導で言っています、目標を持つ、それを達成する為にはどうするか考え、実行し、結果見て考える、という一連の流れは、労働に含まれると思います。 最初は、自分と家族の為とか血縁関係者の為の労働でしたが、やがて多数の人々がコミュニテーを作り共同・協働して行く事となりました。更に、コミュニテーとコミュニテーの境では、交換も始まりました。労働は、コミュニテーや社会との繋がりを証するものでもありました。 その本質的は意味は、今の資本主義社会でも変わりがありません。働く事により、収入の糧(賃金)を得て、それで住む場所を得て、食べる物を得て、娯楽もします。それだけでは有りません。他の人に喜んで貰ったり感謝されたりすると嬉しくなります。単に“follow the money”ではありません。自分が社会の中で生きている(生かされている)、社会の中で役に立っているという事を実感します。この感情は、教育に依るというよりも人間がサルから人間になる過程の中で「本能」として獲得して来たものだと思います。 しかし、他面では「労働は苦痛」と感じる事があります。ましてや、毎月残業が100時間という人に取っては、健康と命の危機に直結する事です。自分の取り戻すのは、労働が終わった後と感じる人も多いと思います。 労働の本来の意義を取り戻す為にも、現段階では最低限、「8時間は労働。8時間は自分(と家族)の為に。8時間は休養の為に」という事を、法律上の言葉だけでなく、実際の権利としてしっかり確立する事が大切だと思います。 メーデーを明日に控え、こんな事を思っています。 * 県マスターズ大会(5月28日)に向けて バッサイダイ 本日 1回 累計13回 ゴジュウシホ 本日 1回 累計 3回
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