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2016/07/10(日)
はいからさんが通る の 時代の袴
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今日は袴の話
紅緒さんの通う女学校は「跡無女学館」、「跡見」と「東京女学館」を足したような架空名称です。 「跡見女学園」は公家の家を借りて公家女子を集めて教育を行っていた私塾に始まります。東京女学館も北白川能久親王を会長にいただいた女子教育奨励会によって設立された学校です。 お公家さんである環さんが華族女学校ではなくこちらに来ているということは、それくらいに格式の高い女学校と言えましょう。 この時代、格に合わせて学校は存在していたので、無理して上の学校とかには行かせません。だって、会話も生活習慣も違うので学校生活が辛いですもの。 紅緒さんんちも旗本を先祖に持ち、父上は帝国陸軍少佐。ばあやさんもいる、それそれのお家です。
跡見は、華族女学校とならんで「女生徒の通学衣服として、女袴を制定したのはどちらが早いか」と言われる学校です。 なんでも、創立者が、皇后陛下からの直接のお言葉として「袴は紫はよろしいでしょう」といただいたと。 以来、この姿は「紫衛門」と呼ばれました。 華族女学校は海老茶色の袴で「海老茶式部」と呼ばれました。 どちらも、今に残る行燈型の袴です。 未成年の袴は装束では「濃色(こきいろ)」とされていますが、この色は、ブレのある色で、紫と海老茶の間の不定な色です。 これは、当時の紫や紅の染料の使用料によって異なります。
そして、これに先立つ明治16年、太政官令にて国は学問所における女子の男袴の着用を禁じています。「法律で禁止することなのか?」と大げさは印象がありますが、ちょんまげや帯刀も禁止したので、明治で西洋と対等化をはかる一貫に、庶民の衣類の統制もあったと考えれば良いかと。 江戸時代、私学所などでの女子の教育は意外なことに制限されていませんでした。漢籍などをならう私塾には、男子に並んで女子の姿もあったとのこと。このときのマナーが「女子でも同席する際には袴着用のこと」だったようです。この風習が、開国後、外人居留地の英語塾に通う場合にも適用され、外人様には男女の区別がつかず、一方、築地という狭い界隈に女生徒が集中したため、まとまった数の男袴の姿の女生徒が見られ、新聞などでは「みっともない」と叩かれました。太政官令はそれに対応するものでした。
で、どんな形状だったかとうと、不明です。 お裁縫の教本には標準的な作り方が載っていますが、 後年、いち早くセーラー服を採用した学校の採用理由が、 「袴だと、襞は増やすは、丈は短くするはとやりたい放題」 当時の女学校はお裁縫を習いますから、袴の襞を増やしたり、 丈を詰めたりはお手の物。 このようにアレンジされたものがどういう形態になるかは、 想像でしかありません。当時の画家が描いたものは、彼なりに 美的と感じたものであって、それ以外の「なんじゃこりゃ」モノも沢山あったことでしょう。 袴の腰板に華やかなリボンを飾るのは「窓際のトットちゃん」のお祖母さんのお話。彼女の学校で流行ったそうです。 半幅を文庫に結んで、背面をふくらす、昨今の着方も、誰かの考案なのでしょう。今のようにお式のみならいざ知らす、毎日の授業に出る着方としては、背もたれに背を預けにくい着方だと思います。 写真に残る女学生の姿でも背面を膨らせる形態が少ないようなので、昨今の卒業式で一般の着方は当時の普段袴の着方としては一般的ではないようです。
元々、公家の装束の裳袴から来ているとすると、袴下の帯も、装束の袴下の帯とその結び方が模範的とされたかもしれません。 こちらは半幅帯よりも幅が狭く、背面を膨らませない結び方です。 前面も袴の上に帯は見せません。
明治時代は、装束の際の外出用にと定義された パンプスを履いていたのですが、次第に編み上げ靴が一般的に。 当時、日本では、サイズぴったりな靴を調達することが難しく、多少大きくても、編み上げの調整でどうにかなる編み上げが好まれたのではないかと推測します。
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