優妃 讃良の着物についておもうこと
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2014/08/16(土) 略奪と暴行
東日本大震災の際、略奪行為が起きなかったことに、海外はびっくりしたという。
こういう場合、物資の残った商店が襲われ、暴動が起き、略奪や婦女暴行が起きるのは普通らしい。

戦では、略奪と暴行は常識だった。

戦いというものは、人間を生物的な存在に変えてしまうものらしい。植物に綺麗な花や実をつけさせたかったら、いくらか危機感をあたえる(水を減らすとか肥料を減らして土地を痩せさせる)方が良いという。己の生の継続の危機を覚えた個体は次代継承のための行為を行うというわけだ。
そして、生き延びた者はまた、より優れた遺伝子を持つ存在して、次代の残す役割を与えられたこととなる。
だから、子を為す行為を止められない。
どうしようもなく生物的本能行為なのだから。

一方、略奪は、最下位兵卒への報奨金的な意味合いを持つ。
中世などどと古い話ではなく、清末期、王宮に攻め込んだ欧米の軍隊の兵たちは調度品どころか、金メッキすら剥いで持って行ったという。第二次世界大戦の戦勝国の兵士とて以下同文。
名古屋城のしゃちほこすら消えた。

16世紀、織田信長が「略奪暴行禁ずる」と宣言し兵を断罪してでも遵守しようとしたというのは時期的に画期的なことだ。
裏には「略奪しない、というお墨付きを高額で渡すので、それを守らなければ、今後お墨付きが売れなくなるから」という理屈もあるようだが、その軍資金が兵士に分配されたとしたら?

そう、やっていることは実は同じ。

ただ、兵に金を与え、その金で町でモノを買う、サービスを受ける。これなら町民は大歓迎だ。
金を払えば、そういう商売の女性が喜んで相手をしてくれる。

略奪よりも大量の物資を兵は持ち帰り、暴行よりも多くの性行為がなされるのに、町民はニコニコである。

これに気づいた信長は賢いと思う。

2014/08/15(金) 戦が嫌いな日本人
本日は盆の中日であり、終戦記念日である。
日本人は戦を嫌う哲学を持った民族らしい。
それが証拠に「天下が平定」されると、途端に武人は武人でなくなる。
中国にも「狡兎死して走狗烹らる」のことわざはあるが、それは軍隊の撤廃を意味するものではなく、政権をとってかわりそうな疑いを為政者側が持った相手を駆逐する意味である。
ところが、日本の場合、武人が消えてしまう。
蝦夷と呼ばれていた東北が平定されると、坂上田村麿が率いていた筈の軍隊はいなくなってしまった。
朝廷には近衛、兵衛、衛門と武人を表す役職があるのに、彼らのしていることは、門番とお供と舞楽になってしまう。
武官装束の背の矢なぞ、みてくれ重視で飛ばすことなどできないものであったり、綺麗に飾る故に即戦的に抜くこともできないのもある。
そうすると、市中取り締まりや外門警備に「北面の武士」などを使うようになり、それが「武士の台頭」を促してしまう。

そして、その鎌倉幕府をやっと覆したのは、鎌倉幕府を支える御家人に数えられることのなかった「悪党」と者達。
つくづくと、権力を手にした者は己の手を血に染めることを嫌う。
そして、悪党を従えていた筈の後醍醐天皇は武力の行使を忌避し、戦局は泥沼化する。

戦国の世を終わらせたのも、また同じ「武士とかぞえられなかった者達」だった。津島神社の門前という商業地区のあがりを元手に、次男以下の者や武士以外の出自のものを重用した織田信長。
それをついだ豊臣秀吉により、「総無事令」が出され、「紛争の解決手段としての武力の行使」が禁じられた。
そして、江戸幕府の安定期、紛争の解決手段は、まさに「書状を書いて、訴訟を起こす」ことに代わる。
刀を取るのではなく、筆を執るのである。
まさに「ペンは剣よりも強し」の時代、百姓町人に至るまで読み書きが普及した理由の一つがここにある。
「法を守らねば、町人よりも大名の方が有罪」にもなりうる法治体制はおそらく欧州ではこの時点では成立してはいない。
(1600年頃、欧州は大航海時代。欧州国家間も国境線争いのまっただなか。領主配下の庶民になんら権限はなかった)

幕末に、剣をとったのも「武士」ではなく「武士ではない者」達だった。多摩の農民であった近藤や土方率いる新撰組、庄内の郷士である清川八郎、そして、坂本龍馬は、武士にこそ数えられるものの下士といういわゆる「武士」である上士とは別格な者。

幕末から第二次世界大戦まで、欧州の真似をするが如くに国際紛争に参加したものの、最終的に敗者となり、戦争放棄を憲法として「押しつけ」られる。
が、どうのこうの言いながら、平和憲法をタテに「戦争はしない」と言い続けたのは、やっぱり「しなくて済むなら戦争はしないでいたい」というお国柄ではないのだろうか?

狩りをして獣をかり、手を血に染めてはじめて食物を得る騎馬民族に対して、地が戦に荒らされ、森が燃え、川が血に染まれば作物が育たなくなるという農耕民族とでは、考え方が異なるのも道理。

地方に行くと、養豚業者などを低く見ているのにびっくりする。
悪気なくサクっと下に見ているのである。
「生き物を殺して売っている商売だから」だという。
極論するとメスを握る外科医すら「褒められた商売ではない」という。
それくらい「血を出す」ことを嫌う。

そういう意識を綿々と受け継いできた民。
太平洋戦争といえば、国内は被害者的語りで満る。
みな「やらされた、強いられた行為」なのだと。
たぶん、実際そうで、「他国を蹂躙すること、自ら返り血を浴びて人を殺すこと」に賛成していた人ではなかったのだろう。

嫌いなのだから。己の手を血に染めることが。
己の手を血に染めてまで為さねばならぬことなどないと思うのだから。

2014/08/10(日) 上田攻め
寄りにもよって、上田に行こうといった日に直撃とか、ないわー!
という悲鳴と共に、雨の中を出発。
一縷の望みは「台風の雲が、長野県をよけている」ように見える気象レーダーの画像。長野県は山に囲まれている、しかもアルプスなどという名を冠した高山。雲にとっては強敵です。
関越道から上信越道に入り、八風山トンネルを抜けると、おお、雨が止んでいました。

菅平で降りて上田盆地を市街地を回り込むようにして、別所温泉へ。本日の泊りは別所温泉。宿泊予定の旅館に車を置いたら、出発。

小雨の降る中、上信電鉄別所線の別所温泉駅へ。
ここは東急電鉄の車両のお古を使っています。
東急線沿線に育った者のは懐かしいもの。
何せ、つり革には「東急百貨店」だの「東横のれん街」だのという銘が入ったままなんですもの。

終点は上田駅。新幹線の乗り換え駅でもあり、しなの鉄道の乗り換えも。ちっさい駅なのに、3線乗り換えになっています。

ここで昼食。駅構内の一角にある「武士(もののふ)」というラーメン屋さんにて。
豚骨味が「左近」、あっさり醤油味が「幸村」と分類されています。他の店でも、豚骨味を「左近」と呼ぶようなので、この土地の何か共通の呼び名なのでしょうか?「幸村」は、もちろん、上田の戦国武将、真田幸村のこと。再来年のNHK大河ドラマがこの真田幸村に決まり、町のあちこちにポスターが貼られていました。
おっと、ラーメンに戻ります。
「左近」の豚骨はかなり濃厚でそれだけでとろみがある程。
どちらと迷うなら「左近vs幸村」という選択肢があります。
白黒どんぶりが二つ合体したような容器に左近と幸村が入ってくる。左近の濃厚味を幸村の醤油味が流してくれるので、この選択がイチオシです。幸村単体だと物足りないし、左近単体では重いんじゃないかと。

食事の間、窓の外では突風が吹き周り、「どうしようか?」と思案しましたが、外に出る頃には風も収まってきました。

上田城を目指して歩き出すと左手にレトロなお店、みすず飴の本店です。。抱き合わせの土産物屋では見ない、ジャムや杏子ソースのみつ豆なども扱っていました。季節限定の「いちご味入り」のみすず飴や、桑の実ジャムも。長野圏一円で購入できるみすず飴ですが、ここが本店なんですね。

更に歩いて上田城。城の前の交差点のこちら側に土産物店。
戦国BASARAの真田幸村の画像が、どぉーん!
帰りに寄るとして、まずは城内へ。

上田盆地の中に位置する平城に分類されますが、元々小山でもあったのか、眼下の通りからはかなり高い位置に位置しています。
周りには堀があったということですが、すぐに高い崖を配するせいか水攻めで水没しそうにはありません。^^;)
上信電鉄の廃線跡を遊歩道にしたものが堀にあたるところを通っています。櫓に上れば目の前は長野新幹線の高架。逆に新幹線からも見えるわけですね。

戦国の城ですから、真ん中に天守閣とかはなかった筈ですが、今あるのは神社。復刻された櫓門をくぐるとすぐに鳥居があるのはそんな次第。

前にチェックしたときは、幸村はコンテストで選ばれると聞いていたのですが、現在はおもてなし武将として真田十勇士がいます。
雨天だからか、土産物屋の軒先で対応してました。

城内には資料館もあり。「一般人には残念なレベル、真田ファンには垂涎の価値あり」という形容詞は納得。展示の仕方は地方の資料館的ですが、そこに展示されているものは、まさしく真田家の情報。その後、上田は仙石氏のものとなり、さらに松平のものとなります。仙石氏は漫画「センゴク」の主人公のあの仙石氏です。
江戸初期を終える頃には譜代松平となったということは、この地は防備の要衝と見なされたと解ります。

帰りに先の土産物屋へ。真田幸村は様々な漫画やゲームに登場したので、それらのグッズも豊富です。
戦国BASARAの幸村は土産菓子も数種類。歴史雑誌では著名な諏訪原氏の描く幸村像のクリアファイルも。そして、様々な商業者が作ったらしい真田十勇士のグッズも。「いくつあるんだ」という程に様々のな業者みよる幸村キャラの総揃いぶみ。

娘が買ったのは「幸村茶」という麦茶のペットボトル。かわいい3等身キャラの十勇士が描かれていました。

これらを抱えて、また上田駅から上信電鉄で別所温泉に戻って、今夜はここ泊りです。


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