優妃 讃良の着物についておもうこと
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2013/02/10(日) 信長フィーバー
今年ももう1ヶ月半近く経過してしまいました。早いこと。
12/14の日記に書いて以来、信長がマイブームです。
最初は「信長って、もっとカッコ良かった筈」と思ってみたものの、信長の印象が意外と希薄です。
というわけで、文献を漁ってみようと思い立った。
ら、知らぬうちに信長研究は飛躍的に進んでいて「以前の定説」なんてものが、きれいすっぱりと覆されていました。
「桶狭間の奇襲にぼよよん今川は呆気なく敗死」も、布陣していたのは「狭間の谷間」ではなく、「桶狭間『山』」だし、今川はお公家ボケした軟弱大名どころか「東海一の弓取り」の名こそ相応しい威丈夫な上に、寄親寄子制度による新命令系統まで発案した大軍勢統率手法を徹底。ますます「なんで勝ったの信長サン?」状態。一方、信長も、かつては「怒りっぽい短気タイプ」と言われていたのが、何年もかけての美濃攻略、石山寺攻略に「忍耐強いタイプ」と評価されるようになっていました。
一方、「京都の馬揃え」「盆の安土城ライトアップ」などが、従来の「政治的側面」よりもお祭好きな面として捉えられるようになっていました。
更に、信長による流通革命の数々。「楽市楽座」は小学校でも習うことですが、他にも沢山やっています。どれくらい知ってます?
最近の注目点は「信長の生まれた場所」なのです。
彼の親、織田信秀の所領は尾張の海岸端。石高は余り高くない土地でしたが、この地域の津島という神社門前町は流通の拠点で、ここの商いから上がる分が農産物から得られる石高を遥かに上回っていました。最初っから「ゼニの恩恵を受けた武士」だったわけです。最後まで理解されることのなかった信長ですが、さもありなん。こういう知行地の出身の武将ってほとんどいません。ぱっと思いつくのは堺の商人を親に持つ小西行長かな。

まずは関所の撤廃。当時は関銭を取る目的の関所が沢山ありました。淀川には600箇所、近江から京都に行くには4kmで400箇所という場所もあったとか。

更に、街道整備。当時は道も獣道が少し広くなった程度で、でこぼこで、雨が降ればドロドロ。しかも山賊がどこで出没するかわからないので、商人達は隊を組み、防備の者を雇って行きました。もちろん、休憩場所もないから、そういった野宿や休憩の支度もしていきました。これを道路を広くならし、街路樹を植え、近在の者が清掃するようにと箒までぶらさげた。
さらに、休憩所や旅籠を配備し、休憩や宿泊を容易にした。
信長が整備した道は一人旅が可能だったとのこと。
これをみれば移動にかかる経費が格段に下がったわけで、それは当然価格に影響するし、かつ少量を扱う者が商い可能になる。

そして、枡の共通化。意外なことに、この頃、枡は共通じゃなかったそうです。代官が農民から徴集する際の枡と上司に納める枡のサイズが違うなんて常識であり、そこまで悪徳なくとも、「あっちの土地のとこっちの土地の枡のサイズが違う」もあり。
これを信長は京都で一般的な「京枡」に統一します。

更にビックリ。永楽銭が出回っていたので、貨幣経済は普通、金山や銀山を持っていた毛利や武田が経済的に強くなったのはそのせいと言われていましたが、金とか銀は、まだ「貴金属」という意味での「産物」に過ぎませんでした。
これを「貨幣」にしたのが、やっぱり信長。
「貨幣」にするには「交換率の定義」がいるわけです。これを定めた。そして、堺などで茶器を購入する際に用いて、金貨銀貨を頒布した。貨幣として「流通」するには、「出回っていること」も大事なわけです。
これにより、重たい銅銭を持ち歩くことなく、「高額貨幣」である金や銀で持ち歩くことが可能になりました。商いの帰りに重たい貨幣をどう運ぶかなんて心配も無用に。
これも流通に大きな影響を与えました。

そして、この流通の革命者は、戦でもこれを用いました。
例えば武田攻略。長篠の戦いで、信長の鉄砲隊に武田の騎馬隊が敗れたという説。最近の研究では、最初に鉄砲を戦で有効活用したのは誰あろう信玄であり、長篠の頃には既に千丁は持ってたとか。でも長篠で信玄は鉄砲を有効活用してない。何故?
鉄砲は弾丸と火薬が消耗品として必要です。しかも、火薬の原料である硝石はこの時期南蛮船からの購入品。
信長は既に鉄砲の生産地であり、南蛮船の交易港の最東端である堺を押さえています。輸送路としての琵琶湖周辺の街道も押さえています。これを使って、武田が硝石を買い付けることも輸送することも阻んだのです。かくして、長篠で武田は鉄砲を使えなかったという次第。

随分と印象の変った信長像。いやいや周りの今川の再評価も。
戦国時代は、私が子供の頃の認識とは随分と変ってきています。


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