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2012/12/24(月)
奉仕納め:手あぶりで済む衣類
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今年の忍城でのご奉仕はこの日でした。
世間ではクリスマスイブというこの日、我が家はどういうわけか、そういったイベントからはほど遠い状態にありました。 娘は、正月3が日を巫女さんとして神社でご奉仕するために、説明会とお清めの儀に出かけています。
そして、私はこうして、武家の衣装に身を包み、お城務め。 最近は「んじゃ、登城してくるね」といって家を出てきます。
昨日に続き、寒い日です。 一日中、戸外に立ったままですので、充分な防寒の備えが必要です。 って着ているのは、意外にも「冬の公家衣装フル装備」というだけ。普段は冬場といえども暑くて、とても規定の枚数を着用できません。
公家の屋敷は「夏を旨とすべし」と言うように、夏の通気性を重要視しています。 「冬は着重ねればいいのだ」ということなんでしょう。 冬の室内なぞ、外の強い風が吹き込まない程度の差しかなかったのではないかと。いや、現実、京都の冬の寺社の参詣は室内でもコート脱げません。磨きこまれた木造の床は氷と同じです。
「綿入れの衣」はさすがに作っていないので、真綿を紡いだ着物を着重ねます。って、「真綿を紡いだもの」って「紬」のことです。その中でも暖かさでは定評のある結城紬。 袷の正絹襦袢、結城紬、正絹縮緬の袷。これだけ着た上に、装束用の白小袖(化繊の単)を重ね、男性装束の単衣、衣(袷)を重ねて、その上に狩衣を着用。これがフル装備。普段は衣をなかなか重ねられないのです。
指貫の下には「下袴」ならぬ切袴を着用し、更にあったかタイツを着用。公家は袴をはき重ねたようです。タイツは当然ないですが、ステテコのような細身の肌着は存在しました。
装束の方は予算の関係もあって、私のものは全て化繊。風避け位にしか役には立たない。 今回の防寒役のメインは下に着込んだ絹物が頼りです。
いやー、衣類に隠れているところは全く寒さを感じません。 ご来訪のお客様の数人から「寒くないですか?」と聞かれましたが、びくともしません。折角だから、襟を指し示し、「ホラ、こんなに着ているんです。伊達襟じゃないですよ」と説明。
甲冑の武将はそこまでの着込みができないので「さぶい!」を連発。戦場を走り回らない場合は陣羽織を着用しますが、これは暖を取るためでもあります。 小早川秀秋の遺料にあるように、袖のある陣羽織もあり、南蛮渡来の毛織物のマントも重宝されました。 そこまでの衣類の用立てをできない武将達は寒いというわけ。
ところが、午後を回ってくると、気温が下がってきました。 着かさねた衣服はそれでも寒さを感じさせません。 が、終に寒さにまけ、15時をもって撤退しました。 理由は「手が寒い!」でした。 狩衣は指すらも内に入れ込んでしまえるのですが、それでも袖口側なので寒気が入り込むのか、指先からどんどん冷えてきます。 タイツ、足袋の二枚履きで足先は大丈夫でしたが、公家も武家も、平時は素足。さぞかし足先は冷えることでしょう。
「カイロもってくればよかった」
とひとりごちて、ポンと気付いたこと。
平安にしろ、江戸時代にしろ、暖をとる器具といえば、火鉢。 手をかざせば暖かいですが、その程度のパワーしかありません。 室内を暖める機能どころか周囲を暖める機能としても期待薄な道具。 でも、胴体は着重ねれば寒くはありません。 指先の暖が取れれば充分。 だから、火鉢で良いのですね。納得。
清少納言の「枕草子」では、「火鉢に足まで乗っけてあぶってる、みっともないったら」旨が出てきますが、うん、足先も冷えますからね。 袴が長くなったのもそのせいでしょう。 切袴形状であった束帯の袴に対して、指貫という裾を括った形式の袴が登場したのもそういったわけでしょう。 公家の着用形態として、足首で括るのではなく、括った中に足を入れていたようですから。これなら、素足で氷のような床を踏むこともありません。よく指貫の裾から紅い布がはみ出ている様が絵に残されています。これは緋の下袴が見えてしまっているのでしょう。二枚重ねなら、かなり暖かい筈。
衣装の変遷は必然から始まります。
「寒い」
このことが、このような衣類の変遷を引き起こしたのだと実感する、城址の冬でした。
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