優妃 讃良の着物についておもうこと
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2011/11/14(月) 戦国時代にだって公家はいたんだよ
昨日は忍城時代祭りでした。
たまに、装束で博物館前に出没する私は、この日も公家装束で参加。
まぁ、あたりまえですが、甲冑の中にあって、色目も鮮やかな公家装束は人目を引きます。

「これは平安だよね」
そういう人が結構いました。

鎌倉時代の到来と共に武家政権がスタートするわけですが、公家は滅亡したわけではなく、ちゃんと生きていました。
そして、公家達の着ている装束も時代と共にちゃんと変遷していきます。

まず一点。
強装束(こわしょうぞく):
今となっては帯地に使うような厚手の生地が可能になるのは、鎌倉時代の辺りからです。
蚕の品種改良などで太くて長い糸がとれることにより可能になりました。
「さぞかし重いでしょう」と言われる装束ですが、平安時代には、生地はもっとずっと薄かったんです。
だって、「下の地色の紅が透けて桜色に」って言う位です。今の生地は全く透けません。

枚数:
厚手になった分、重くもなったし、防寒力も上がったので、そう何枚も着重ねする必要がなくなりました。
なので、「三つ襲(かさ)ね」といって、表着1枚、下に2枚という風に3枚位しか着用しなくなります。

ふり:
私の装束は、身八つ口があり、袖の身頃側がぱっくり開いています。現在の着物と同じ。それに加えて、袖口側は「大袖」と言って下まで開いているので、袖はドーナッツ状です。
平安時代のはこの形ではなく、身頃側は袖と身頃がつながっていました。今の男性の着物の「人形仕立」と呼ぶ形態と同じです。
これが武家政権になる頃から変わって行ったわけです。

というわけで、ちゃんと「戦国時代の公家女性の格好」なわけなんですが、そういう風に見てくれない人の方が多いわけで。

それでも、ちょうど七五三ということもあり、「ほら、お姫様だよ」と七五三の祝い着の女児との写真は頼まれました。
女の子にとっては、いかつい武将との写真よりもお雛様然としたものとの写真の方が良いわけで。

そして相方に愚痴「戦国時代にだって公家はいたんだよ ねぇ」
「そういう説明を要する衣類はやっぱり駄目なんじゃない」
という彼女は水干。こちらは、戦国時代には公家、武将共に用いられたものですが、武家としては時代遅れ系。後に裃となる肩衣袴が主流だった時代です。

ま、時代祭りが終われば、何時代だろうと通るので、気にならなくなります。


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