優妃 讃良の着物についておもうこと
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2010/08/15(日) BASARA 黒いわ、元就
読んでみました、毛利元就

戦国時代も初期に属する人ですね。
「関が原の西軍総大将」をするのは、彼の孫の「毛利輝元」の方。
高校を理系選択して、日本史を選択しなかった私は、体系的強制強制知識は中学日本史までで、以降偏りがあるんで知らなかったんですが、毛利元就は「国人一揆」のキーワードで高校日本史に登場する人物でした。
「国人(こくじん)」なんじゃらほい?
「鎌倉幕府と室町幕府ってどっちが古い?」という位、日本史には疎い殿を笑えない。(殿も理系選択ですが、高校日本史は授業でやったという。でも受験にも大学の専攻にも関係ないので忘れたらしい)
「国人」はいわゆる、「地付きの地方豪族」のこと。鎌倉幕府でも、室町幕府でも、守護は幕府が任命して中央から送られてくる形態ですが、それではうまく回らないので、実際には地元の有力者が単位に分けて管理し、それをまとめるのが守護って形態に移行するのが一般化。戦国時代には、中央の力が弱まり、守護の力も結果的に落ちて、力をもった国人が守護を押し退けて、その立場に成り代わり「戦国大名」となる。

もう一つのキーワード「国人一揆」。
「一揆」といったら、「農民一揆」だの「一向一揆」だのと、庶民のするもんだと思ってたんですが、もう一つの「一揆」が「国人」のもの。「団体交渉」ってのは、別に庶民に限ったことじゃないという次第。力の弱い「国人」が一致団結して、巨大勢力に反論しようというのが「国人一揆」。農民一揆と違って、軍勢がわーっと押しかけてくるようなシーンは出てこないのも、国人一揆の特長。静かなもんです。
日本のあちこちで起きていたんですが、高校日本史では代表的例として「安芸国人一揆」を引いています。この1メンバーが毛利家という次第。

安芸の国というのは、今の広島県にあたります。毛利家の領地はその中でも中国山地の中、つまりが島根県とか岡山県とかの県境に近い「吉田郡山」にありました。中国地方には、大内家、尼子家という二大勢力がいて、安芸の国に限らず、中国一円の国人はどっちかに属していました。
大内と言えば、「応仁の乱」で西軍メンバーとして出てくる人。
大内軍のみならず、周辺の国人衆も率いて京都に上ったわけです。この辺も歴史のおさらい。応仁の乱は小学校の歴史から登場してますが、視点は当然、京都の足利家視点。
これを、西軍の大内から、さらに、それに参戦した国人衆の視点から見ると、いやいや、ああ、そうなってたのって感じ。

応仁の乱は、大内が自国に引き上げたことで、牽制力を失い、西軍が弱体化するんですが、その理由といえば、5年以上、自国を空けて京都に詰めてたら、尼子が力をつけてきて、自国を脅かし始めたと。今と違って、京都と大内氏の所領長戸、周防は、ほいほい行き来できる距離じゃありませんから、全く面倒みてなかったわけです。
(今、私の友人が、山口県下松市に在住。本社が東京にある会社に勤める彼は、寝台特急「瀬戸」を使って、東京と山口を「日帰り」してます。ああ、隔世の感)
同じことが国人衆にも言えてて、5年も自国を空けてると不安に。ここで、中学日本史では出てこない、武士と領主の関係が、江戸時代に一般的に説かれる「義」とか「忠」ではなく「御恩と奉公」という概念なことを忘れてはいけないのです。
このキーワードも高校日本史。記述式には出やすいとか。
簡単に言うと「給料くれるんだから、その分働くわ」という、実に割り切った関係。大内と国人衆の関係もこれなら、国人衆とその家臣との関係もコレなわけです。「家臣に自領を預けて」なんて、信頼できる関係はそこにはないのです。「金の切れ目が縁の切れ目」で、「自分が不利であろうと、友や主君のを助けに」なーんて、「どこの安ドラマ?」と一笑されそうな程です。
同じ時代、上杉謙信はその「義」を説き、その家臣の直江兼続や、人質として滞在していた真田幸村がその影響を受けて「義」を大事にするようになりますが、それが「目立つ」程に、当時はそういうのって、希薄でした。
今の私達が、転職して以前まで競合していた企業に入社して、全く良心が痛まないように、国人衆は頼る有力領主を換えることになんら躊躇いはありませんでした。


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