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2007/06/15(金)
そんなに袴がはきたいか
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「そんなにしても袴はきたいの??」 って、数日前のウチのお姫さんの言葉。
どういう格好だったかというと、タンクトップの上に麻のねじマチ袴をはいてたんですよ。昼間の暑気が夕刻になっても、あまり落ち着いていない日のこと。
そうのたもうたお姫さんの格好といえば、似たようなタンクトップに、ジャージのダボパン。大した違いはありませんわな。
袴の場合は、胸下すぐのとこに着用しますが、ダボパンはウェスト。それくらいの違いです。
平安時代、貴族の女性は家の中では、こんな格好の上にスケスケの生絹(すずし)の単を羽織っただけでした。 胸元がどうなっていたかが気になるところなんですが、 「胸は丸見え」だったとか、「袖なしの下着的なものを着ていた」「袴の腰をもっと上げて、胸の上が上端になるように着ていた」など諸説あります。絵をみても、さすがに、胸元がぼかして描かれているので、定かではありません。 「源氏物語絵巻」の一枚では、袖の辺りはスケていますので、何か着用してたとしても袖なしの類なことは間違いないかと。 正倉院御物の中に、袖なし下着だとか下袴だとかもあります。 なんで、それくらいは着てたかなーと思ってみたり。 一方、当時は、「胸を出す」って事自体、そんなに問題になるような時代ではありませんでした。胸以前に、「姿」そのものの方を見せる、見せないの方がよっぽど重要だったというべきか。 庶民を描いた絵では、乳飲み子を抱えた母親はおおらかに胸を出している。 私が子供の頃だと、電車の中とか、待合室なんて、人目の多いとこでも、パラっと胸元開いて授乳するお母さんって、普通でした。「授乳室など人目につかないとこで」なんてのは、いつの間になったことなのやら。
もちろん、平安当時でも、宴会のような場所で女性が胸を出すのは仰天ものでした。気の病の奥方がいきなり、装束の前をあけて胸を見せたので、皆が慌てた、って話(絵巻物まで)が残っています。こんな話からすると、白小袖を着る習慣ができる迄って、袴の下には何も身につけてなかったのかなって推測したりします。
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