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2007/02/06(火)
公家の服飾、武家の服飾、町人の服飾
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今日のタイトルは、至文堂発行の「日本の美術」シリーズというムック・シリーズの一冊から。「服飾」の3部作です。「服飾」という全般的に論じているものもあるのですが、個別に見ると判りやすいです。
『公家の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税) ISBN 978-4-7843-3339-4 (4-7843-3339-8) C-CODE 9472
『武家の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税) ISBN 978-4-7843-3340-0 (4-7843-3340-1) C-CODE 9472
『町人の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税) ISBN 978-4-7843-3341-7 (4-7843-3341-X) C-CODE 9472
日本の衣服の歴史は、平安時代の束帯の時代から、鎌倉時代の武家の直垂、戦国時代の裃、江戸時代の町人の小袖へと書かれていますが、誰も彼もが平安時代に束帯を着ていたわけでもなく、鎌倉時代になったからといって公家が武士と同じように直垂を着たわけでもありません。江戸時代に至ってなお、十二単や束帯は礼装だけになってはいますが、それでも、武家や町人と同じ格好ではありませんでした。
逆に言うと、町人(平安時代には既に、平安京に住む庶民が存在していました)は、当然、平安時代には十二単でも束帯でもなくって、町人なりの格好をしていました。 既に衣類的には、袖やオクミができており、現在の着物の形態とほぼ同じものを着ていたらしいことが絵巻物に描かれた庶民の姿から見ることができます。 庶民の女性は袴だってはいてはいません。帯が腰紐程に細く、袖が細く、着丈はお端折りなしで膝下10m位の丈です。 生地は木綿は江戸中期以降に広まるものですから、葛布、藤布、麻布といった素材でした。絹が使えるのは貴族やお金のある人。 男性も下層階級では袴ははかず、女性と同じく着物だけです。 貴族の家の裏口からでも出入りするようなレベルだと、葛袴とか四幅袴(よのはかま)という膝丈の袴をはきました。 四幅というのは、ウェスト部分で布4枚分、2幅で足一本分のものを指しました。現在の着物の反物は標準は1尺幅ですが、平安時代の反物の幅は1尺よりずっと狭かったそうです。 ですから、見た目のイメージは、「袴」というよりも、現在の「膝丈ズボン」に近いです。 染めも既に平安時代からあり、草木染めで単純な模様を描いていたようです。
町人の服飾はここから始まり、戦国、江戸期を経て金銭的に力を持つようになって、木綿地、絹地、紬地を駆使し、友禅染めの花開く華麗な振袖につながっていきます。 最初っから、町人女性は袴をはいていなかったし、羽織なども重ねてないわけで、それがそのまんま今の振袖や留袖の形態に至ります。 羽織の着用は、向島芸者が「男性として雇用」されていたための「男性ですよ」の意味から始まったと言われ、主に防寒目的でした。明治以降のどこかで「下が木綿でも、黒紋付羽織を着れば、黒紋付と同格」という考えが生み出されるようですが、ここはまだ未調査部分です。短時間で正装にチェンジできる点が忙しい合間に冠婚葬祭をこなす町民に向いていたのか、「着物一式よ」りは遥かに安価で済む「羽織一枚」というお支度が下層階級ではリーズナブルな選択肢として受け入れられたと思われます。
一方、公家の服。平安時代のは誰もが知るところですが、鎌倉時代になって武家が政権を握り、江戸時代へと遷る中でどんどん困窮していきます。 束帯は礼装のみとなり、単すら窮乏して「身頃は下着、袖だけ単生地」なんてものが登場し、室内着には直衣から狩衣、水干、道服、羽織と簡略化、袴も指貫すらもよそゆきとなり、裾で切った「差袴(さしこ)」を普段用に用いるようになります。 羽織に差袴では、武家や町人のソレと大差ない状態に行き着いていたわけです。 女性の服装も十二単の重ねの枚数が5枚から3枚、1枚と減っていき、普段着には袿の裾も着丈程に短い小袿も使われました。袴もふみしだく長袴は礼装で、普段は男性公家と同様に足首までの切り袴や裳袴を用いました。「裳袴」というのは、裳と袴を合体させたもので、今で言う行灯袴にあたります。 更に、徒歩外出時には武家女性や町人女性同様に袴をはかない格好もするようになります。 裳袴に小袿の格好は、今の卒業式の女学生に似ています。 明治以降、普段着としては小袿が羽織に代わるので、羽織&袴は十二単の究極の簡略形として服装なのでした。
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