優妃 讃良の着物についておもうこと
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2007/02/01(木) 袴の歴史(1)
女性の袴着用は、飛鳥時代にまでさかのぼる歴史があります。
平安時代に、女房装束、いわゆる十二単と呼ばれる形態になると、
衣類の前から張り袴がを見せるようになります。
しかし、この袴は、公家や公家に仕える女房など、日本全体で言えばごく僅かの人達のものでした。
庶民は、今の着物とほぼ同じ形態の膝下丈位のものを着用し、袴は着用していませんでした。

時代は下って鎌倉時代となり武家が表舞台に立つようになると、服飾の歴史も武家の服飾を追
うようになります。武家は庶民上がりですから、堅苦しい礼装では公家と同等の格好をしましたが、
自身の生活の中では袴の着用を退けていきました。
更に時代が下ると服飾の主役は町人になっていきます。町人はより庶民ですから、
いくら裕福になっても袴をはくという習慣は持たなかったようです。

さて、武家が服飾の表舞台にいた時代、町民が服飾の表舞台にいた時代、
公家は何を着ていたのでしょうか?
権力を奪われ、所得も先細りとなった彼らは、さすがに、平安時代並の服飾習慣を維持することは
できませんでした。重ねる袿の枚数も減らしながら、晴れの日以外は長袴でなく、
切袴になったりしながらも、着続けていました。
江戸中期以降には、外出時には袴をはかないような習慣も出ては来ていますが、
とはいえ、袴の習慣を完全になくしたわけではありませんでした。

明治時代に入ります。
洋化に伴い、奈良時代にすたれていた椅子式の生活が戻ってきました。
宮中においても帝の洋装など、洋服化が進められていた筈なのですが、
不思議なことに、女性の最上位正装としては袿袴姿の袴を切袴にして、袿の裾をたくしあげた
「袿袴道中着姿」を定めました。椅子と靴の生活では長袴は不適切という次第です。
この格好は、明治神宮外苑の聖徳記念館に飾られている絵画に見ることができます。
御茶ノ水女子大の前身の女学校を皇后陛下が視察される場面で、陛下は道中着姿でいらっしゃいます。

一方、武家の子女の働く姿、勉学する姿として袴をはきました。
これは文部省が女学校開設にあたっての太政官布告によるものでした。
但し、こちらは男性と同じ武家袴を着用したために、その姿は「男の真似のようで奇異」とされ、
明治16年には、文部省は「女子の男袴の着用の禁止」を法制化します。

明治初期の女学校の教師と生徒の錦絵や写真には男袴姿のものが写っています。
また、学制布告と同じ明治4年に開設されたか官営富岡製糸工場に「指導官候補」として集まった
士族子女もまた、男袴で勤務していました。

今、卒業式の女学生の姿として見られる行灯型の女袴を考案したのは、下田歌子という女性です。
士族の娘に生まれて、宮中女官となり、さらに女子学習院の前身である華族女学校開設時の
幹事兼教授を務めました。後に校長となります。

この華族女学校の制服として下田歌子が採用したものが始まりと言われています。
この形状は、幕末頃の公家社会において、下級女房の着用していた裳袴(もばかま)から考案した
のではないかと、私は思っています。
彼女の晩年、自宅で撮った写真では、袴姿で座っています。特に教場でなくとも、
彼女は袴をはいていたようです。

以降、他の女学校や更に地方の小学校にまで「袴をはく」というファッションは広がっていきます。
文部省が禁じたのは「男袴の着用」ですから、女袴は当然、対象外でした。

このようにして袴姿で女学校に通った女性達は、卒業式で社会に出て働くようになったときにも
袴をはく者がいました。女教師や電話交換手、タイピスト、女性雑誌編集部などに働く女性達でした。
女子判任官も袴姿でした。判任官というのは、下級のお役人のことです。
「お役人」といえば、男社会かと思いきや、意外にも早い時期から女性が進出していたんですね。


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