優妃 讃良の着物についておもうこと
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2007/02/25(日) 久喜図書館
昨日のオーディオ倶楽部の発表会は久喜市民ホールで開催されました。
その通りをはさんだ向こうには久喜図書館があるのです。
埼玉県では、浦和、熊谷と並んでの県立図書館。
主に文学関係を所蔵しています。

有職故実関連の書籍を熊谷で検索したときに、文学分類の文献は、久喜図書館所蔵なので、「うう、見れない!」と思っていたのですが、なんと、こんな機会があったんだった。

タイトルからチェックかけられるものは、取り寄せすれば良いですが、タイトルからでは判別できないのも多い(つまり、文献のメインテーマじゃないけど、その一項としてふれているもの等)ので、書架を見たかったんです。

午前中は、倶楽部の方は準備で、受付役は受付開始に行けばよいので、荷物搬入担当の殿に同行して、図書館に直行。

比較的小さい図書館のように見えます。といっても、県立図書館の所蔵の大半は閉架書棚にあるので、全体の所蔵量はわかりません。熊谷図書館では開架書棚にあった群書類従もこちらでは閉架書架です。
まずは、入り口近くの検索用PCで書棚位置をチェック。
文学が多いからか、源氏物語は「古典文学」に入るのに、枕草子は「随筆」だったのにはビックリ。いや、随筆ですけどね。普通は「古典」の方に入れるのがよくあるパターンだから。
有職本ではないけど、「ニセ物語」の解説本も発見。
日本文学史を習うと、江戸期の戯言本として、「伊勢物語」をパロった「ニセ物語」のタイトルが出てきます。
「むかし おとこ ありけり」で始まる伊勢物語に対して
「おかし おとこ ありけり」で始まるというニセ物語はどんな話なのかと、ずーっと気になっていました。「古典文学大系」なんてスゴイ本にだって載っていない。

さて、次 次、やはり、タイトルからでは拾えない本がいくつかありました。源氏物語や枕草子を研究すると、どうしても当時の室内装飾や服飾にふれないわけにはいかないので、それなりの量の本を揃えると、やっぱり、それに一章割く解説本はある。

そして次は、R本、つまり「禁持ち出し」コーナーへ。
「平安朝服飾百科」広辞苑位ぶあつい本です。
用語集のみでなく、どの本でどのように書かれたかが書かれているために、この厚みになっている。故実叢書の「装束集成」の現代版というべきでしょうか。座右において引き引きしたいとこですが、「禁持出」だと、熊谷図書館への取り寄せも不可なのかなぁ。これが「禁持出」なのは、ちょっと痛い。

おっと、もう受付役をする時間です。ああ、もうちょっと時間!

受付の暇暇には、借りてきた「装束集成」を読み読み。
この本は、装束解説の基本だと、ほーんと実感。挿絵はなくて、同じ「故実叢書」シリーズの別の巻になります。挿絵本の方は本格的な印刷(凸版印刷とかかな)の重ね刷りで、凸凹が模様を浮き出させていたり、黒に別の黒インクで模様を描くとか写真に撮れないような凝ったモノ。

最近の装束関係の本の後ろに書かれている「参考文献」には必ず載っている一冊(いや、一シリーズ)。

熊谷図書館の休館期間が終わったら、取り寄せを頼みましょう。

2007/02/24(土) 彩球オーディオ倶楽部30回記念
今日は彩球オーディオ倶楽部の30回記念会。10周年にもあたるそうな。
いつものように、受付のお手伝いです。
更に、今回は殿が結婚式で中座するので、その間のデジカメ要員もしました。

今日のお衣装は、萌黄の紋意匠無地に松葉の袴、花柄小紋の長羽織にしました。

私の袴姿もこの会では定着しています。
「真空管オーディオ」が対象なので、会員にはおじいちゃんが多いからか、着物には肯定的です。

今回は、いつもの新作アンプの発表はなしにして、過去に発表された懐かしいアンプやスピーカを十分に聞いてもらう会としました。

そして、終了後は懇親会。こちらもいつものレストラン。
今回の演奏は、タンゴのバンド。バンドネオンは本物の年代モノだとのこと。やっぱり、タンゴといえば、バンドネオンの音が決め手ですねぇ。

この会では、開会以後もポツポツと遅れてくる人が沢山いるので、受付係は、ずーっと受付席にいます。
今回の受付係は、会長の奥様とそのお友達、会員の奥様と私の4人。私が着物姿だったことと、会長の末娘さんが成人式に振袖を着た写真の話になったことから、着物の話になりました。

って
「娘とか孫はもう着ないのよねぇ」
「親や祖母の分は桐箪笥ごと捨てちゃったわ」
「自分の分も、最低限を残して捨てちゃったわ」
なんて、もう捨てまくりの話です。
着物がお好きな方でいい着物を持っていらした親御さんもいらしたようなのですが、それを箪笥ごと、すっぱりとだとか。

うわぁーー! もったいないオバケが・・・・

2007/02/22(木) 袴の種類と腰紐の結び方
袴には色々な種類があります。似たようなもんなんですが、腰の紐の結び方って、ちょっとづつ違います。

まず、男物。
仙台平とか無地紬で作られる男袴。これは、武家の袴から来ています。前腰の左右に紐があって、これを後ろに回して、帯の上で交差させ、前に回して、前でも交差、再度後ろに回して、蝶結び。後ろの腰板の左右についた紐を前に回して結びきりにして、結び目を紐の中に挟み込むか、十字に飾り結びします。
袴の形状では「馬乗り型」と呼びます。

商人などでは、これを行灯袴に仕立てたものも着用します。
子供は、「裳袴(もばかま)」といって、こちらの「行灯型」を着用していましたから、七五三の袴は行灯型が一般的です。
腰の紐の付き方と結び方は、馬乗り型と同じです。

お公家さんの穿く指貫袴(さしぬきはかま)(奴袴(やっこはかま)とも呼びます)は、現在の形状では、武家袴とほぼ同じです。
違うのは、前で結ぶ結び目が蝶結びなこと。もちろん、紐の中に折り込んでしまいますから、そうとは見えない仕上がりになります。古い形態では、後ろ腰についた紐も前紐同様に長く、前で結ばずに、前で交差させて、後ろで結んだんだそうです。

束帯の下に穿く、下袴と表袴の場合は形状が違ってきます。
紐は前と後ろが脇でつながっている一本構成です。
下袴は左脇で結び、表袴は右脇で結びます。同じ方で結ぶと片方だけ結び目が重なってモコモコになっちゃいますから。
結び目は、一種の縦結びの蝶結び。紐端、長めの輪、短めの輪と重ねて揃えます。

江戸末期頃には、差袴(さしこ)といって、指貫袴の裾を裾丈に切って、括らないタイプを普段は穿いていたそうです。これが、今の神職さんの袴として一般的な袴でもあります。
腰の部分は、指貫と同じです。

さて、女性の袴。
まずは、装束の袴。これも束帯の袴のように一本構成です。
右脇で結びます。男性のと大きく異なるのは、片結びなこと。
輪は折らずに胸元に立てるか、胸元中心に向けて斜めにします。
端は二本揃えて、垂らします。

巫女さんや女性神職さんの穿いている袴は、差袴と同じか、同じに見える行灯袴です。これは、差袴の紐の結び方と同じです。
女性神職さんにだけある「ねじ襠(まち)式袴」という、馬乗り型のものは、装束の女袴と同じ右脇で片結びにします。

さて、女性のはく袴で一番一般的な行灯型の学生袴
これは、前紐、後ろ紐の二本式です。結び方は男性の武家袴と同じです。
但し、前の結び目は正面でふっくらと「いかにもリボン」に蝶結びします。このリボン結びを若干左脇に寄せるやり方もあります。

女性の穿く袴には、裳袴(もばかま)があります。これは、公家の装束の系統にあって、簡略化の一形状です。
形態は学生袴の行灯袴と同じです。但し、学生袴がウールサージを本義とするのに対して、こちらは正絹が本義です。

華族女学校の制服として下田歌子氏が考案したとされる「学生用の袴」ですが、元々、公家に仕える女房達の裳袴をウールサージ地にしたものです。生地は違えど同じ形態なのは当然です。

区別はもう一つ。裳袴は、装束の女袴の簡略形ですから、腰の紐の結び方は、右脇に片結びにします。学生袴とはこの点が見た目にも異なる部分です。

私の手持ちの袴は、行灯袴とねじ襠式袴です。
どちらも、右脇で片結びにしています。

だって、装束の切袴の簡略形のつもりですから。

2007/02/21(水) 黄櫨染の色無地
帰りの電車の中、ふと見ると、斜め前の方の席にお着物の方が座ろうとしていました。黒地の羽織かしら、道行かしら、向こうを向いているので、襟元がわかりません。地紋はハートが飛んでいます。いや、桜の花びらですね。織り紋の見えたり見えなかったりの粋な絵羽付けです。
下の着物に目をやると、金茶というか、黄土というか・・・・・
そこに挽き茶色で・・・おお、小葵紋が反物いっぱいに。
とすれば、これは「黄土色」じゃなくて「黄櫨染(こうろぜん)」と見るべきでしょう。
有職紋を白生地に織って、平安時代の代表的な色に染めた色無地を売っているのを知ってはいましたが、見るのは初めてです。

見ていると、そのご婦人は、上の黒の上着を脱いで畳んで、帯付き姿で座ることにしたようです。着物の全体が見えるようになりました。
うーむ、すごい迫力です。並の色無地のランクじゃありませんね。
色が、っていうか、柄が、っていうか。

装束の色とか柄って、やっぱりスゴイと思うのでした。

2007/02/19(月) 江戸時代 士農工商の比率
優妃のご先祖はお武家さんです。といっても、地方のショボい外様大名に仕える、下級武士だから、大したことないと思ってるんですが、知人との会話から、「武家って意外と少ないんだよね」と。
私の親の時代は、そういったことにこだわりましたから、私の親の親族は揃ってお武家の末裔です。現代は、サラリーマンが多いです。武家ってのは「自力生産をせず、管理をすることで俸禄をいただく。宮中や徳川直参を「国営企業勤務」とすると、大名への勤務は私企業勤務のようなもの。一応、父方では足利家から分家して、ずっと誰ぞ(しかも負け組君主が多い)に仕えていたようです。
つまりが、「室町時代からの『由緒正しき』サラリーマン」というわけです。(ケラケラ)

自分の縁戚はお武家の末裔だらけなんで、「武家の末裔」なんて、ゴロゴロいるんじゃないかと思ってたんですが、上のように意外と少ないらしいとわかってきたので、調べてみました。

江戸時代の士農工商の比率は、
武士(公家、僧侶・神職を含む)が一割
町人(工と商、つまり町に住む庶民)が一割
農民(農業、漁業、林業などなど、村に住む庶民全般)が8割強

なんだそうです。
「士」の区分には帝や将軍も含まれるし、外様大名の下っ端武士もいれば、お寺の小僧さんもいるわけです。大きいお寺さんは、沢山の僧侶が集まっていましたから、これも、結構な人数いたんじゃないかと思います。
意外なのが、町民です。商人だとか、職人だとかって、意外に少ないんですね。厳密には「士」よりも「工商」は少ない。
そして残る8割がいわゆる生産人口です。

通りですれ違う人の5人に4人は「農」を先祖に持つ人ということになります。「士」とか「工、商」に合う方がレアですね。

なーんとなくですが、同じ「農」に属する場合、土地が離れていても、習慣って極端には違わなかったり、似通っている部分が随分あったりします。
殿の母方は山形県酒田市郊外、父方は群馬の山奥の山村とかなり違う場所なんですが、お寺の宗派は同じだし、年中行事の守り方にも同じ部分が多いです。

「士」は「公家」「お寺さん」「お宮さん」「大名家クラス」「下級武士」で習慣に差異がありそうですが、「下級武士同士」だと、やっぱり遠く離れた土地の出身でも通じ合う習慣があります。私の父方は、秋田の下級武士、母方の父方は東京近郊、母方の母方は四国の徳島ですが、こんだけ離れてても、やはり宗派は同じであり、年中行事の守り方の基本も同じです。

こんな話してても、実際には、若い世代がデートするときには、まーったく意識する必要はありません。
私と殿だって、結婚しようと思ってからですら、それが譲歩もできないような事項を隠しているなんて考えもつきませんでした。
「士」と「農」は、年中行事の守り方とか、着物に対する考え方が、ぶっとびに違うんです。

例えば正月の元旦の守り方
「士」の例:
  晴れ着を新調し、正装して祝い膳を囲んで、新年を寿ぐ
  準備は事前事前に行い、12/31の朝には全て準備万端のこと。
  門松は12/13頃からポツポツと立て始め、12/25頃には揃う。
  「一夜飾りは厳禁」で、12/31は飾りを売る店もなくなる。
「農」の例:
  普段着で祝い膳を囲む。年に数度の貴重な休養日。
  準備は12/31の午後から行い、1/1の祝い膳までに仕上げる
  門松は12/31の夕方5時位迄を目処に立てる。

ざくっと言うと「士」における元旦は「儀式の日」であり、「農」における元旦は「休養の日」です。
着るものや過ごし方に大差があるのは当然でしょう。

最近では、個々の年中行事に対する儀礼を守ること、ハレの献立を守ることが、どこでも崩壊しつつあると言います。
でも「8割が農を先祖に持つ」と考えるなら、それは「一時的には、士とか商、工の習慣を真似てみたけど、やっぱり、本来の習慣がいいわぁ」って戻っただけなのかもしれません。
元々、「農」は生産人口ですから、折々の年中行事も、収穫と先祖供養に関わるものを除けば「士」程は多くありません。

「正月に着物を着ない人が増えた」と和装業界は嘆きます。
でも、人口の8割である「農」は、殿の実家が今もそうであるように、元旦に晴れ着なんか着なかったんだと思います。
明治になって「四民平等」ということで、「お公家さんのように長い着物を着てもいいんだ」という発想が庶民が晴れ着を誂える起爆剤となりました。
でも、それは、洋服という楽な着用物で代用できるようになると、「着物にこだわる必要はない」となっていったのではないかと。
和装業界のお客様は、今も昔も人口の一割なのかもしれません。

※ちょっと、気になって、士農工商の比率を調べてみたら、武士って、すっごい少ない割合なんだなってビックリしたこと。
もしかして、「世間一般の習慣」って、8割の「農」の習慣なんじゃないかって勘繰ってみた話です。

2007/02/18(日) 公家の人数
平安時代、京の都は10万都市でした。
そのうち、お公家さんはどれくらいいたかというと、
宮仕えしている人のうち、5位以上を「貴族」と呼びますが、このランクにいる人達の数は家族も含めて1000人位だったそうです。この下に下級役人がいたし、大家には女房や家司など下級貴族が仕えていましたから、その総数は2,3倍と見て3千人位でしょうか。京都の人口の3%に過ぎません。
江戸時代になると、今の京都御苑の場所に「公家町」といって、天皇家以下公家の家を集めてしまいます。この中に何人位が住んでいたのでしょうか?家自体もかなり整理され、石高も減らされていたので、雇用人なども絞っていたらしいです。ま、仮にそれでも3000人位いたのだとしても、江戸時代の全人口(江戸末期に約3000万人)に比較すると、0.01%に過ぎません。1万人に一人です。
公家は「士農工商」では「士」に分類されますが、「士」は全人口の約1割、「士」の中でも1%、100人に一人に過ぎません。
しかも、京の都の公家町にしかいなかったわけですから、見かけることは非常に稀有なことだったでしょう。
京以外の土地では「絶対に見たことない方々」だったに違いありません。

数で見ると、すっごく少ないんですね。

2007/02/17(土) 群書類従のあるところ -実践編-
殿は休日出勤、姫は土曜授業なしという日。
午後を使って、インターネットで、有職関連本のリストを作り、県立図書館にでかけました。

ここは3階建て、1階が児童室、2,3階が大人用の書架です。
持ってきたリストを見ながら、検索PCで場所を確認して書棚を探し出して本をピックアップしていきます。
群書類従が見つかりません。係りの方に聞くと「これは、閉架書棚の方なんですよ。持ってきますね」と。
持ってきてくれたんですが、すっごい古い、痛んだ本です。
「もし、内容が同じので良いなら、上の階に、新しい版のがありますよ」と。
なんと、この図書館には、和綴じ本の版に始まって4版位所蔵しているんです。そのうち、最新版が開架書棚の方に出ていました。検索リストで100巻位あると知っていたんですが、1棚占拠しています。「続・群書類従はこっちですから」もう一棚です。
「群書類従解はこっちです」うわぁー!
塙保己一って、こんなのを作ったんですね。今更ながらに感動。
元の状態はわかりませんが、図書館特有のハード装丁なし本につける深緑のハード表紙に背表紙の金文字が彫りこまれています。

なんか、「見て、必要な巻だけ買おう」なんて思っていたけど、やめやめ!ここに来て、心行くまで堪能いたしましょう。
幸いにも禁持出。同じ時間帯にここに来て、読みふけりそうな人もそうはいないと思うし。

2007/02/15(木) お姫さんは、着物を持っていった
来週一週間、お姫さんは、「昼は学校、夜は合宿」という生活をします。私立だからか、塾的なサービスもあって、それの集中講座って感じ。遠くから来ている子もいるので、「放課後」なんて形にしないで「泊り込みで、毎日11時までガッチリ」というコース。
当然、昼は制服ですが、合宿所では、私服OKだそうです。
もちろん、寝巻きを持参すべきなのは当然のこと。

んで、お姫さんは、私服用に「いつも着ている」Tシャツだとか
、ジャージの類だとかを詰めました。
そして、寝巻きとして「いつも着ている」白無地木綿の着物を詰めました。
過去数度の数々の学校での宿泊行事で既におなじみの「着物娘」です。規則がなんだかんだとうるさい学校なんですが、寝巻きに関しては「普段着ているものなら、『何でもOK』」だそうで。まぁ、一度、「それ、まずいよ」といわれれば、お姫さんは二度とやらないクチなので、ホントに何も言われていないみたいです。

ちなみに、その着物姿が縁でできた友達が2人。
「着物好きなんだ」ってことで、着物好き同士が気が合うらしい。ただ、うち一人は、ある合宿のときにその着物姿、歯ブラシもって洗面所に行く途中で、いきなり抱きすくめられて「お友達になって下さい!」というドラマチックな告白で、だったそうです。

2007/02/07(水) お姫さんの袴度
ウチのお姫さんは、「よそゆき」はほぼ、袴姿です。
「学校の制服」か「Tシャツかトレーナにジャージズボン」以外のものを着用しないといけない場合は、袴です。
「袴もダメ」となると、観念してカジュアルの中にもちょっとよそゆきっぽい、白黒チェックのミニスカートに白ブラウス、黒のジャケットなんていう、並の女学生の格好をします。

ちなみに、先日、英検試験に行く格好として、長袖Tシャツにジャージ長ズボンといういつもの普段着コーディネートで、埼玉県は大宮の試験会場に行ったら、同じクラスの子達(英検受験は学校指示なので、家の近い子は同じ会場になります)に後ろ指さされたとか。もちろん、後ろ指差した方は、イマドキの中学生的なカジュアル格好だったそうな。
自分のコーディネートに関して、「流行至上主義」の戯言(たわごと)なぞ、一切気にかけないお姫さんです。

ヒラヒラ、フリフリは嫌い。ピンク他ファンシー・カラーもダメ。ピンクハウスやゴスロリは論外です。
といって、カッチリ・キッチリな四角四面のスーツも嫌い。
スカートはフレアはダメ、タイトもダメ。

この条件に意外にもあてはまるのが着物です。
昨今、袖や衿にレースをつけるのが流行りましたが、基本的に着物そのものにはレースはつけません。
生地がしっかりしていますからヒラヒラしません。
着流しだと、腰から下はタイトスカート状態になりますが、ここに袴を加えると、足さばきが自由になります。
袴そのものも、ヒラヒラでもなく、カッチリでもありません。

着物の色柄の好みは、意外にも花柄。ファンシー系はやはりお好みではなく、はっきりした色に紋様的に花の描かれたものを好みます。例えていうなら、京好みとか、有職紋、新しいところではアール・ヌーボーとかアール・デコ風柄。

ここ数年の冠婚葬祭や年賀は全て袴姿です。

例えば、

私の父方の祖母の葬儀:
  お姫さんからは曾祖母にあたります。
  黒の五ツ紋に黒無地の半幅帯、黒袴を合わせました。
同じく納骨:
  黒地にアール・デコ風のチューリップ柄の小紋に黒袴
同じく1年祭:(仏教でいう一周忌にあたります)
  くすんだ紫地に四季花の総柄の1尺5寸袖に黒袴
同じく生誕百年歳:(時期では仏教の三回忌にあたります)
  1年祭と同じ着物に臙脂袴
小学校卒業の挨拶周り:
  卒業式自身は中学校の制服で出ました。
  矢絣に黒袴
毎年の元旦:
  くすんだ紫地に四季花の着物に袴は色々に

こんなお式向けに使うかと思えば、同じ1尺5寸袖の着物に袴で足元はスニーカー、背にはリュックなんて意外な組み合わせの格好で、梅の山をかけってるのも、不思議と違和感なく。

そう、袴姿って、着物と違って、走る姿もサマになるんです。

トドメに、コタツでゴロゴロするのも袴。着物は普段用の白無地。
裾の着崩れが全く無視できし、衿は男性に近い位衿をつめて着るものなので、緩めに着付けても着崩れることがありません。

お姫さん用の袴は化繊なので、池に落ちても、お茶こぼしても安心。洗濯機にポイッ、すぐ乾くし、仕上げに襞にアイロンかけて出来上がりです。

子供には袴姿って向いています。

2007/02/06(火) 公家の服飾、武家の服飾、町人の服飾
今日のタイトルは、至文堂発行の「日本の美術」シリーズというムック・シリーズの一冊から。「服飾」の3部作です。「服飾」という全般的に論じているものもあるのですが、個別に見ると判りやすいです。

『公家の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税)
ISBN 978-4-7843-3339-4 (4-7843-3339-8) C-CODE 9472

『武家の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税)
ISBN 978-4-7843-3340-0 (4-7843-3340-1) C-CODE 9472

『町人の服飾』1999年07月 発行 1,631円(1,553円+税)
ISBN 978-4-7843-3341-7 (4-7843-3341-X) C-CODE 9472

日本の衣服の歴史は、平安時代の束帯の時代から、鎌倉時代の武家の直垂、戦国時代の裃、江戸時代の町人の小袖へと書かれていますが、誰も彼もが平安時代に束帯を着ていたわけでもなく、鎌倉時代になったからといって公家が武士と同じように直垂を着たわけでもありません。江戸時代に至ってなお、十二単や束帯は礼装だけになってはいますが、それでも、武家や町人と同じ格好ではありませんでした。

逆に言うと、町人(平安時代には既に、平安京に住む庶民が存在していました)は、当然、平安時代には十二単でも束帯でもなくって、町人なりの格好をしていました。
既に衣類的には、袖やオクミができており、現在の着物の形態とほぼ同じものを着ていたらしいことが絵巻物に描かれた庶民の姿から見ることができます。
庶民の女性は袴だってはいてはいません。帯が腰紐程に細く、袖が細く、着丈はお端折りなしで膝下10m位の丈です。
生地は木綿は江戸中期以降に広まるものですから、葛布、藤布、麻布といった素材でした。絹が使えるのは貴族やお金のある人。
男性も下層階級では袴ははかず、女性と同じく着物だけです。
貴族の家の裏口からでも出入りするようなレベルだと、葛袴とか四幅袴(よのはかま)という膝丈の袴をはきました。
四幅というのは、ウェスト部分で布4枚分、2幅で足一本分のものを指しました。現在の着物の反物は標準は1尺幅ですが、平安時代の反物の幅は1尺よりずっと狭かったそうです。
ですから、見た目のイメージは、「袴」というよりも、現在の「膝丈ズボン」に近いです。
染めも既に平安時代からあり、草木染めで単純な模様を描いていたようです。

町人の服飾はここから始まり、戦国、江戸期を経て金銭的に力を持つようになって、木綿地、絹地、紬地を駆使し、友禅染めの花開く華麗な振袖につながっていきます。
最初っから、町人女性は袴をはいていなかったし、羽織なども重ねてないわけで、それがそのまんま今の振袖や留袖の形態に至ります。
羽織の着用は、向島芸者が「男性として雇用」されていたための「男性ですよ」の意味から始まったと言われ、主に防寒目的でした。明治以降のどこかで「下が木綿でも、黒紋付羽織を着れば、黒紋付と同格」という考えが生み出されるようですが、ここはまだ未調査部分です。短時間で正装にチェンジできる点が忙しい合間に冠婚葬祭をこなす町民に向いていたのか、「着物一式よ」りは遥かに安価で済む「羽織一枚」というお支度が下層階級ではリーズナブルな選択肢として受け入れられたと思われます。

一方、公家の服。平安時代のは誰もが知るところですが、鎌倉時代になって武家が政権を握り、江戸時代へと遷る中でどんどん困窮していきます。
束帯は礼装のみとなり、単すら窮乏して「身頃は下着、袖だけ単生地」なんてものが登場し、室内着には直衣から狩衣、水干、道服、羽織と簡略化、袴も指貫すらもよそゆきとなり、裾で切った「差袴(さしこ)」を普段用に用いるようになります。
羽織に差袴では、武家や町人のソレと大差ない状態に行き着いていたわけです。
女性の服装も十二単の重ねの枚数が5枚から3枚、1枚と減っていき、普段着には袿の裾も着丈程に短い小袿も使われました。袴もふみしだく長袴は礼装で、普段は男性公家と同様に足首までの切り袴や裳袴を用いました。「裳袴」というのは、裳と袴を合体させたもので、今で言う行灯袴にあたります。
更に、徒歩外出時には武家女性や町人女性同様に袴をはかない格好もするようになります。
裳袴に小袿の格好は、今の卒業式の女学生に似ています。
明治以降、普段着としては小袿が羽織に代わるので、羽織&袴は十二単の究極の簡略形として服装なのでした。

2月絵日記の続き


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