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2006/07/09(日)
「きもの文化検定公式教本」 -キモノの歴史
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昨日の続き
「装束」というか公家の服飾に関しては、ちょっとひかかるぞ。
◆きものの歴史 −平安時代、公用以外は貴族も小袖姿? 現在着用されているキモノの原型は、平安時代に庶民の着ていた「小袖」や、平安後期に貴族が肌着として着用した「小袖」(庶民のとは別のルーツになる)に始まるとされています。 ですから「キモノの歴史」というと、大概の本は平安時代もしくは更に遡った古墳時代から書き始めます。 私は日本の服飾史は興味ある分野なので、いくつも本を読んでいます。特に平安時代の「装束」に関わるところはよりこだわって、些細な記載も見逃さないようにしています。 だから、ここに書かれた「他に記載のない記述」に関しては「本当か?」と。以下気になる部分の要約 - 飛鳥時代から、下衣に垂領(たりくび)式衣服を着、上に盤領(あげくび)式衣服を着ていた - 貴族も公用時以外は外衣を脱いで小袖姿で過ごすことが多く
飛鳥時代から幕末に至る迄、公家の最高礼装は「礼服(らいふく)」と呼ぶものでしたが、これは、今「束帯」と呼ぶ衣服の上に今のキモノのように垂領式の上着と裳と呼ぶ、女性のオーバースカート状のものを着けました。 http://www.kyoto-ohtakougei.com/html/tenpyouhtm/tenpyou.html http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000016 このこの下に着ていた、後に束帯の袍(ホウ)と呼ばれるようになるものが、この当時は、袖が広くなく、筒袖状態でした。 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000018 この衣類を、上衣の「大袖」に対して、「小袖」と呼びました。 着物のルーツとなる垂領式のものでなく、後の束帯の上衣となる盤領(あげくび)式の衣類をこう呼びました。呼び名は同じでも別ものなんです。この辺がやっかい、いや、カンチガイの元かも。
これが簡略化されて平安時代には普段の政務には一番上の着用物を脱いだ「束帯」が用いられるようになります。 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000024 そして、袖が広くなって、今見る形状に至ります。 http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000026
最高礼装はその後、幕末まで「即位式の衣類」として残ります。明治天皇の前の代の孝明天皇の着用した礼服が残されていますし、絵図に臣下の礼服も残されていますので、その形状は十分に推し量ることができます。「即位にしか用いない」ということで、ほとんど形状の変化は起こらなかったようです。
一方、公家の家の内での寛いだ姿は絵巻物に見られる範囲では、外衣(袍(ホウ)のことですね)を脱いで、『衣』を羽織ったりします。この『衣』は女性が着ているものとほぼ同型で、袖口が「大袖(おおそで)」と呼ぶ、袖下まで開いた形状になっています。
平安後期、この大袖の衣類を硬く張った生地で仕立てるのが流行り、定着し、肌から離れて寒くなったために更に下に、袖の詰まった柔らかい生地の衣類を着用するようになります。これが小袖のルーツの一つです。(もう一方が庶民の着用品なのは本の通り) 平安時代には、まだ小袖姿で寛いだとは思えませんし、他の本でそういうった記述も見たことがありません。しかも、通常、来客があれば、すぐに上を羽織るなど、大袖姿(こんな言葉ないけど)を極親しい家族以外に見せることはまずありませんでした。束帯姿は今で言えば背広にあたり、公用でなくても、しかるべき訪問先ならば着用しました。ラフに着用したのは上層では直衣、それ以下や若者は狩衣を着用していました。
もしかして、正しいのかもしれません。 しかし、今まで読んだ本や絵巻物で見たことのない内容なので、あれれ?と思う次第です。
公家の普段の格好といえば、こんな感じでしょう。
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