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2004/07/07(水)
七夕: 分化してた服飾史
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本日は七夕です。梅雨の中ですが、お天気でよかった。 もっとも、旧暦では本日はまだ5月。今年の旧暦7月7日はなんと八月も末の30日だったりします。 もともと、「七夕」といえば「秋のおとずれをきく」という趣の時節だそうなので、8月も末の「残暑も少しは収まってきて、夕べは秋の気配」という時期の方が良いのかも。2ヶ月近く早い新暦では「これから夏本番」という時期です。
本日は服飾史のお話。 普通に知られている服飾史としては、平安時代には十二単、武家が政権をとるようになって、女性では袴が消えて、小袖に打ち掛、更に帯び付きへ。男性では束帯が直垂になり、裃になり、羽織り袴に。とされていますが、平安時代に全ての人々が十二単を着ていたのではないと容易に想像できると思いますが、実は同じように、鎌倉から江戸時代に至るまで、武家と公家は異なる服飾史を持っていました。 武家の登場によって表舞台に出るようになった「小袖」これが今の着物の基礎となっているのはご存知の通り。しかし、この小袖、平安時代には庶民の衣類として既に存在していました。後に裃となる袖なしのはおり物も既に存在しています。直垂は平安当時のまともに衣類を誂えられる層の一般的な衣類。 つまり、そういった衣類を着ていた層が表舞台に立つようになって、同じ形状の衣類をちょっと凝った生地で誂えるようになったというわけです。 お公家さんは、ずっと平安時代の衣類を着続けていましたが、政権が武家に移れば収入も減るわけで、その関係で容易に誂えられる簡易な衣類に普段着を中心に移行していきます。 とはいっても、似て非なる状態で推移します。同じ直垂でも紋の付け方が違うとか、羽織の袖の形状が違うとか。女性では帯の結び方が違います。 そして、服飾史のもう一つの担い手が庶民です。農民と町民では着ているものに差があり、金銭を持った裕福な庶民である町の人々は凝った衣類を調達するようになります。今の和服文化はこの辺が中心で、公家や武家の服飾は意外と地味です。 そして、明治に武家や公家が消えてしまうと、庶民の服飾が全面に出てくるようになる次第です。
この大きな特徴が「いい着物は染め」という今に残る風習です。 現在「織物」といえば、紬などの絣の類を指し、普段着扱いですが、公家の有職故実で「織物」と言えば、二倍織物や固紋、浮紋といった十二単に使う紋織りの上等な生地を指しました。 この「織物」は殿上人以上の高位の者にのみ許されており、当然、並の武家や庶民には許されていませんでした。 このため、地下人であった武家の衣類は染や刺繍によって豪華さを出すこととなりました。 今は帯などに使われるこれらの手法、少しずつ、着尺の生地にも出てくるようになりました。光の加減やドレープ、動きによって織柄の見え隠れが美しい織物は、今の着物にしても美しい。
残念なのは男性の着物。庶民にダーク系の色しか許さなかったのが不思議と居残り、男性の着物といえば「鼠系か藍系か茶系」といった始末。武家や公家の持っていた鮮やかな生地は「バカ殿」扱い。昨今の若い男性で着物に興味ある人にとっては、大変不満な様子。でも、女性も江戸時代にはダーク系だったので、誰かが鮮やかな色を着だした筈。男性もガンバレ!
服飾史は歴史の一界面だけなので、詳しく語られることがないですが、一部しか知らない人がほとんど誤解状態なのは、ちょっと残念なことです。私も凝って見るまでは知らなかったので。
明治時代の元公家の方の写真で、普段着らしきスナップが十二単の一枚のような衣に白小袖、切袴姿だったりするのを見て、「をっとぉ!」と思ったりします。 「衣類の変遷」というけど、案外と層別に見ると、ちょっとしか変わっていないんだなと。
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