ヨロコンデ ぶっちの日記でーす。
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最新の絵日記ダイジェスト
2006/09/05 みなさん どうも。
2006/08/29 あほや!
2006/08/27 ホリデーイン前橋
2006/08/20 グループホーム
2006/08/18 初振込み!

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2006/04/30(日) 朝から夕方まで
朝9時45分から 夕方5時20分まで 即興で歌い続けた。もちろん休みもしましたが、出来る限り歌いました。昔 そこに居合わせたひとりひとりの人たちの歌を作ったことがいっぱいありました。でも、笑ってもらえたりすることはほんとうに喜びでした。目の前の人がヨロコンデくれている。うれしかった。外で歌ってたら ビールをくれたふたりのおじさん。ありがとう。ふたりのために「兄弟船」をうなりました。今度会った時のために カントリーをマスターしておきます。紫のバンダナを姉さんかむりした パリッシュレディのみなさん、ほんまにありがとう。ポップコーンを作り続けたKさん、お疲れ様。鉄砲、輪投げ、駄菓子コーナーのみなさん、笑顔をありがとう。武藤のスイーツなどと呼び捨てにしてしまって御免なさい。マグロさばきの3人衆、見事でした。最後までMCできなくてすみません。マツダの新車の若者たち、帰りにも笑顔見せてくれてありがとう。フリーマーケットの人たち 歌をいっぱい作らせてもらいました。親子や夫婦でフリーマーケット。年頃の娘 ふたりがちゃんと母親と店番してました。夫婦で座っていた旦那の歌 自分でもよかったと思います。ラーメン1箱 当たってよかったね。
 ちょっと声がつぶれたけれど、やっぱりやらせてもらえてほんまによかった。
「大空と書いて そら と読む おかあさんに抱っこされた2歳くらいの少年の歌」おかあさんが感動してくれたことに感動したぶっちでした。名曲だったと思います。
あ、去年、高崎の路上でやった即興歌ライブの時のJCの方が来ていて再会できました。そうだ、あの日があったから今日もやれたんだなって改めて思います。あ、カツーンの亀梨くんにそっくりの青年の後ろ姿に歌いかけもしました。いや、ほんまにヨロコンデもらえたと思います。
どうも、どうもありがとう。

2006/04/29(土) 4月
もうすぐ四月も終わる。この日記を読んでくれている人は何人いるのだろう。おつきあいしてくださってありがとうございます。45歳のおっさんのこと これからもよろしく頼みます。この日記は わが子たちに 将来 読んでもらえたらと思っています。俺がこんな男やったんやと。1月には、自分が何をしているのかわけがわからんようになることも多々ありましたが、不思議なもんで3ヶ月も経つと 慣れるものですね。でも、やっぱり婿の私は親戚中からみたら他人なんです。それはよく感じます。蚕部屋を大金はたいて改装したけれど、名義を変更したわけでもなく、登記をしたわけでもありません。だから、自分のものではありません。義父名義の建物をリフォ−ムしたということです。その費用は大阪の親父が死んで残してくれた金を全部つぎ込みました。大阪の親父に対しての最後の親不孝になったような気もします。だからローンはありません。
でも設計士とうまくいかなくて 生まれて初めての施主は 嫁はんと設計士と建設会社との板ばさみで言いたいことも言えず、気にいらんこいっぱいの建物になりました。でも、それにも慣れました。
このまま、一人でここで暮すのもいいかなと思い始めています。父と娘の今までのこと、親戚との関係、嫁はんは 本当のところ、ここには来たくないのです。わかります、その気持ち。3ヶ月ここにいて ほんまによくわかります。1月は、はよ来いよと思ってましたが、今はこなくてもいいよ、なんといわれようと俺が人質になって飯つくったりしてるんだから、長男やしんやのために一番いいことをしたらいいんだから 無理してこなくてもいいよと思うようになってきました。嫁はんにとってこの土地にはいい想いがないのです。とくに義父に対して。だから 無理することはありません。ひとり暮しには広すぎるけど、金もかかりすぎたけど。
叔父さんがいてくれるおかげで切れることなく やれてます。もし、叔父さんがいなかったらどうなっていたか。やっぱり他人なんです。義父にはっきりいわれたもんね。「他人のお前にえらそうにいわれる筋合いはない」そうだ、他人だ。ほんとの父と母になんにもしてやっていないもん。それなのに他人の面倒をみている。ご飯を作ってやっている。複雑だ。しかも不器用モンの大正生まれの男は「おいしい」ということもなく、「ありがとう」ということもなく、まるでけらいをひとりゲットしたごとくにいるのだ。でもまあ、それも介護なのだろう。他人だからうまくいってるのだろう。
昔 塾の先生をしていた時、生徒とうまくいった。それで 長男の家庭教師になったら うまくいかなかった。やっぱり、自分の子だったんだ。他人の子の将来に対しては無責任でいられるから。だから 俺だからうまくやれるのさ、他人だからね。多分 義父が死んでも涙もでないだろう。さあ、もうすぐ五月だ。

2006/04/28(金)
義父は米を知り合いに売っている。ふたりほどだけどね。以前から そうしていたのだ。今日、その人が買いにきた。重くて もう運べない義父はおれに運ばせた。そして、その人が「まだ、米あるの」と義父にきいたら 義父が「いつもより食ってるから、でもまだある」といった。いつもより食ってるとは 俺や叔父が食ってることを意味する。俺は聞いていてカチンときた。「悪かったね、他人の俺が食ってるもんね。でも、俺が買ってきたおかず おとうさん 食ってるでしょ、金出せ、さっきのちくわ返せ、納豆返せ」などと 言ってしまった。嫁姑じゃなく 婿舅の戦争が今日 始まった。大嫌いだ、くそおやじ。その後 目さえあわしていない。昼は俺が買ってきた焼きそば、夜は俺が買ってきたうどんを食わせてやった。もう、これから俺は義父の米を食わない。米買ってきて あてつけに置いておこう。義父がどんどん嫌いになる。

2006/04/26(水) 富士見村の人ありがとう
秋のボランティアフェス全国大会の分科会をいっしょにやるひととようやく会えた。分科会やってくださいといわれ やりますと企画書出したら、やりたい人が多いので いっしょにやってくださいとなったのが3月の終わり頃で、引き合わせますからといわれたのに今日までほっとかれたのだ。相手の連絡先さえ教えてくれなかった行政の役人。ええかげんにせえよ、ぼけ。えらそうなことばっかりいいやがってという気分になっていたのだが、今日、先方の方に会って、うれしい出会いになりました。ほんまによかった。そして えらそうなことをいわない、若い職員の人 ふたりと出会えてほんまにうれしかった。Tさんは 11ヶ月の娘がいる。大学は駅伝部で、箱根をめざして頑張ってたんだって。でも、本選にはいけなかった。その、母校が最近、箱根で優勝したりしたんだって。
全大会の分科会、わが分科会を成功させねばならない。
えらそうにいうなよ、上からものいうなよ。まあ、絶対にその人がこれを読むはずはない。でも、ほんまに腹立ってました。その人ね、俺の出した企画書さえ ちゃんと読んでくれていない。ヨロコンデが歌うなんて 一言も書かれていないのに「歌いたいなら 分科会じゃなく、ふれあい広場で」なんて電話でいったんだぜ。まあ、市民活動の部署には不向きの人だ。はやく出世して 移動してほしいな。そうでないと 大喧嘩になる。

2006/04/25(火) 誕生日
誕生日に新しいことを始めた 情報誌の宅配だ。しかし、たいへんなことになった。前橋の嶺町と金丸町を配ることになったのだが、いかんせん、広い、そして坂道だ。しかも、昔の農家が多く、一軒ごとの敷地が広い。時間がかかり過ぎた。車でまわったので ガソリン代もかかった。もらえるGだとあまりにも割りがあわないことを感じた。でも、おもしろかった。続けるならG交渉だな。それか、50CCのバイクを誰かから借りて ガソリン代を節約して 来月挑むかだな。工夫すれば、時間 短縮できるやろうか・・・でも、地図をみながら車走る。オルグしているみたいで うれしかった。「ご苦労様」と声をかけてくれる人もいたりして。来月もまたやろう。その情報に ぶっちの写真が載ることになっていたのだが、ぼつになったようで 30日のイベントで歌うことが 小さく小さく載っているだけだった。まあ、仕方ないよね、ぶっちの写真載せたところで人が来るわけないもんね。有名人ならともかくね。でも さびしかった。載せられなかったとのことを せめてメールでいいから知らせてもらいたかった。いろんな人に話しをしてしまったもん。恥かいちゃった。人のふりみてわがふりなおせ。

2006/04/24(月) 内職
実は3月の23日から内職を始めたんです。44才の男が、しかも4歳の子供をかかえて あほとちがうかと 嫁さんの職場では言われているらしいけど、やったことのないことをとにかくやってみたいのです。劇団の若い子に話したことがあります。その子は客演で関わっていた子で 公演がないと他のバイトをしてでもつないでいかないといけなかったのです。劇団員なら公演がなくても給料(本当は分配金だけれども)をもらえるのです。1ヶ月に1回しか公演がなくても ちゃんともらえるのです。でも、客演だと 1回なら1回分しかもらえません。でも その他の日は自由なのです。劇団員は社員と同じで1回しか公演がなくても出勤しなければいけないし、仕事がなくても 「もう帰ってもいいよ」と 責任のある立場の人がいわない限り帰れません。まあ、当たり前のことかもしれませんが。で、ぶっちはその子にこういったんです。「本当に生きるってことは 君の立場みたいなことだよ。給料もらえるから我慢しているなんて ナンセンスで、なんのために芝居やってきたかわからんもんね。俺は 自分の給料ぐらいは自分で稼ごうと いっしょうけんめいオルグ(営業)してきたもん。だから 給料のために我慢したりしている自分がいややねん」なんてね。でも女房のおかげでこうしていられるのは事実で。まあ、坊ちゃんなのです。貧乏坊ちゃん。だから 内職もやれるのです。1箱作って3円の世界。1箱作るのにどうあがいても 1分かかってしまう。1時間で60箱しかできません。時給180円なのです。でも、日本国中の箱をだれかがこうして作っているのです。あと、化粧品のサンプルもやりました。1個1円。パンフレットとサンプルを袋に詰めて数を数えて それで1個1円。そりゃそうですよね。サンプルなんだから。ただで配るものに企業もそんなにお金をかけられないもんね。でも、人間にしかできない部分がまだあったのです。それを知りました。おもしろい。1ヶ月続いてきたのです。この内職のおかげで 時間配分を考えたり、納品に行く度に なにかしなければと 慰問ライブを始めたり いろいろプラスになりました。また1日に約1200円以内なら 失業手当に影響はないそうです。1200円にするためには 1日に400個。400割る60は約6.6時間。これはやれません。なにもできなくなります。だから1日に2時間と決めました。
 でも、いっぱいらいぶをやらせてもらえて いい出会いもいっぱいあって、ほんまに元気になってきました。義父の介護のおかげで、畑もやっているし、食事づくりもやっているし、HPの更新もこまめに やれているし、44才はもしかしたら 幸せものなのかもしれません。明日 45歳になります。四捨五入したら50歳です。さあ、どないすんねんという自分自身に まあ、月7万やけれど、失業手当があるやないか。7月の20日から 職安の講習でヘルパー2級の資格をとる。そのあと 考えればいいやないかとちょっと思ってます。52才まではあと7年。めいっぱい悔いなく生きて生きたいです。あしたから月刊誌のポスティングに挑戦します。そしてエフエム群馬でCMの録音です。
 劇団の子に占ってもらったら 去年と今年は種まきの年なのだそうです。まさに種をまいている。この種を成長させて 花開かせるところまでいかないと。でも今日、嫁はんと電話で話した。長男が結婚する時、この状態で先方のご両親は理解してくださるだろうか。そうだ その時までにはけりをつけないとな。それなりになるか、あきらめて社会的立場をゲットするか。でも、劇団員だったとしても 先方のご両親が理解してくれていたかどうか・・・まあ、種まき、種まき。
 おばさんの畑に植えさせてもらったジャガイモが芽を出しました。わらしべ農家プロジェクト いもほり大会を わが嫁はん主催でやります。そんなことを嫁はんと電話で話しをした。俺の誕生日をおぼえてくれていた。ありがたい。

2006/04/22(土) どきどきした
結婚披露パーティで歌う。しかも、友人ではない。オリジナルソングを作って歌ってほしい。お色直しで 新郎新婦がいない間をつないでほしい。場を盛り上げてほしい。仕事として。
 この依頼を受けて、事前に新郎新婦に会い、新郎のお父さんに会い、本番に挑んだわけです。
「それでは 本日のスペシャルゲストです。ながぶっちつよしさんです!!」と、司会の方の紹介で「とんぼ」の歌がCDでかかり、ながぶっちが登場したのです。ジーンズにサングラスに皮ジャン。そう、いつものなりきりです。さあ、すべりませんように どうか神様と祈る想いで。

 出会った頃のふたりを
 忘れず歩き続ける
 大きな人生の舞台にたった
 ふたりのしあわせ 祈る

  新郎のでかさにまけないように
  新婦はおもいっきり背伸びをした
  初めてのキスはそれでも届かず
  新郎が体操のように体を曲げていた

 出会った頃のふたりを
 忘れず歩き続ける
 大きな人生の舞台にたった
 ふたりのしあわせ 祈る

このあと3曲作って歌いました。なんとかなったようです。ドキドキした。ほんまにドキドキした。
 即興でいっぱい作ってきたけれど こんなにドキドキしたことはない。でもやれてよかった。
 ほんとうにふたりの幸せを祈りました。

 

2006/04/19(水) 熊本松橋町
今日、電話があった。九州の熊本の松橋町のお坊さん夫妻から電話があった。1989年、松橋町で現代座が公演したんだ。ぶっちがその担当オルグだったんだ。まだ28歳、オルグなんて簡単にできると思っていた。現代座のオルグは まず熊本市内に一軒借りて そこを熊本事務所にして暮しながら 方々に市や町や村を訪ねて それぞれに実行委員会を結成するというやりかただった。出会って話を聞いてくれた方々が 実行委員になってくれるのだけれど、初めてのぶっちはなかなかうまく実行委員になってもらえなかった。青年団でぼろくそいわれ、ようやくなってもらえたという老婦人に翌日 やっぱりできませんといえわれ、どんどん落ち込んでいくばかりだったのだ。事務所には他の劇団員もいて 毎晩集まって報告会をしていたのだ。だけど、どんどん落ち込んでいくぶっちなのだった。ある日、「もうやらなくていいのよ、ぶっちは役者としてもいい味だしてるんだから、ここでご飯つくったり、みんなの送り迎えしたらいいんだから」と責任者にやさしくいわれ それは楽でいいなって思ったけれど 口から出てきた言葉は「もう少し やらせてください」だった。そこで責任者は 松橋町だけ担当しなさいといったんだ。そしてその後 ある夜の報告会で 先輩がお寺のお坊さんが実行委員になってくれたんだよときいて そうかと次の日 電話ボックスにこもって タウンページで町にあるお寺に片っ端から電話したんだ。そしたら「明日なら 若いものがいるから来なさい」といってくれたお寺があって よかったアポがとれてと事務所に帰ったんだ。そのことを報告したら 「そんなことでは仕事になっていない!」って怒られたけど、次の日 そのお寺にいった。あいさつすると 作業ジャンバー姿の男の人が出てきて 「あ、あんたかいな」っていったんだ。関西弁だった。京都の大学に行って お坊さんになる勉強をしたと話してくれて 奥さんが 「あ、わたし、大阪の生野やの」「え、ぼく東住吉なんです」「ほんま」って いうことになって うれしくなっていっしょうけんめい話をした。芝居のこと 劇団のこと。そしたら劇団の映画「同胞」を何回もみていることがわかって「え、そうなんですか!!僕が倍賞千恵子なんです」「ほんなら わしが寺尾聡かいな」ということになって 実行委員にふたりともなってくれたんだ。あとできいたら「自分たちが断ったら 帰りに自殺しそうな感じやったから」と。でもようやく実行委員になってもらえたんや。その町では過去にも公演していて その時に実行委員をやった人たちに「新しい人がだれか見つかったらやってもいい」といわれていて その新しい人がようやく見つかったんだ。うれしかった。その日から毎日お寺でご飯をごちそうになって 毎日 泊めてもらったりして まるで家族のように接してくれたんだ。ありがたかった。そのご夫婦から 今日電話があった。娘さんが結婚して群馬の高崎で暮すことになったと。うれしかった。電話もらえたことがうれしかった。あれから17年になるんやもんな。
あの日がなかったら もう芝居なんかやっていなかったと思う。あの日があったから こうして生きてこられたと思う。九州の熊本には そうやって出会えた方々がたくさんいる。死ぬまでに一度 しんやを連れて 歌いにいきたいと ほんまに思う。
松橋 そして 宇土のみなさん、ほんまにほんまにありがとう。
ぶっちは 生きるしています。金は全然ないけれど、しんやにはずかしくないように生きるしています。劇団はやめましたが 役者です!!

2006/04/17(月) 赤十字病院ボランティア
 しんやが去年の1月に入院した。血小板が少ないためだ。その時、ヨロコンデをやってくださいと婦長さんに言われ、2月6日の土曜日にやったのだ。ラジオ高崎の出演の前だった。その後、もう一度やったかな。婦長さんには毎月でもといわれたのだけど、その婦長さんが本番には2度ともいなくて どうしたものかと 考えているうちに1年がたった。しんやは まだ月に1度の血液検査を続けている。「担当の女医さんが また是非やってくださいねといってたわよ。しんやがお世話になってるんだから やりなさい!」と女房にいわれ、女医さんに やります!と 葉書を出したがおとさたがなく、自ら出向いてみたのが 4月の6日。そしたら ボランティア登録をしなければなりませんといわれ、仕方なく登録。「審査して 結果を報告します」といわれた。院内コンサート 3回もやっているのに なんでこんな扱いをうけなならんのやろかと思ったけど、今 大変な時代やもんな。悪い奴がうろうろしてるから きっちりしたほうがいいもんな。そして 審査の結果が出て 今日出向いたわけです。胸につけるネームプレートのための写真撮影と、ユニホームが支給された。そこまでするのか・・・おもろい。
ユニホームを来て 職員食堂でご飯を食べた。なんか 病院ではたらく人になったような気分だった。うれしかった。350円で定食を食べた。よし、頑張ろう!!
「あの、3ヶ月間は見習いですから」「え?」
これにはちょっと納得できない。芸能慰問が見習いとは・・・
後日、厚生会を通じて 院長に直訴してもらおう。だって6月にまた院内コンサートやるんやもん。病院が出している 「博愛」という機関紙にもちゃんと書いてあるんやもん。それなのに 見習とは・・・とほほ。

2006/04/16(日) しんやとらいぶ
育成会のバーべキュー大会にしんやと参加。ふたりで歌った。うれしかった。ちゃんとやったもんね。よし、しんやの写真をHPにのせてやるね。メンバーのひとりとしてのせてあげるね。もっともっと有名になったら 削除するね。だって 誘拐されたらたいへんやから。現在、メンバー ぶっち、しんや、しんやママ、ソングライターの夢有民、音響技術のあらきーん、近鉄ファンのおおさん、ボラセンのKさん、ここまでが話してみた人。そうなんです。ぶっち一家だけでは団体にならないんです。それでサポートしてくださる方も含めて ヨロコンデという団体にして いこうと考えました。だって ヨロコンデのライブの場をつくってくださったり 人に紹介してくださったりしていることは まさにヨロコンデの活動なのだ。そう考えていこうとおもうんや。いろんなひとにかかわってもらいたいと思う。秋には ボランティアの全国大会があり、ヨロコンデとして ひとつの分科会を仕切ります。講師に しゃぼん玉 をお願いするんだ。彼らと子供たちの元気を全国に発信するんだ。11月4日、全国大会だからね。みなさん よろしくです。と 話がそれてしまいました。
 去年、育成会のキャンプに参加させてもらったんだ。その時の子供たちも来ていてね、憶えていてくれていることが 涙がでるほどうれしかった。ありがとね。新役員のみなさん ほんまにありがとね。また、歌います。
 その後、しんやと老人ホームでらいぶ。しかし、しんやの知らないナツメロばっかりやっちゃったから かわいそうなことをした。ごめんなしんや。
 おわびに少しだけ 遊園地。全部 ひとりでのりました。成長してますね。「おかあさんにないしょにしてね」といいながら ポテトチップスを食べました。内緒にしてね発言は ちょっと心配やな。やっぱり別居はよくないな。

4月絵日記の続き


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