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2005/02/28(月) 会津の『春』の取材へ向けて・・・!
 今朝の冷え込みは厳しいものがありました。
車で計測した外気温は氷点下7℃、昨夜吹雪いた雪が今朝は凍結してアイスバーンになっていました。行き交う車は皆ノロノロ運転で、時速20km程度しか出ていません・・・!
今日で2月も終わりですが、この時期にしての路面凍結は珍しいことだと思います。
ダイヤモンドダストまではいかなくても、樹木には霧氷ができていました。
いつもこのような光景を撮影したいと思うのですが、会社への通勤途上ですので諦めるしかありません・・・。
今回の週末もお天気は芳しくなく、写真撮影はちょっとしかできませんでした。
プロ野球もオープン戦が始まりました。
低迷している私の写真撮影も、これから徐々にではありますが『春』の取材へ向けてウォーミングアップしたいと考えています。
先ずは、『彼岸獅子』それから『福寿草』の順になるのでしょうか・・・?
◇◇◇◇◇◇『彼岸獅子』について調べてみました。◇◇◇◇◇
会津の彼岸獅子
 彼岸獅子は喜多方市関柴町下柴にある「下柴獅子団」による「下柴の彼岸獅子」と松山町中村地区の「中村彼岸獅子保存会」による「中村の彼岸獅子」とがある。
毎年春の彼岸の3月18日から24日まで五穀豊穣や悪霊退散を祈願して戸毎にめぐって舞う。
彼岸獅子は舞いは獅子3名と弊小僧1名による。獅子は太夫獅子・雌獅子・雄獅子の3名で、衣装はいずれも獅子頭を被り。「着物といっている背には鳳凰を染めた上着、波を染め抜いた袴をはき、赤緑の白手甲、脚半(きゃはん)白足袋で、腰に太夫は黄色、雌獅子は赤、雄獅子は青のひっこきをさげ、「腰太鼓」をつけ、ばちを持つ。
獅子頭は張子で、いずれも牙があり、さらに太夫と雄の獅子には角が左右に2本ある。
 囃し方は笛と締太鼓で共に3、4名程度であたる。歌い手も数名つく、このほかに弓持ち1名がつく。
由来と沿革
下柴の彼岸獅子 地元の伝承では、天正年間に全国に悪疫が流行した折、下柴の古橋角(覚)太夫が京都の御所に鹿殿を建て、獅子舞を演じてその退散を祈願したところ、たちまちにして平癒したので「天下一鹿殿」の号を賜ったと伝え、大判の紙に「天下一鹿殿 関白村 古橋角太夫」と書いてある。この古橋角太夫は下野国(栃木県)の獅子太夫で、寛永年間(1624〜44)に旅の途中に下柴に住みつき、舞を伝授したというのである。角太夫の墓とも供養塔ともいわれる石造りの五輪塔が集落内の菩薩山安楽寺に残っている。
下柴の彼岸獅子は、会津の彼岸獅子の中でも最も古い歴史を持ち、しかも所作にも古風を良く残しているため、彼岸獅子としては唯一、福島県の重要無形民俗文化財に指定されている。
中村の彼岸獅子 地元の伝えによると、江戸時代に「関東火挟流」の池田方(満)太郎がこの地を訪れて、獅子頭を作り、舞を伝授したと伝えている。舞い込んだ家に配るお札には「天下泰平五穀成就 中村 鎮防火災祭獅子躍祈祷之牘 家内安全子孫長久 池田万太郎」とあり上中村の南方には、現在雑草地になったが太夫屋敷という地名がありここが万太郎の屋敷跡と伝えている。
ところで池田万太郎についても、明らかでない。関東火挟流というのは文挟流のことで、訛って「文」が「火」と変わったものである。福島県では下柴を初めとして、南会津郡田島町の高野と栗生沢もこの流といっている。
文挟は栃木県今市市文挟のことで、ここを本拠地とされる獅子舞を文挟流という。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
〔今日の写真は「胡蝶蘭の光と影」です。〕


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