ウイングスミュージックスクールのキャンペーンガールの松子が今日もつぶやきます。。。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2004年8月
前の月 次の月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
最新の絵日記ダイジェスト
2006/11/21 さらば!松子の部屋
2006/11/13 ついに!
2006/11/06 ライブ終了いたしました。
2006/10/22 松子三昧!
2006/10/17 ご、ご無沙汰しております。

直接移動: 200611 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 月 

2004/08/29(日) 新連載 〜 8月の思ひで15 ついに最終話
実は大阪を出発してから川崎に着くまでの事はほとんど覚えていない。一気に気が弛んだのか、電車で熟睡していたのかわからないが、気が着けば川崎だった。そう言えば青春18切符で我々に各駅停車の旅を与えてくれたあのお兄さんといつお別れしたのかも記憶にない。でも素晴らしい旅の道連れだった。お兄さんお元気かしら?

ここ川崎で外国人チームはお土産の買い物を始めた。若者五人は女子、男子チームにわかれて買い物にくり出した。女子チームのリトアニアガールと松子はお洋服や化粧品を中心にショッピングを楽しんだ。男子チームは食料品や商店街を散策しにいった。彼等は日本語がわからないので、韓国の調味料をわけもわからず購入していたらしい。

あまり時間はなかったがひととおり買い物を終えると、都内のA氏の御自宅へむかった。お別れパーティーである。
なぜかヨルダン人がお料理を作って出迎えてくれ、アメリカ人のジャーナリストが遊びに来ていた。今までに経験した事のないインターナショナルな空間だった。(しかしみなさん日本語ご堪能)お腹いっぱいになった松子はようやく自宅へ帰るのかと思っていたが、これから葉山の海岸に行くと言うではないか。むむっ。もうこうなったらどこへでもついていってやる!

A氏が毎月葉山の浜辺で行っている演奏会を見に行った。開演時間は午前零時。演奏会が終わって、きっとどなたかが送って下さったのだと思うが、自宅に着いたころにはもう空が明るくなりかけていた。

倒れ込むようにして懐かしい自宅の布団で眠りに落ちたが、数時間後には成田空港へ外国人チームのお見送りに出かけていた。

まるまる一週間寝食をともにしたのだ。しかも数々のアクシデントを乗り越えて!旅に出る日までその存在さえ知らなかった異国の彼等。不勉強な松子は彼等の国名さえ知らなかったと言うのに。

A氏が同行できないという衝撃的なアクシデントに始まり、クーラーの故障、タイヤのパンク、それでも続く行き先不明の旅!
行く先々での感動的な芸術舞台、大物俳優の酔っ払いぶり、焼き物体験、お寺での一泊、車のオイルもれ、水俣での人々や自然との出会い、バン君の御臨終、ジュースの差し入れ、青春18切符、廃校で過ごした夜、持たせてくれたお弁当、原爆ドーム、カルピスウォーター、居酒屋の二階、韓国の調味料、お別れパーティー、そしてなによりたくさんの人の御好意・・・。

有り余る感激、素晴らしい体験、そして出会い。
始めて経験した本当の「旅」

ともに過ごした彼等は遠く自国へ帰っていった。

また、カルピスウオーターが恋しくなったら、
いつでも日本に遊びに来てほしいものである。

終わり。

2004/08/28(土) 新連載 〜 8月の思ひで14
しばらくするとA氏の提案で途中下車。

降り立ったのは広島。
原爆ドームを見学しにいこうとのこと。
外国からのお客さまがいると言う事もあってだと思うが、実は松子も初原爆ドーム。小学校のころに学校で戦争の授業を受けて、あまりに強烈なインパクトの為に何度も夢でうなされた経験がある。松子が原因で日露が再勃発したこともあった。そのせいもあってかあまり戦争の悲劇を直視できない傾向にあった。

確かに目をおおいたくなるような悲惨な現実がそこにはあった。人それぞれ思う事は有るだろうが、訪れる機会を頂いたのはとてもよかった。正面から受け止める事はできなくてもいいと思うし、過剰に反応する必要もないと思うが、一度は訪れて良い場所だと思う。

ここで我々は想像以上のブレイクタイムを与えられた。原爆ドーム周辺の公園でA氏の次の指示を待っていた。日本人グループはそれぞれに原爆ドームで受けた有る種のショックを整理しているように見えたし、ラトビアボーイズは相変わらず上半身裸で太陽光線の取り込みに勤しんでいた。ボーイズは日本に来てカルピスウォーターにはまったらしく、日光浴の合間も欠かさず摂取していた。
この日何本目かのカルピスウオーターも底をつき、ボーイズの背中も真っ赤に日焼けしたころ、我々の本日の寝床が確定した。

各駅停車で今日中に寝床に辿り着くためには時間が経ち過ぎていた。相談の結果、新幹線を利用し寝床へ向かう事となった。
今まで各駅停車で少しずつ縮めてきた東京までの距離を一気にワープし、あっという間に到着したのは大阪だった。

またいるのである。
ここにもA氏の知り合いが。
しかもこの人数の寝床を提供してくれる知り合いが。

目指したのは大阪の繁華街にある一軒の居酒屋。
なるほど晩御飯かと思いきや、ここが本日の寝床であった。居酒屋の二階の物置き部屋を片付けてくれて、物と物の間に布団を敷いて休ませて頂くのだ。
車中一泊、ビジネスホテル一泊、お寺一泊、交流施設一泊、廃校一泊、居酒屋の二階一泊、ほんと冒険だ。まさにアドベンチャーだ。

しかしスリリングなアドベンチャーも確実に終焉に近付いていた。
翌日には東京に着いて、さらにその翌日には外国チームが日本を去るのだ!

2004/08/25(水) 新連載 〜 8月の思ひで13
ようやく福岡に着いたのは日もとっぷり暮れて、おなかもペッコンペッコンになったころ。A氏の導き通りに徒歩で辿り着いたのはなんだかリッチな建物。良くわからないが、高級温泉付き料亭と言ったところか。
その大広間で我々を迎えてくれたのは作務衣にスキンヘッドという芸術ムード満点の小意気なおじさま。そのおじさまを囲む御親族の集まりなのか、未だに良くわからないがその集まりに飛び入り参加していた。やっぱり良くわからないが、とにかくお風呂をすすめられ温泉に入った。隅からすみまで高級感漂う浴場でお湯を頂いたあと、御親族が集うテーブルにつきお食事を頂いた。
さっきから連発しているようにホントに良くわからなかったが、おじさま以外の親族の方もさっぱりわけがわからないようだった。いきなり乱入してきたこの人達は何ものなのか。。。いやーその節はお邪魔しました。

そのおじさまはやはり芸術家で巨大な絵を書いたり、ライブペインティングなんかもしているらしい。アーティストおじさまが手配してくれた車に乗り込みその高級温泉付き料亭を後にした。車は繁華街を一瞬で通り抜け街灯もないような山道を一気に駆け上がっていった。

山道を登りきった先にあったのは、学校だった。
どうやら廃校になった小学校らしい。夏の夜の山の中の廃校。これだけきけばナレーションを稲川淳二さんにお願いした方がよさそうである。

その場所はアーティストおじさまが廃校になった小学校を美術館として改造したもので、一部には宿泊も可能なコテージのような建物がある。我々はそのコテージのような建物で今日は泊めて頂くことになったらしい。お手洗いは別の建物、至る所に巨大な虫がいる。ちょっと恐かったが、やたらに楽しかった。

翌朝はとにかく早かった。また各駅停車の電車を乗り継ぐのだからとにかく時間がかかるために少しでも早くに出発した方がよかった。眠い目を擦りながら案内された食堂にはおばさまが二人、我々の為に朝食を用意して下さっていた。
普段は人はいないようなのに、昨日突然来る事になって、昨夜急に泊めてもらったのに、こんなに朝早くに我々の朝食を笑顔で作ってくれているとは!すばらしいネットワーク、素晴らしい人々!お弁当まで頂いて!多謝!!

我々は突然やってきて、すぐ去っていくハリケーンのようであった。校内に飾られてあった、子供達の芸術作品鑑賞もそこそこに、多くの人を巻き込みながら進路を東へ取っていた。美味しい食事とワクワクの小学校での寝床とあっちこっちへの車での送り迎え有り難うございました。

早朝の出発が良かったようで、各駅停車の旅路は順調に進み、
九州をぬけ、本州へ入りさらに東へ向かっていた。

2004/08/24(火) 新連載 〜 8月の思ひで12
我々は取りあえず近くの駅に向かった。

A氏、バイク乗りのおじさん、リトアニアガール、ラトビアボーイズ、松子、松子パートナー、そして運悪く昨日の水俣の会で合流し、宿から駅まで送っていくだけのはずだったA氏のお知り合いのお兄さん。

駅前の広場で今後の予定を検討する我々。

目的地は遠く東京。
これだけの人数だし、あまりお金もかけられない。

帰るに帰れなくなったお兄さんが取り出したのはポケット時刻表。
お兄さんは「青春18切符」なるものを利用し、各駅停車を乗り継いで帰るつもりだと言う。

「それだ!」

A氏の決断は早かった。

「青春18切符」は使用可能期間内、JR線なら全国どこへでも、どこまでもいけるという夢の切符。ただし、特急以上の電車には乗れない。従って各駅停車か快速電車でのらりくらり時間をかけて目的地をめざすという代物である。

我々がお兄さんの道連れになるのか、お兄さんが我々の道連れになってしまったのか、どちらにしても我々は「青春18切符」を購入し、お兄さんの時刻表をたよりに、たくさんの路線を乗り継いで東京に向かう事にした。

駅前のロータリーの路上(とにかく人がいない)で昼食を済ませた一行は最初の各駅停車にのった。とにかく第一中継ポイントとなる福岡を目指した。果たして今日中に九州を抜けられるのか???

とにかくA氏はずっと電話をしている。携帯電話でリンリンリン、だ。
車内でラトビアボーイズが先生となり即席英会話教室でイングリッシュをスタディしている間に、福岡の知り合いと連絡がとれたようで、我々の今日の寝床を確保してくれた。やはり今日中の九州脱出は無理なようだ。

2004/08/22(日) 新連載 〜 8月の思ひで11
この旅二度目のJAFさん出動要請である。

このまま信号前で止まっている訳にも行かないので道路わきにあった、水俣市役所駐車場に何とかバン君を移動させ、JAFさんの登場を待った。

真夏の午前中、人気のない水俣市役所に涼を求めて我々は侵入した。
見るからに異様な一団だったのであろう、それまで遠巻きに見ていた市役所の職員のなかから、年輩のおじさんが代表して我々に質問してきた。

何ごとですか?、何のご用ですか?

代表のおじさんが警戒しながら近付いてくる。心配そうに顔だけ出して見守るその他の職員のみなさん。その気持ちも何となくわかる。
ラトビアボーイズは自国ではこれほど強い太陽光線を浴びる事はないといって、やたらめったら上半身裸になって動き回っていたし、その他のメンバーもすっかり旅にそまって、おおよそお役所には不似合いな風貌。

職員のみなさんの不安を取り除くべく、これこれこう言う訳と説明させて頂くと難無く理解を得、しばらくの滞在を許可して頂いた。
そればかりか、暑い中大変だろうとジュースの差し入れまでして頂いた。
ほんとに有り難い。

しかし、その後到着したJAFさんのお言葉は有り難いものではなかった。
なんとバン君が御臨終だというのだ。
昨日のオイルもれが完全になおっていなかったのか、昨夜一晩でタンクのオイルがすっかりからになっていたらしい。エンジンが焼けてしまって、もう一歩も走れないのだ!もうバン君は走れないのだ!!!ガ〜ン!!!!!


バン君を引き取るためにA氏が知り合いの業者を呼び寄せる。(この方は日本中に知り合いがいる。そしてどの人もA氏のコールですぐ駆け付けてくる)

今までともに旅を続けてきたバン君に最後のお別れをした。バン君良く頑張ってくれた。ごめんよ。そしてありがとう。。。。

2004/08/16(月) 新連載 〜 8月の思ひで10
そう言えばいつ帰るのか聴いてない。
当時無職だったのでたいして気にはならなかったが、リトアニアの彼女と、ラトビアボーイはこの旅が終わると帰国すると言う。
彼等が日本に来たのは「世界遺産」という番組でラトビアとリトアニアが取り上げられた時の現地のコーディネーターだった事が切っ掛けとなったらしい。
まだ若いのに三人ともしっかり自立しているように見えた。

リトアニアの彼女の方は松子より4つほど年下だったと思う。まだ当時学生であったが、日本語を始めいくつかの語学が堪能と言う事も有り、すでに国際的なビジネスをしているという話であった。
ラトビアボーイの二人は同じ「ヤニス」という名前で日本人メンバーは「ヤニス1」「ヤニス2」という呼び方で呼び分けていた。
彼等は確か松子と同い年だったが自分達の映画会社を持っていて、映画の制作に励んでいた。当時まだ日本でも普及しはじめたばかりのデジカメを購入しとにかく写真を取りまくっていたのが印象的だ。

リトアニアの彼女とのコミュニケーションは彼女のおかげで問題なかったが、ラトビアボーイたちとは彼女がいないと難しいものがあった。
それでも何とかと一生懸命に英語にチャレンジし、また彼等も実に根気よくつきあってくれた。これだけ旅の中でいろいろな事が有ると、言葉が通じなくても一体感がうまれる。いつ帰るのか気にしながらいつまでも続いてもいいと思っていた。(ちょっと言い過ぎ?)

東京に帰ると聴いたのは水俣で目覚めた朝だった。
宿出る前にしっかりと友情を確かめあい、我々のバン君は一路東京へ向けて出発した。山道を少し抜けるとすぐ水俣の市街地にでた。

赤信号で停車しようとしたドライバーが絶叫した!
「おかしい!何だ!やばい!ハ、ハンドルがきかない!!!!ああッエンストだぁっ!」
一同騒然の大パニック!
幸い近くに一台も車がいなかったので、無理矢理車線変更し道路の左端にとめる事ができた。

どうしたんだ!バン君!!

2004/08/13(金) 新連載 〜 8月の思ひで9
私達が到着したのは水俣湾に面した公園だった。ひろいひろいきれいな公園。
話を聴くとそこはその昔「水俣病」を引き起こした海だったという。工場から排出される有毒な物質の為に数多くの人が命を失い、また今も病に犯され続けている「水俣病」。松子も小学校の社会の時間で勉強して頭にひどく残っていた。

その夜は水俣病の患者の方や支援者の方や、地域で運動をしている人が集まり、水俣病で苦しんだ多くの魂を慰める集いであった。A氏はそこで鎮魂の演奏を行う事になっていたのだ。A氏の演奏に始まり何人かの患者の方達が集まった我々に向かっていろんなお話をして下さった。

この病気で苦しんだのは人間だけではない事、魚や動物たち、そしてこの海自体が深く傷付き悲しみに満ちていたと話されていた。今はこんなに綺麗な公園となり、皆忘れようとしている、上辺を綺麗に鋪装してその中に悲しみを閉じ込めて見ないようにしている、と。そして我々はその魂を慰めるためにここに集っているが、ここは悲しみのお墓なので皆様も何か悲しみを背負っていらっしゃるならここに置いていってください、と。

松子は震えた。知らない内に病気に犯され、さらに堪え難い差別が患者を襲ったと言う。平和な村が、生活が、体が、家族が統べて崩れていき、苦しみのなかで今なお強く生き続けるこの方達が、遠くから何の事情も知らずにふらりと立ち寄った我々の悲しみを取り除こうとしている。
その公園のその土の下に数えきれない傷付いた魂が眠っていてそこにくる人たちを癒す。

ショックだった。

その夜は集会の主催者が用意してくれた宿に宿泊させて頂いた。
多くの支援者や患者さんやその家族が集まって食事が終わってもいろいろ話を聞かせて頂いた。本当に心が大きく揺さぶられた日となった。人に出会うということはまさに宝だと実感した。

2004/08/12(木) 新連載 〜 8月の思ひで8
「な〜ア〜む〜ウ〜あ〜〜〜ぁみぃぃ〜ぃ〜ぃだぁ〜ぁ〜〜〜ぁ〜」
翌朝早くに松子の目を覚ましたのは朝のお勤めだった。
住職を中心としてお寺で修行している若者や多分近所の方なんかもいたと思う。
皆で手を合わせてお経を唱えてた。気持ちよさそうに歌っているように見えた。
ああいう時は妙に空気がすんで清清しい気分になるので実に素敵だ。

そんな素敵気分の松子達を更に素敵なところにお寺の方がつれていってくれた。阿蘇山のふもとまでのドライブだった。一面緑の絨毯の上を延々と走るバン君。いつの間にかピックアップしてきたバイクを一台引き連れて、男性陣はかわるがわるにバイクでのドライビングを楽しんでいた。牛も馬も羊もいたし、何より視力回復に大いに役立った。

ドライブから戻るとお世話になったお寺の皆様に御挨拶をして、我々は水俣に向かった。水俣に行く途中にバン君の後ろを走っていたバイクから次のガソリンスタンドに入るように指令が出た。バイクのガスケツかとおもいきや、なんと我らがバン君の足下から、先ほどから何か垂れているという。
ガソリンスタンドで調べてもらったところ、オイルもれを起こしていた。

ああ、哀れなバン君。ただでさえ調子が悪いのに連日に渡るドライブでさぞ疲労困憊していたのだろう。
オイルまで漏らすなんて。。。
しかし運がよかった。連れのバイクがいなければこのまま気付かずに走っていて、エンジンが焼けてしまっていたかもしれない。
それこそ一大事である。
頑張れ!我々を運んでくれるのはバン君、君しかいないのだ!!

とにかく危篤状態から、一命を取り留めたバン君の処置を終え、水俣への旅路を急いだ。

最初はなぜ水俣に行くのか、分かっていなかった。
この旅はずっとそうであるが、いつもどこに何をしに行くのかほとんどのメンバーは知らないし、それにすっかり慣れてきていたので、もう誰も質問さえしなくなっていた。まさに「時の流れに身をまかせ〜(まかせ〜)」の旅であった。
更に言えば「あなたの色に染められ(そめられ〜)」っぱなしの旅路であった。テレサテンさんもビツクリである。

2004/08/11(水) 新連載 〜 8月の思ひで7
とにかく季節は夏真っ盛り。
お昼を過ぎて太陽光線も絶好調!
サンサンと降り注ぎ我々の肌を車窓越しにジリジリと焼いていた。

はてさて次はどこに向かうのか。
道中、腕にビール瓶を通す事ができるという「超」能力者のところへ行こうかという、ワクワクするような話も持ち上がったが、すぐ持ち下がった。

余談だが、同じくA氏を通じてスプーン曲げ少年として一世を風靡したK少年(元少年)にお会いする機会があり、スプーン曲げ、というかスプーン斬りを拝見した事がある。見事だった。超能力とか不思議系は大好きなので基本的にかなり信じていたが、スプーン曲げに関しては、正直「どうなの?」と思っていたが、ほんとに目の前でスプーンの金属の部分がブヨブヨと波打ち出して最後にはプツンと落ちた時は実に感動的であった。詳しい話を聴きたい方はウイングス松子宛まで。

さてそんなわけで、超能力者のところには立ち寄る事なく、我々が次に向かった先は熊本県であった。今夜はお寺に泊まるらしい。

聴くところによるとそのお寺は、全国からなにかしらの犯罪を犯してしまった少年、少女を受け入れ、自立するまでの手助けをされているところだという。
なんだか厳しそうな臭いがするがこれいかに。

九州は広いようで、山道を超えそのお寺に辿りついたのはとっぷり日も暮れて、お昼に食べたごちそうもすっかり消化作業が終了したころだった。
厳格な御住職が重々しく迎えてくれるのかと思いきや、お出迎え下さったのはなんとも愉快なオーラ(どんなだ)を身にまとったふくよかな御住職であった。拝みたくなるような有り難いお顔に、見るからに「わたしオモシロイ事大好き。」と潤んでいる少女のような瞳。いい意味で期待を裏切るとはこのことだろう。

ここでも我々は手厚くもてなして頂いた。夜遅い時間にも関わらずお寺の御家族の皆さん、近所の方々、そしてここで暮らしている少年たち。
皆さんで手分けして用意して頂いたごちそうが並べられていた。感激!
みなさんホントに目がきれい。少年達も素直そのもの!素晴らしい出合いを頂いた。その日は夜遅くまでご住職を囲んで宴会で盛り上がっていたようでしたが、松子はバタンキューで夢の中だった。お寺のお座敷で皆で雑魚寝。修学旅行を思い出しながら、お線香のいい香でとても気持ちよく休ませて頂いた。

2004/08/10(火) 新連載 〜 8月の思ひで6
やっぱりクーラーは故障したままだったが、昨夜の宿を出発してからもバン君の走りは快調だった。
この日我々がまず向かったのは、有田焼の窯元。
立派な窯元さんで一部は工場のようになっており、たくさんのスタッフの方がそれぞれの工程を担当し、せっせと焼き物を作っていらした。

A氏のお知り合いとの事で、大勢で押し掛けたのだが大変親切に説明して下さり、外国人メンバーはもちろん松子達日本人も興味深々で見学させて頂いた。
やはり一番印象に残っているのは、絵付けの作業だ。大きなお皿などに小さな筆でサッと筆をいれていく。付けられた絵柄も大変美しかったが、それ以上にその作業の手さばきの美しい事!エクセレント!!!

皆で感心していたら、我々にも絵付けをさせてくれると言うではないか!
なんと気のきいたサービス!!
素焼き状態のコップがひとりづつ手渡され、筆を拝借していざ絵付けへ!
さてはて何を書いたものか?
昔ちょいと水墨画をやった事があったので、その時に書いたお花を思い出して書いてみた。そしたら意外と上手に書けてスタッフの方に誉めて頂いて、上機嫌になってしまった。それがいけなかった。人はどうして調子に乗ってしまうのだろうか。誉められたところでとめておけば良かったのに、コップの内側にも手を出してしまったのだ。しかしそれはプロのみに許された技で松子ごときがなせる技では到底なかった。花の部分は変なカエル顔の昆虫みたいだし、茎の部分はでっかい流木。芸術とはおおよそ懸け離れた(ある意味究極の芸術か?)異星のエイリアンが内側に潜んでいるのだ。

旅から戻って1〜2ヶ月したころ、御親切に送って下さったがとてもその中に食するものを入れようという気になれず、しばらくはペン立てとして活躍していた。

楽しく絵付けを体験した我々は、その後有田焼のお皿でお料理を楽しめるお店で美味しいお食事を頂いてさらに御満悦!!

さて次はどこへ向かうのか?
今日の宿はどこなのか?

2004/08/09(月) 新連載 〜 8月の思ひで5
一晩ぶりの再会を果たしたA氏をのせ、ますます窮屈になってきたバン君がまっ先に向かわなければならないのは車屋さんだった。生憎市街地ではそれらしき施設に遭遇せず、かなり田舎道まできてしまっていた。そこへ突如大きな倉庫のようなプレハブの外にタイヤが山積みされてある景色が車窓から確認された。引き返すとこれ有り難や、タイヤ屋さん(というのか?)だった。

バン君の手術が行われている内に我々は近くの温泉でひとっ風呂浴びることにした。近くに良い温泉があるとタイヤ屋さん(というのか?)のおじさんが教えてくれたのだ。昨日東京を出発してから、クーラーの壊れたバン君の中でかけるだけの汗をかいていた我々は大喜びで温泉に入った。

その後無事手術が成功したバン君を迎えに行き、我々が目指したのは佐賀県有田町にある「炎の博記念堂」というコンサートホールであった。
知らぬ間に佐賀県に突入していたとは。。。トホホ。。。

そのホールで、実はアーティストであるA氏と超大物俳優さんとのコンサートがこの日の夜開かれたのだ。充分に芸術を堪能した我々であったが、気が着けばもう夜。果たして今日はどこに泊まるのか?昨夜は車の中で夜を超したので疲労の色も見えかくれ。その事に気付いたA氏が携帯電話でピポパポと宿を手配してくれていた。自分がいまどこにいるのかあまりはっきり分からなかったが、わりと栄えている駅前にわれわれの宿が用意された。

A氏から呼び出しコールがあったのは部屋に入った直後だった。
今日のコンサートの打上げ場所にお呼ばれすることになったのだ。
最近ではバライティーでもお馴染みのあの大物俳優さんと一緒に同じ座敷きで同じテーブルを囲むことになったのである。予想外の展開だった。
でも更に予想外だったのはその俳優さんの酔っ払いぶり。完全に10センチは空中浮遊してらしたね。
こうして知らぬ間に滞在していた佐賀県での夜は更けていった。

2004/08/08(日) 新連載 〜 8月の思ひで4
もちろん誰も死にたくないが、A氏との約束は絶対なので行かない訳にはいかなかった。このままパーキングで朝を待ち、地道に降りてすぐにカー用品店でタイヤを交換するように勧めていたJAFおじさんも、我々がこのまま突き進む腹を決めたと見るや、「死んでもおじちゃん知らんからな」と去っていった。

おじさんが言い残した「80以上で走ったらほんま知らんで」。
この言葉を胸に、制限速度を80キロと決め我々は不安と共に高速道路を西へひた走った。時速80キロは朝11時福岡空港到着できるギリギリのラインである。果たして無事到着するのだろうか???

その先は張り詰めた夜だった。少しガタッと音がするだびに皆ビクッと身じろぎする。なんせ今にもパンクするかもしれないタイヤがこの車を支えているのだ。さっきのひとつめも運が悪ければ走行中にハンドルをとられ大事故に繋がっていたかもしれないのである。そしてその不安が今なお足下にあるのである。
いま改めて思うとなんという危険をおかしていたのだろうと恐ろしくもある。良く生きて帰って来れたと神さんに感謝するほかない。。。

そう、松子が今元気にこの思ひでを書いていることからも分かるように、われわれは無事に九州へ到着したのである。ちょうど日が昇るころ我々のバン君は、意気揚々と本州と九州を結ぶ大きな橋を渡っていた。とてもきれいな朝であった。

ようやく九州の福岡に突入した時にはバンの中から歓声らしき奇声があがった。出会ってまだ数十時間の一行であったが、六人とバン君の間には「一緒にやり遂げた感」が満ちあふれていた。

バンはA氏の待つ福岡空港へと急いだ。指定時間ジャストに到着、A氏との対面を果たした。長い夜だったので、「すっかり御無沙汰しております」と丁寧に御挨拶したくなるような妙な感じであった。

我々のこれまでの目的地は福岡空港であった。

この先どこへ行くのか、何をするのか、どこに泊まるのか、はたまたいつ帰るのか、やっぱり誰も知らなかったが、まだ旅はこれからのようであった。

2004/08/07(土) 新連載 〜 8月の思ひ出3
コンビニ店員さんのソツのない対応のおかげで、一行は自分達が今兵庫県にいることを知った。もともとこの地域に明るかった松子パートナーの頭の地図もうまく作用し、かなりのタイムロスはあったものの何とか高速道路に戻れた。

これを教訓にドライバーが外国人の場合は日本人がひとり助手席で起きておくというルールが定められた。(これまでなかった方が不思議だ)

やっと旅路に戻れたという安堵感からか松子はまたも眠りについていた。

「ドン!」

地震か?!と飛び起きた。
ドライバーはなぜだか分からないが「ドン」という音とともに車が傾向いた気がするという。幸い近くにパーキングを発見し駆け込んだ。

外にでてみるとなんとタイヤからピアノ線がでているではないか!!
バースト状態であった。
なんと!なんと!なんとまあ!
早い話しがパンクでやんす。

我々のバンはアメリカ生まれ。タイヤもとっても巨大で我々の手には負えなかった。
とるべき手段はただひとつ。困った時のJAFだのみ、である。

途方に暮れる我々の前に、JAFおじさんがさっそうと登場したのは、連絡してからかなり時間が経ってからだった様に記憶している。

悲惨な我らがバン君の状態におじさんも顔をしかめ、「こりゃひどい」
予備タイヤと入れ替えてもらったが、その予備タイヤも結構ヤバいらしい。しかもその他の3つのタイヤもやっぱり芳しくない。亀裂が入っていていつバーストするかわからんよ、と。こんな車で九州まで行こうなんて正気の沙汰ではないな、おぬしら、というようなことも言われ随分怒られた。

さらにJAFおじさんは続けた。
「死にたなかったら、これ以上走らんほうがええ」

2004/08/02(月) 新連載 〜 8月の思ひで2
波瀾に満ちた旅だった。

我々を九州へと運んでくれたバンは実はかなりガタがきていたらしく、出発後すぐにクーラーが効かなくなった。8月の御盆前、ガンガンに暑いさなかである。大きなバンだったとはいえ、体が大きい外国人の男性が二人もいて、リトアニアのお嬢さんも日本人にくらべれば背も高く体格もいい、あとは標準の日本人体系の男女がひとりづつと、ビールっ腹のおじさまひとり。みな暑さにもがいてた。

東京を出発したのは夕方頃だった。翌日の11時に福岡空港に着こうと思うとゆっくりドライブと言う訳にはいかなかった。

日が落ちて暑さも少しは和らぎ、途中のパーキングで夕食も済ませた一向はドライバーを交代しながらなるべく先を急いだ。日付けが変わるころドライバー以外はみんな疲れもあったのか、コクリコクリと船を漕ぎはじめた。
走行速度がゆっくりと落ちていき、完全に車が止まったのはそれから少し経った時だった。

パーキングでお茶の時間かと思いきや、車窓から見える風景はそれとは違う。
何ごとかと皆も起きだした。その時のドライバーはラトビアボーイ1だった。
リトアニアガールの通訳から察するに、高速道路をえんえんと走ってきたが、途中で分岐地点があり、もちろん標識も読めないしみんな寝てしまっているので、どうすることもできず勘で進路をきめたところ、見事に外れて高速道路を降りてしまったらしい。そのまましばらく走って異変に気付き車を停車させたと言う訳だ。

困ったことに高速を降りて地道に入っていたので、ここがどこか皆目検討がつかないのである。何県にいるのかもわからない。外は真っ黒、国道でもないらしく道路標識もない。

仕方ないのでしばらく走っていると遠くに光が!!
近付いていくと有り難や、それは一軒のコンビニだった!コンビニ万歳である。
気まずさを紛らわすかのように申し訳程度の商品を手にレジへ向かい、
日本人男子チームがおずおずと店員さんに訪ねる。

「あのここどこですか?」

やばい集団だよね。

2004/08/01(日) 新連載 〜 8月の思ひで
早いもので今日から8月です。

8月になると思い出すことが有ります。
それは4年前の旅の思い出です。
今日からその思いでの旅行記をちょいとづつお話してみようかしらん?なんて思っています。
初の連載チックな試みです。

最後まで書けるように頑張ります。

-----------------------------

4年前の8月にひょんなことから、
東京から車で旅をすることになった。
その時になぜか初対面のリトアニア人のお嬢さん一人とラトビア人のナイスガイ二人と一緒だった。
他の旅のメンバーは松子のパートナー(日本人)とこれまた初対面のバイク乗りのおじさん(日本人)。

いきなりの初対面。
どういった素性の方か全く分からない人が車内に6人。微妙な空気が充満していた。

実はその時諸々の事情で、東京を出発したものの目的地がどこかさえだれも知らなかった。この旅の首謀者であるAさんはのっぴきならぬ事情で同行できなくなってしまい、でんでばらばらに声をかけられて集まってきたこの六人だけで旅を続行することになったのだ。どこに行って何をするのかAさんからは誰も聞かされていなかったのだ。

見ず知らずの人の集まり。しかも半分は外国人。松子を含めた日本人三人は英語がはなせなかったので、ワタワタしていたが幸いリトアニアのお嬢さんが日本語がペラペラだったので事なきを得た。このお嬢さんが中心となり、コミュニケーションがとれたのでお互いに何となく打ち解けてきたころ、その知らせが入った。A氏からだった。

「明日の朝11時に福岡空港にきてくれ」

耳を疑った。
九州以外にも福岡空港が有るのかと思った。
東京から車で行く場所じゃないんじゃないの??

明日か明後日に続く。。。。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.