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2004/03/07(日)
書評を載せてみる。バイトの合間に帰ってきた
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『坂の上の雲』を読み終えた。大長編である。文庫にして八冊にも及ぶ物語を一気にして読破したことはこれまでなかった。 これほどまでに雄大な物語が、近代の日本に存在したのかと、ふと感じた。三国史演戯や太平記を読んだときと似たような印象を持たせる。それは、この物語がそれらの古典のように数多の登場人物によって構成されている、戦争の物語であるからだろう。しかもこの司馬遼太郎の場合は、彼自身あとがきで述べているように、ほぼ100%に近い事実を物語として描きあげている。それは、後に述べるが、三国史などを構成するのとは全く異なる。 何かに似ているという印象を排除して考えてみる。古代の歴史を後世の人が「作者」となって物語にするとしたら、そこに登場する事象や人物のエピソードを様々に創り上げることは容易であるし、その創作によって読者を魅了することができる。しかし、この物語では、そういった手法は用いられていない。いや、日露戦という近代に起きた事実を描くという目的が、それを許さなかったと言えると思う。そのかわりというわけではないが、作者は、ほんの細かい描写まで、資料の語る事実(この文中で用いる「事実」という言葉は、資料の内容を作者が引用して書いている事象を指す)を再構成することで克明に劇的に描いている。それによって編み上がった物語は、事実は小説より奇なりという言葉が端的語るように(小説を評するときに引くのが適当かは疑問だが)、面白いのである。
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