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2010/07/30(金)
水俣病に学ぶ―――いのちの価値(2)
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食物連鎖 わが国においては古来から“めぐりめぐる”自然観、本来の意味とはやや異なるが“輪廻”などという“循環”の思想があった。その“めぐりめぐるいのち”の思想こそはまさに、食物連鎖の現象を具現化した思想とみることもできる。近代化、工業化の中では自然と人間は対峙する存在として、極端な場合は闘う対象、あるいは克服する対象としてとらえられてきた。共存するべきものという意識が近代化のなかで希薄になっていったのではなかったか。 水俣病以前に人類が経験してきた中毒事件は、職業性のものや事故によるものであって、全て直接的な中毒であった。したがって、環境汚染による、しかも食物連鎖を経由した中毒事件は人類初の経験であった。「薄めれば毒でなくなる」ということも事実であるが、一方、濃度の超薄いものを濃縮するという作用が自然界には存在していたのである。この濃縮のメカニズムは食物連鎖と呼ばれる生態系の循環によって行われている。現代において、どんなちっぽけな“いのち”も私たちのいのちと繋がっているという自覚を失ってしまったのではなかろうか。 このような食物連鎖を通じておこった中毒発生のメカニズムの特異性が水俣病の最大の特徴であり、人類初の経験であり、水俣病を公害の原点と呼ばれる所以である。この水俣病事件以後、環境汚染による中毒事件が世界各地で明らかになる。 このように水俣病の発生は人類が初めて経験する新しい事例であった。したがって、さまざまな分野に新しい問題を提示したのである。初めての経験であったことも医学や法律などの学問の分野でも、行政、企業においても対策の遅延、懈怠をもたらした。このような初期の対応の不十分さは半世紀経った今日なお未解決の問題を山積させている原因の一つとなっている。 水俣病問題が今日なお未解決の問題が山積していることの理由の一つに事態が人類史上初めての経験であったことを挙げたが、それで行政、企業、学会が免罪されるものではない。経済優先、効率優先、安全性軽視、弱者軽視、自然界における循環の軽視などの思想が蔓延し、企業優先の政策を行政は強力に進めていた。たとえば、1969年11月、漁民たちが操業停止を求めてチッソ工場に押しかけたのに対して、漁民たちを逮捕して裁判にかけることで応えた。「日本の経済発展のためには化学産業は不可欠で、そのための漁業被害はやむを得ない」とまでいい、工場に乱入した漁民を逮捕して裁判にかけたのであった。
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