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2004/09/18(土)
“宮島”のおはなし。。
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“宮島”は荘厳で雅あふれる厳島神社をはじめとして歴史的建造物・弥山(みせん)等、、歴史的建造物が目白押しですが、表通りをはずれて裏路まで足を延ばしてみるとそこには「全く違う顔の宮島」が有ります。 通常の観光ルートならば桟橋から右へ曲がりお土産屋さんの並ぶ観光通りか、海岸線をだらだらと歩くのですが・・ 「全く違う顔の宮島」へは、島民の方が利用する正面のトンネルへ続く道を通って行きます。 短いトンネルから左に進むと右手正面には細い路地が、 左手正面には綺麗な石垣等が表れてきます。 さらに左の港の隋道を抜けて突き当たりを右へ進むと 右手に『百がんぎ』として古くから親しまれている “今伊勢神社”の石段が目の前に現れます。 また、この地はその昔『戦国三大奇襲戦』と 称される厳島合戦【毛利元就がわずか3千の軍勢で 陶軍2万5千を打ち破った奇襲戦の一つ】での時の 毛利勢の拠点となった宮尾城跡地でもあります。 石段を下り、すぐ右の辻を左に行くと・・ 昔あった歓楽街の面影を残しており、 当時は格子から遊女達が顔を覗かせていたのが 偲ばれるような、そんな風情のある街並みが続いています。 ・・・しばらく行くと五重の塔に近づきます。。 そして厳島神社の真裏の方面にも古い木造建築が 数多く残っており、日々の喧騒から離れた緩やかな 時間が流れるもう一つの宮島に出会えることでしょう。。
私もあまり知らなかったのですが・・宮島には『宮島歌舞伎』と言って・・江戸時代には(金毘羅・出雲)と並び、西国三大歌舞伎として全国にその名を轟かせていたそうです。「昔は宮島さまで5百両、金毘羅さまで5百両いただいてこそ、江戸に戻って千両役者と呼び声が掛かる」と歌舞伎界では言われていたそうです。 また宮島は江戸時代の当時の廣島藩唯一の遊芸地として藩の手厚い保護の中繁栄を極めていきましたが、明治以降は時代に流されるようにして衰退していきました。 ですが、最近再び西国三大歌舞伎が脚光を浴びつつあります。 平成6年、宮島で102年ぶりに“澤村籐十郎氏”による奉納歌舞伎が興行されました。
また『宮島には墓がない!』というのは有名ですが。。 「古来より、宮島自体が神域の為、島内にはお墓が本当にありません。ですから住民が亡くなると、亡骸は海を渡って本土へと移されます。」この風習は現在まで続いており、私も幼い頃からその話は聞いて知っておりました。『神の島・宮島』の七不思議の一つでもあります。
昔話【宮島沿線[五日市(イツカイチ)]の巻】〜あまのじゃくな息子〜
むかしむかし、五日市に道空(どうくう)という漁師がいました。 道空は貧しい漁師でしたが、信仰深くまじめに働くことから だんだんと豊かになり、町の人々からも大変尊敬されていました。 そんな道空にも一つだけ悩みがありました。 息子の道裕(どうゆう)の事です。 道裕は大変な変わり者で父が「右」というと道裕は「左」、 父が「山に行こう」というと道裕は「海に行く」というなど、 何でも反対のことをしていました。 人々はそんな息子の道裕のことを『あまのじゃく』と呼ぶようになりました。 父・道空が亡くなる間際に道裕を呼んでこう言いました。 「わしが死んだら海がいいので、津久根島へ葬ってくれ。」と。 道空の本心は“山に葬って欲しかった”のですが、いつも反対の事をする息子のことだからあえて“海に”と告げたのでした。 しかし、道裕は「さいごくらいは親父の言う事を聞いてやろう」と思い、 津久根島で手厚く葬りました。 父・道空の思いもむなしく、道裕は最後まで道空の反対のことをしてしまいました。。 おしまい!!
(いつも行くラーメン屋さんに『もうひとつの宮島』を紹介した雑誌があったので少し抜粋してご紹介致しました)(*^_^*)
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