気が向けば書く、いい加減日記なのだ〜(爆)
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最新の絵日記ダイジェスト
2008/12/01 ありがとうございました。
2008/03/07 レッスンステージ前夜
2007/11/27 公演を終えて
2007/11/21 最終稽古
2007/11/19 あと、残すところ稽古一回だ!

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2005/01/30(日) 17くらぶの自主練習
レッスンステージまで、あとわずかである。

今日は正式な稽古日でないのだが、何人かが集まって
自主稽古をするというので俺様も付き合ったのである。
受験や就職活動といった、大事なことがひかえている
なかで、芝居をやってみたいと集まった彼らと過す
時間は俺様にとっても楽しいものである。

レッスンステージも受験も就職活動もうまくいくように
神をも恐れぬ俺様ではあるが、彼らのことだけは
あらゆる神に祈っておこう!!

2005/01/17(月) 10年で町の景色は変わったけれど・・・
朝9時に仕事が始まり、ふっと外を見ると
ほんの10分間ほどであるけれど
うっすらと雪に覆われた六甲山上空を
東西に虹が綺麗にかかっていた。
2005年1月17日・・・あれから丁度10年である。

俺の部屋には今も5時47分1秒で止まった置時計がある。
震災の日、台所の冷蔵庫の上に置いていたものだ。
地震で、冷蔵庫が前倒しになり時計が落ちて
電池の入っているカバーが割れて電池が飛び出し時を止めたのである。
たぶん電池を入れれば動き出すだろうけど、なんとなくそのままにしてあるのである。

TVでやっている震災関連の番組をみると、
家族や大事な人を亡くした人の悲しみの大きさは
はかりしれないものである。

人はいつどうやって死ぬのか・・・その時がこないと解らない。
俺様もちょっとした運のよさで、あの地震の中で生き残ることが出来たのかもしれない。
たぶん、隣に大きく頑丈なマンションが建っていなかったら
俺様の住むちっぽけなビルは倒れていたと思う。
あとでわかったことだけど、地震で揺れている時に
俺様の住むビルと隣のマンションは何度かぶつかり合い、
たぶん隣のマンションに支えられ倒れずにすんだのだろう。
(お互いのぶつかり合った部分が激しく壊れていた。)
現在もこの俺様の住むビルは西にかなり傾いているので、
初めて前を通る人は立ち止まり、ながめているぐらいだ。
しかし、今でもビルとビルがぶつかり合うなんて
信じられないことである。

10年という年月は俺様の住む街の風景を一変させた。

震災前は、俺様の家の前には高層建築物などなく
昭和30年代に立てられたような、アパートやおんぼろの
コインランドリーや古い商店街、古い木造建築物など
が立ち並び、路地裏なんかは昭和の臭いがしていたのだが、

今では、灘区役所の大きなビルが新築され、駅前の35階立ての
ツインタワーマンションを筆頭に高層マンションが立ち並ぶようになった。おかげで震災前は綺麗に見えていた六甲山が
今ではほんの一部しか見えなくなってしまった。

震災復興の名の元に、区画整理だなんだということで
出来上がった町が魅力あるものになったのかどうかと
いうことには人それぞれ感じることがあると思うけれど・・・
まぁ、俺様は少なくとも高層マンションが立ち並ぶ町の風景は
あまり魅力的とは感じてはいない。

そんな俺様のちっぽけな思いなどとは関係なく
世の中は時と共に形を変えていくわけなので
どんな状況下でも強い生命力をもって
これからも俺様は死ぬまで生きていくわけなのである。

2005/01/16(日) 10年
明日であの震災から10年めである。

いままで、あえて震災について語る気になれなかったが、
今では震災から気持ち的にも語れるようになった。

震災直後はニュース番組で震災のことを見るたびに
悲しいとかそういう感情が湧いているという
実感もないのに、なぜか涙がでたり、余震のたびに
心臓がドキドキしたりなんてことが半年ぐらい
続いたのを覚えている。
これっていわゆるPTSDてやつだったのだろうか・・・・

自分の住んでいる近所の顔見知りの人がかなり
亡くなった事実も現実のことと思えないようなきがしたり。
多くの現実を受け入れるのにかなりの時間を必要とした。

TVをみていると10年たったいまでも精神的に立ち直れていない人がいることに、あの震災の不条理を改めて感じるのである。

俺は独り者で、さして失うものもなかったので
早い段階で現実を受け入れ先に進むことが出来たのではあったけれど・・・そうでない人が今もいることにやりきれなさを感じる、ことに年をとったひとにとって立ち直るにはあまりに大きすぎる出来事だったということを感じる。

10年前を思い返せば、
会社はこれでつぶれるんじゃないかとか、
劇団の倉庫や事務所がつぶれ途方にくれたり・・・・

だけど、劇団員一同、潰れた事務所の今にも崩れてきそうな
瓦礫の下にもぐりこみ取れるだけの舞台写真やその他の
かけがえのない財産を掘り出したり、
その年のスタジオ生の卒業公演をするために
奔走したりと頑張るべきことがらをこなしていく中で
いつしか前に前に進むことに自分達を推し進めていけたのである。

スマトラの地震や津波のことがっあったり
近い将来起こるといわれている南海地震の恐怖もあるけど

あの震災の時に培った強さと、いざとなった時の人と人との
つながりを信じてこれからも強く生きたいものである。

しかし、震災後数ヶ月は電気も水道もない環境では
会社を営業することもできず、社員それぞれが
屋根の修理や家の補修などのバイトにでたりして
食いつなぎ、毎日自衛隊に水をもらったり
日常生活はかなりたいへんだったなぁ〜

そして、今でもあの震災で傾いた住みかに住んでいるが
もう地震はこりごりである。

大きな地震をけいけんしたことのないあなた!!
とりあえず、タンス、本棚などなどは壁にしっかり固定しておく
ことを進めます。俺様も震災後、タンス、本棚、TV、冷蔵庫など
は全て固定しています。ほんとに震度7は固定してないものは
全てぶっ飛びますよ!!”

それと、できればアウトドアグッズはかなり非常時にはやくだちます。みんなが暖かいものを食べることが出来ないと
いうときにでも、幸いなことに山岳用のコンロをもっている
俺様や小林代表は暖かい食べ物を食べることとができました。
それと、バイク、特に原付バイク(スクーター型)は
重宝しますよ。車は震災の状況下ではあまりやくだちません。

2005/01/11(火) プロジェクト]を見て・・・10年前のわが町が蘇る
今日なんとなくつけていたTVがプロジェクト]という番組のなかで震災で崩れ落ちたJR六甲道駅の復旧工事をした男達の
ことをとりあげていた。

丁度10年前の1月16日大道具倉庫の掃除を終え、
そのまま400ccのテントを積んだバイクでツーリングに
和歌山の方に向けて出発した。
その日はかなりの冷え込みで、革ジャンの下にもしっかり
着込んだ防寒仕様でもバイクではかなりの寒さだった。
夕方に日御碕あたりまで来たところでテントを張り、
ここまでの道のりで、特に大阪湾越しに今、自分の住んでいる
神戸の方まで綺麗に見渡せ、空が凄く不思議な色で綺麗だった
なぁ〜なんて思いながら眠りについたのであった。

しかし、どうもあまりの寒さのため風邪をひいた様だ・・・
鼻水はでるし、寒気でブルブル震えてとても眠れん・・・
深夜12時、ぬくい部屋が恋しくなり神戸に帰ることを決意!
テントを大急ぎでたたみ、バイクをぶっ飛ばして神戸に
帰ってきたのが午前3時!この時、すでに高熱がでていたようで
ふらふらで5階の部屋に入ったとたん意識を失うように
革ジャン着たまま眠ってしまった。

ドン!!
下から突き上げるような衝撃と、ゴォーという
不気味な音でビックリして目覚めた!
「なんじゃ?」と思った瞬間、激しくシェイクされている自分がいた。
50キロあるTVが部屋の端から端にぶっ飛び、棚が崩れ落ち、
大きな出窓が二重窓になっているのだが、その内側の大きな
ガラス窓4枚がおちて割れる音、窓の外でもなにやら建物が
爆撃でも受けたかのような激しい音、
激震は30秒以上続き、それが収まってもゆらゆらと揺れ続けている・・・「これは、やばい!このビルから脱出しなければ
ビルが崩れる!」そう思った俺様は、靴をはいて廊下に飛び出したが、廊下においてあった棚や仕事の道具やらが崩れて行く手を
塞いでいる・・・
それを必死でどけながらやっとのことで二階までおりて、
2階の出口から階段を下りると・・・・なんと、途中から階段が崩れてなくなっている・・・ワイルドな俺様は飛び降りて
ビルの前の国道2号線に降り立ち、そのあまりの光景に言葉を失った・・・(あとでわかったことだが、俺様は震度7の真っ只中に
住んでいたのだ)

隣の大きなボーリング場が崩れ落ち2号線を半分ふさいでいる、目の前に並ぶ瓦屋根の家は軒並みペシャンコ・・・
電信柱は軒並み倒れ、高圧電線が道にたれ、
建物の崩れた瓦礫のほこりはまるで霧のようにもやっているし、
多くの人が着の身着のままで徘徊している・・・
所々火の手まであがっている・・・
なにか、世紀末映画のワンシーンのような現実味のない風景が
目の前に広がっているのだ・・・

夜が明けだすにしたがい、この状況が現実だと認識しだすと
自分の実家は築70年以上にもなろうかという古い家だし、
神戸からは大阪湾をはさんで向こう岸だから助けに行くのは
不可能だと判断(この時点ではこの地震が神戸だけにおこっていることだなんておもっていなかった、関西全域で起こっていることだと思っていた)、その次は小林代表は大丈夫だろうか?
崩れていたら助けなければとおもい、バイクを引っ張り出して
(このバイクを出す作業も、シャッターの前が大きく地割れしていたので、側溝のふたを橋渡しにして苦労して出した。)
灘区から東灘区に向かった・・・小林代表のところに
たどり着くまでの風景もまさに地獄絵図・・・その時は
今思えば変だけど、これが神戸だけに起こっていることだとは
思いもしなかった。 幸い小林代表のマンションは崩れることなく建っていた、ドアをたたけばお互い無事をよろこんだ、
そうしていると、もう1人の劇団員の女性もやってきた。

そして、3日間ほど小林邸で避難生活を送ることとなった・・・

それから、各自親戚の家に避難したりしながらも仕事に通い、
電車も、バスも水もガスもない生活をかなりの長い間
過すことになったが、あの当時はみんなが人に優しかったなぁ・・ほんとにみんな助け合い、協力しあっている雰囲気が
町中にあふれていた。

みんなが平等に苦しければみんな優しくなるのが人間の性なんだろうか? 自分自身も含めあの時の、人に対する優しい気持ちを
少しは今でももちづづけたいものだ・・・

プロジェクト]をみて、ふと震災のことを思い出したのであった。

あともう少し、10年前の記憶をたどってみようかな・・・

※写真は震災2日後ぐらいに俺様の住む六甲道かいわいの風景である。民家はとても写真に取ることが出来る気持ちでなかったので
ボーリング場と2号線を写真に取っておいた)

2005/01/09(日) 17くらぶ のち 新年会
今日は17くらぶの新年初稽古だった。
みんな風邪もひかず元気な姿をみせてくれた。
いつものように10時〜12時まで稽古をして、
今回から、時間の都合がつくものだけで
昼から自主練習をするので、俺様も付き合うことにする。
昼ごはんを食べてから、15時までみっちり稽古をした。
やっぱり、若い人達のやる気に輝いている目はいいものである。
ああいう目をみていると、こっちも出来る限りのことを
やってやろうとパワーがみなぎってくるのだ。

そんな楽しい稽古が終わると、今日は劇団員の松下邸で
新年会なのだ。
この松下氏は劇団一のお洒落さんである。
住んでる家も、ものすごくお洒落なカッコイイ家である。
なにしろ、天井にはお洒落な店でよくみるプロペラみたいな
奴が回ってるのだ。部屋の照明だって生活感を感じない
おしゃれなものだし、ワインセラーなんかあるし、BGMは
なんかしらんけど、とにかくバーかなんかでかかってそうな
ものであるし・・・
もてなしてくれる料理はイタリアンとか、俺様が普段たべたこと
がないような手の込んだ美味しい料理が出るわ出るわ・・・
あまりの美味しさに前半からとばして食べ過ぎた俺様は、
メインデッシュの牛タンをワインで煮込んだのかなぁ?
調理法は俺様には想像できないが、とにかく美味そうな料理を
お腹が一杯になりすぎて食べることが出来なかった・・・

普段ワイルドな料理しか食べなれていない俺様には
出てくる料理がすべてメインデッシュに思える美味しさ
だったので、ペース配分を間違えてしまったのも仕方ないのだ。

酒だって、いつも日本酒ばかり飲んでいる俺様も
今日ばかりは、ワインをたっぷり飲ませてもらった。

なかでも、最初の乾杯のときに小林代表が新聞紙につつまれた
酒を厳かにテーブルに置いた。それを開いてみると・・・
なんと!!ドンペリである。
俺様、そんな酒は名前しか聞いたことがない。
まさに、本物中の本物のシャンパンだ。
グラスに松下氏の手から注がれるとスゲーいい香りと
きめの細かい泡が立つ。口にいれると・・・なんとも、うまい!! その後に出されたワインも美味しいものばかりで
実は昨日も少し飲みすぎて二日酔い気味のことも
忘れて美味しくいただいたのである。

今日の俺様の胃袋はさぞ“うれしビックリ”していることだろう。満足の内に家にかえったのであった。

でも、帰ってきたら俺様の部屋はやっぱりワイルドであった。
部屋の温度をみると5度になってる・・・畳が冷えて足が冷てぇ〜
松下邸とは天と地の差である。(爆)

2005/01/08(土) 新年とっくに明けましておめでとうございます。
今年は低気圧の襲来で年が暮れ明けたので
比良山系の単独縦走は中止して
ひたすら飲んだくれて正月休みをすごしてしまった・・・
まぁ、こんな正月も何年ぶりかなのでたまにはいいとしよう。

久しぶりに実家に帰り、甥っ子達とあうこともでき、
その甥っ子の大きく育っているのにビックリであった。
弟は身長も180センチで、その嫁も170センチ近いので
子供も巨大に育っているようだ。どう見ても小学校2年生には
見えない・・・なにせ、身長140センチ40キロ!!
ちょっと育ちすぎです。しかし、この村井のDNAを受け継ぐ
弟の息子はレストランに行って食べるだけ食べたら、
次の行動パターンは店の女性店員に話しかけ愛想を振り撒き、もう、ほとんどナンパ状態である。我が一族のDNA恐るべし・・・

そんな、正月でした。どんな正月やねん〜


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