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2004/03/10(水)
ああ、そうか。
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月ちゃんスレのちうとツモぴょんのやり取りを読んで、なんか分かってきたことがある。 すごく当たり前なのだけれど、私は私の目でものを見ている。それを知っていたけれど、分かってはいなかった。 そういえば、一子相続の家父長制が廃止されたのは戦後のことなのだ。それ以前は「家」を守ろうとすることは当たり前に「正しい」ことだった。家長の言うことを聞くのは当たり前。家に属する個々人が家のルールに従うのも当たり前。更に家は種々の共同体に属し、しきたりを守って互いを維持してきた。 (この社会構造がどれくらい遡るものなのか、どれほど社会の層差、地域差があるものか、調べていないのでわからない。ただ、本百姓だったらしい我家には最近まで確かに根付いていた。) 戦後、男女兄弟みんな平等になって家父長制は名実ともにほぼ消えた。インフラが整備され、消費活動が活発になり、現金収入が切実に必要になったため、仕事のある土地に人口が集中し、核家族化が進んだ。 属する共同体が同じ家族といえどもそれぞればらばらになり、各々環境によって別の価値観を身に付け、家のルールが絶対的正しさを持って成立しづらくなった。
祖父母や両親は、ちゃんと世の中をみていないのだ、過去の考えで凝り固まって、新しいことを自分の頭で考えてないのだ、と思っていた。 違う。見えるものからして既に違ったのだ。
子供は家庭の中で育つと同時に、時代の中で育つ。大人よりも子供の方が現在を的確に掴むのは、自然なことなのだ。 大人は大変なことがいっぱいあるから、意識して頑張らないとこんなに情報がある昨今では、限りなく遅れていってしまう。 その中で、浮標がないからこそ楽しんで泳ぐか、わけが分からなくなって溺れてしまうか。
結局なにがああ、そうかかというと、「正しい」ことが空気の様にそこここにあったことがあったのだな。それが身体の組成に織り込まれて「思いやり」や「個々人の気持ち」を凌駕したりもするのだな。悪気がない事は知っていたけれど、うちの正しい人々をあまりにも分かっていなかったよ。
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