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2004/02/06(金)
34にして惑う。
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絶望を分かち合える相手というのが、もしいたとしたら、ちょうど同じ力で抱き合えるような感覚を味わうのではないかと思う。 強すぎず、弱すぎず、違和感を感じず。 でも、違和感を感じないと言うのは、やばいことなのだ、と経験的にまた思う。そこからは前に進む原動力が生まれない。
とスマイルに書きこんだ。でも、ちょっと待て。 まず、やっぱり「どうしたって絶望は共感できない」と思っていることが前提にある、とその前に書いているのに、「やばいことなのだ、と経験的にまた思う。」ってなんだ?
微塵の言うことを当てはめて考えてみられるような体験が過去に無かったか、懸命に思い出してみる。そして、「やばいことなのだ、と経験的にまた思う。」が指しているのが何のことか思い当たる。
以前日記に書いた、自分でも分からなかったことを言葉にして分からせてくれた後輩と過ごした頃のことを指していたのだ。「親に縛られる必要はまったくないんです。親は捨ててもいいんです。」と教えてもらったんだ。 でも、それは絶望を分かち合った体験ではない。私は相手のことを慮ったりはしていなかった。
もっとずっとよく思い出してみる。 その後輩と佐伯祐三展に行った。私はブラマンクなんかの野獣派の色彩やタッチが好きだ。その系譜で佐伯祐三も見ていった。絵から絵へ移るペースが同じではない為、後輩とはそのうちはぐれてしまった。 ひと通り見終わって、会場内を探すと、後輩はソファーでぐったりしていた。そして、座ったまま一枚の絵を指差して「あの扉を見ましたか?あまりにも重たくてつらいんです。しんどくてまだしばらく動けそうにない。もうちょっと待っててもらえませんか?」と言った。 私は彼の言っている意味は分かったけれど、“私には分からないな”と思った。そして彼の回復を待って、帰った。
ああ。「絶望」が共感できない性質を持っているのではなくて、もしかしたら私が他人に共感できない性質を持っているのかもしれない。 希望のわくわく感は外から他人を見るぶんにも解かり易いので、共感できるように思っていただけなのかもしれない。
私もよくわからなくなった。
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