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2004/02/04(水)
試しに整頓してみる。
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最近、自分の中にあるような気がするカタチみたいなものが気になっている。“ような気がする”“みたいなものが”という書き方になってしまうのは、それが何なのかまだよく分からないからだ。
例えば、世界史、日本史、郷土史。人や物の移動、それに伴う技術や固有文化の伝播や発達に関することは面白い。でも、個々の史実にはあまり関心がわかない。 例えば仕事、その仕事のシステム、職場のシステム、関わりのある社会のシステムの概要をつかんだ気になると、その仕事の技術の習得度に関わらず、一気に関心が薄れる。職場のシステム自体が信じ難いくらい馬鹿馬鹿しいと、どんなに人間関係がよかろうと、楽な仕事だろうと、続けられない。 例えば世の中の気になるもの、高圧高熱の地中深くに生きている微生物、地熱エネルギーで生きる深海生物、変な鳥、変な虫、古生物、ホヤ、広い範囲にわたって古い地層に含まれる火山灰の層、川、ダム、流体、いろんな力・・・。 例えば好きな音楽、リズムを感じさせるもの、重層的にうねる音流。
これらの、一見関連の無さそうな事柄に、何か共通なカタチを見出して惹かれているような気が漠然とするのだ。そのカタチは自分の中にあるカタチの射影のような気がするのだ。
そして「あなたの人生の物語」「ゼロで割る」「理解」は、私が感じているよりももっと明確に、作者のテッド・チャンがそれぞれの人の中にあるカタチを確信しているように読めた。
ってことは、もうちょっとカタチについて考えてみてもいいのかな。
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