がてんこ、Dig Your Own Hole
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最新の絵日記ダイジェスト
2004/03/11 UFOのこと。
2004/03/10 ああ、そうか。
2004/03/08 正しい人々。
2004/03/07 恵み。
2004/03/06 猫のこと。

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2004/02/20(金) 忘れられない人。
 今まで出会った中で、もっとも理解できなかった人は誰だろう?すぐに思いつく。学生のときの同級生M君だ。
 
 身長186〜7cmはあろうかという彼が生息するにはあまりにも狭い4畳半一間のお宅の机兼コタツの上でフグの形の土笛を見つけた。何故フグ?と思い手に取ると、笛の下部、つまりフグの腹の部分に鉛筆で「大空」としたためられていた。止むに止まれず、「この大空って何?」と聞いた。
 すると、大男に相応しい太い声での〜んびりと、「ここに寝転がったらな〜、窓から空が見えたんだ〜。そしたら無性に大空って書きたくなってな〜書いたんだあ。」昔ながらの桟のあるその窓から見えるのは大空ではなくてちっこい空なのに。しかもフグなのに。

 またある時は、わたしとKがグラウンドで並んでしゃがみこんでいるところにやってきて、「おまえら、狛犬みたいだなあ。あ・うんとでも言っとけ。」と言う。狛犬はいい。何故あ・うんと言わなければならないのか。

 口数の少ない彼が、誰からも一目置かれていたのは、数々の名言のせいか。それとも、気持ちのよいまっすぐさと優しさか。

2004/02/18(水) 匂いの帝王。
 「光速より速い光」と、新しい理論で学会に切り込むことの困難さを描いているという点でかぶっているので、「匂いの帝王」を買うのはやめようと思っていた。「光速より速い光」はすごくしっくりきて面白くて、かなり満足していたから。

 でも、数章読んで、買わざるをえなくなった。この本には、「分からない意味」を言葉にする運動が含まれている。主人公の香水大好き生物物理学者、ルカ・トゥリンはそれを自覚して「比喩は知識の通貨だ」とも言っている。「光速より速い光」はしっくりきていたが、「匂いの帝王」は大きくはみ出している。かなりエキサイティングだ。

 
 化学は嫌いだった。面白くないから。いろんな物質の組成や反応を記号で表す。でも、それだけだ。記号化したからって、関係性が見えてくるわけではない。現実の物質も見えてこない。覚えることだけいっぱいある。わけがわからない。わかりたくもなかった。

 あるときブルーバックスを物色していて「実践量子化学入門」を見つけた。サブタイトルが「分子軌道法で化学反応が見える」、しかも、PCで分子軌道を計算できるソフト付きだ。PC使ってやりたいことが全然無いんだけれど、いくらなんでもちょっとはいじっておかないとやばくない?と思っていたところだったので、ちょうどよかった。
 
 高校の化学が量子化学だったら、化学嫌いにならなかったのにな。
今でこそ家庭用PCで専用ソフトを使って(複雑な計算部分は省いているけれど。付録はデモ版だけど。でも相当すごい。電子の取り得る軌道がイメージモデルで図示までされるのだ。)簡単に計算ができてしまうから簡単にそう思うけれど、当時高校で教えるのは不可能だったのだろうな。

 化学が面白いのは分かったけれど、とりあえず分子軌道を計算する必要にせまられている分子も無かったので、なんとなく手元に置いてあった。

 この量子化学が、「匂いの帝王」のルカ・トゥリンが提唱する匂いの受容体は振動を嗅いでいるとする振動説を理解するキモになっているのだ。もうひとつのキモ「香水」とは無縁だった(とはいえ、今はすごく関心が湧いてきて困っている。)ので、あら、こんなところに橋が!!って感じ。しかも、ルカが使っている計算ソフトのひとつが、付録のデモ版と同じMOPACなのだ。これはあるいは当然だけれど、楽しいな。

2004/02/17(火) 意味ってなんだ?
 石を道具として使ってみた人は、石と道具としての石を行使される対象の間に意味を発見したのかもしれない。とすると、スプーンとか工具とかは意味が顕在化したものかな。
 関係の中に常に意味はあるのか?例えば食事、例えば呼吸、例えば光。そういう関係は、ヒト以前に既にあった。逆に言えば、諸々の、諸々の、諸々の関係の中に、ヒトは生まれた。それは諸々の、諸々の、諸々の意味の中にヒトは生まれたって言い換えられるだろうか?

 世界が準備した関係=意味?(ヒトがいなくても意味はあるってことある?)
 人間が見いだした関係=意味?(道具とか)
 人間が理解できる関係=意味?(数学とか狭義の言葉とか)
 人間が価値を感じる関係=意味?(善悪とか)
 人間が感応する関係=意味?(芸術とか)
この4つは境界が曖昧で、何かを理解する為の定義たりえないな。
意味ってなんだ?ってことの答えを言葉で表して納得するのはなかなか難しいな。
 とりあえず、私がスルーしてしまう意味の正体は、人間が価値を感じる関係に限ってよさそうだ。
 あ、いや、違う。あの肝心の分からない意味見えない意味が入っていない。困ったな。
 ああ、なるほど、私があげた意味は、どれも表層にはりついているものばかりだ。

2004/02/14(土) 開き直った。
 最大級の驚きと賞賛の意味で、馬鹿馬鹿しい、馬鹿げている、という言葉をよく使う。人間が珍重する「有意味なもの」で捉えきれない、ぶっ飛んだもので世の中はできている。それに引き換え「有意味なもの」は頭をぶっ叩かれる様な衝撃を与えてはくれない。そもそも意味なんか無いくせに「有意味だ」と言い張って価値があるみたいにみんなで思い込むなんて、わけが分からない。

 最近気付いたのは、意味なんか無いくせに、と思っていたところにも、どうも意味があることがあるらしい、ということ。私の受容体は、それら「意味」の刺激には励起させられずにスルーしているらしい。
見えないものに目を凝らしても見えないので、見えるものを観察して、「意味」の軌跡を推測する。

 元々は人間がかかるはずの無い病気が、豚を介してうつることがあるように、または、ただでは付いて行き難い神様に、キリストに仲介してもらうように、私は私が好きになった人達を介して、現代の今生きている社会に踏みとどまろうと試みる。
 自分が踏みとどまっていたいから、好きな人を見つけるのか、それとも、好きな人たちが増えたから、踏みとどまってみようと思うのか、本当のところはわからないけれど、そんなこと別にどっちだっていい。

 そして、最近の迷走から、やっとまたスタート地点まで戻ってきた。
私はここ10何年かの自分の行動を、誰のせいにもできないことを誰よりも知っている。過去を振り返るのはやめて、今の矛盾に充ちた境遇(自分の都合で実家に戻って、楽している)は、明るい明日の為にあるのよ、と開き直って、できることをやっていくのだ。のだ。

2004/02/12(木) とは言ってみたものの。
 一旦考え出してしまったことは、それほど簡単に頭の中から出て行ってはくれないのでした。

 以前エゴグラムを試してみた時、旧ポコに「逆V字」と笑われた診断結果は、すごくしっくりきていたし、その自分観は安定していて自信も持てるものだった。かもめちゃんはその時も全面的に肯定する感想を伝えてくれたのだったね。
 そうではあったけれども、私はちょっとナナイちゃんや毛茶の結果が羨ましくて、どこをどう直したらそういう結果に変わるだろうかと、自分の意思で変えることができそうな項目をいろいろ試しに変えてみたりした。ところが、どうしても望ましい結果が得られないの。それどころか「逆V字」にならなかった場合の診断は、マイナス評価ばかりが目立って、嫌になってやめた。

 何故今になってそんなことを思い出したかと言うと、親子のミスマッチのことを考えていたからだ。
 私と両親は明らかにミスマッチだ。自分が他人にあまり関心が無く、どちらかといえば冷淡なのは、そのせいだと昨日まで思い込んでいた。 だって、大人になって、他人に甘える心地よさを知ってからは、格段にスムーズに他人と関係を結べるようになったし、友達を作ることが楽しくなった。そういう関係の仕方は、普通は親子の関係から体得するものだったんじゃないの?って。
 
 だけれども、エゴグラムのことに思い当たる。どんなに選択肢を変えてみても逆Vの頂点だけは毎回そのままだった。私はなんでも考えて組み立てる。組み立てて、考えて、納得できない部分は切り捨てて、落ち着いた安定した形なのではないか?別の要素を入れると不安定になるから、その結果、理不尽な親の愛情も撥ね付けたのではないか?(友達はそんな理不尽な愛情を私に押し付けたりしない。)
 思い返せば、一番の足かせは、「お前は世の中をまだ知らないんだ」という、反論する術のない最強の呪いの言葉だった。反論できないという点で、私には愛情よりも重かった。

 暗い気持ちで書いているのではなくて、あれれ?という気持ちです。

2004/02/11(水) 長すぎる夢。
ただ生きて、ただ死にたいだけなんだけど、意外に難しいもんだな。
考えても仕方のないことはしばらく考えるのをやめて、桜が届くのを楽しみに待っていよう。

2004/02/06(金) 34にして惑う。
 絶望を分かち合える相手というのが、もしいたとしたら、ちょうど同じ力で抱き合えるような感覚を味わうのではないかと思う。
強すぎず、弱すぎず、違和感を感じず。
でも、違和感を感じないと言うのは、やばいことなのだ、と経験的にまた思う。そこからは前に進む原動力が生まれない。

 とスマイルに書きこんだ。でも、ちょっと待て。
まず、やっぱり「どうしたって絶望は共感できない」と思っていることが前提にある、とその前に書いているのに、「やばいことなのだ、と経験的にまた思う。」ってなんだ?

 微塵の言うことを当てはめて考えてみられるような体験が過去に無かったか、懸命に思い出してみる。そして、「やばいことなのだ、と経験的にまた思う。」が指しているのが何のことか思い当たる。

 以前日記に書いた、自分でも分からなかったことを言葉にして分からせてくれた後輩と過ごした頃のことを指していたのだ。「親に縛られる必要はまったくないんです。親は捨ててもいいんです。」と教えてもらったんだ。
 でも、それは絶望を分かち合った体験ではない。私は相手のことを慮ったりはしていなかった。

 もっとずっとよく思い出してみる。
 その後輩と佐伯祐三展に行った。私はブラマンクなんかの野獣派の色彩やタッチが好きだ。その系譜で佐伯祐三も見ていった。絵から絵へ移るペースが同じではない為、後輩とはそのうちはぐれてしまった。
 ひと通り見終わって、会場内を探すと、後輩はソファーでぐったりしていた。そして、座ったまま一枚の絵を指差して「あの扉を見ましたか?あまりにも重たくてつらいんです。しんどくてまだしばらく動けそうにない。もうちょっと待っててもらえませんか?」と言った。
 私は彼の言っている意味は分かったけれど、“私には分からないな”と思った。そして彼の回復を待って、帰った。

 ああ。「絶望」が共感できない性質を持っているのではなくて、もしかしたら私が他人に共感できない性質を持っているのかもしれない。
 希望のわくわく感は外から他人を見るぶんにも解かり易いので、共感できるように思っていただけなのかもしれない。

 私もよくわからなくなった。

2004/02/05(木) 光速より速い光。
 おとつい、確定申告の申請書類を提出に行くことを口実に、やっぱりどうしても欲しくなってしまった「匂いの帝王」という本を探しに行った。
 無かった。その代わりゲーデルの不完全性定理の解説本があった。実は、私の日記への微塵の感想に対するレスを考えて、自分の不完全性定理理解をちゃんと言葉に置き換えてみようとしているうちに、本当の意味で自分がそれを理解しているのか、怪しくなってきていたのだ。
 幸いそこにはソファーがあったので、後からもまた考えられるように、ちょっと記憶が曖昧で自信が無かった記号の意味を家まで覚えているために頭にいれながら、つまみ読みをしてみた。以前読んだものとは、同じ式でも解釈が少しづつ違う。結局じっくり読んでしまった。

 ゲーデルが証明した2つの定理を公理として体系に組み込んだとしても、また同じやり方でその体系内で更なる「ゲーデル文」を導き出すことができる、ということをより重要視している解釈もあるみたい。野矢さんの解説も、ややそうだった。
 だけれども、私には定理そのもので充分な気がする。
そもそも、この不完全性定理が大きな意味は、「数学的体系の無矛盾性が証明できるものであって欲しい」という願望があってこそなのだ。
 数論を含む体系全てにおいて、(数論を含むゆえに)その体系の無矛盾性はその体系からは証明ができない、結論付けられる以前に、世界を体系化する試みはもっと別の要素の困難に満ちている。

 ゲーデルの本を熟読してしまった手前、「匂いの帝王」はなかったけれど、何か買いたくなるような本はないだろうか、と思って手に取ったのが「光速より速い光」ジョアオ・マゲイジョ NHK出版だった。
 ぱらぱら、っとページを繰った瞬間、買うことを決めていた。そして、一気に読んでしまうだろうと思って、正にその通りになった。

 よく日記に偶然の凄さを書くけれど(大抵長々としたダラダラ文になってしまうので、私の一瞬の興奮は伝わっていないと思うけれど)、今回の体験もなかなかのもんだ。
 こないだ、bbsに「空間にも最小単位があるらしいですぜ。」と書いたが、正にそのことの本だった。
 種を明かされれば馬鹿みたいなことで、自分が考えてもみなかったことが悔しいのだけれど、「量子力学の重力子と宇宙論の時空を共存させるためには(時空の曲率を表す重力がそもそも量子だというのなら)、時空も量子化されなくてはならない。そのためには当然、時間と空間にも最小単位がある。」と考えられるのだ。重力子が本当にあるかどうかはまだ分からないと著者も言いながら、実験で確かめられる可能性のある予測はもう組み立てられている。
 あと、このエキサイティングな理論物理学者、ジョアオ・マゲイジョは、ジャズサックス奏者のコートニー・パインが大好きなのだ。私以外の人がコートニー・パインを好きなことを表明しているのに、初めて出くわした。
 あと、私がいろいろ勘違いしていたこともわかった。物理の問題を解いていて、導き出した式を計算していくうちに、左右の項が同じになってしまって、A=Aという、なんの意味も無い物になってしまうことがあるのは、拾い上げ方がまずいのだと思っていたけれど、物理の公式にはA=Aの言い換えでしかないものもあって、彼も同じ目に合う事があるみたいだった。数学が得意な物理学者も、式から導き出されるモデルを視覚化してイメージすることなんてできないってことも知った。

 とにかく、すごく面白い本。式は全然出てこなくて、でもすごく上手に説明されてて、物理以外の話もめちゃめちゃ面白い。

2004/02/04(水) 試しに整頓してみる。
 最近、自分の中にあるような気がするカタチみたいなものが気になっている。“ような気がする”“みたいなものが”という書き方になってしまうのは、それが何なのかまだよく分からないからだ。

 例えば、世界史、日本史、郷土史。人や物の移動、それに伴う技術や固有文化の伝播や発達に関することは面白い。でも、個々の史実にはあまり関心がわかない。
 例えば仕事、その仕事のシステム、職場のシステム、関わりのある社会のシステムの概要をつかんだ気になると、その仕事の技術の習得度に関わらず、一気に関心が薄れる。職場のシステム自体が信じ難いくらい馬鹿馬鹿しいと、どんなに人間関係がよかろうと、楽な仕事だろうと、続けられない。
 例えば世の中の気になるもの、高圧高熱の地中深くに生きている微生物、地熱エネルギーで生きる深海生物、変な鳥、変な虫、古生物、ホヤ、広い範囲にわたって古い地層に含まれる火山灰の層、川、ダム、流体、いろんな力・・・。
 例えば好きな音楽、リズムを感じさせるもの、重層的にうねる音流。

 これらの、一見関連の無さそうな事柄に、何か共通なカタチを見出して惹かれているような気が漠然とするのだ。そのカタチは自分の中にあるカタチの射影のような気がするのだ。

 そして「あなたの人生の物語」「ゼロで割る」「理解」は、私が感じているよりももっと明確に、作者のテッド・チャンがそれぞれの人の中にあるカタチを確信しているように読めた。

 ってことは、もうちょっとカタチについて考えてみてもいいのかな。


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