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2004/01/08(木)
心が慌てると身体も慌てるよね。の2
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1を書いてからずいぶんと時間がたってしまった。続けて書きたかったけれど長くなりすぎるので日付を改めて書くつもりだった内容とは違ってしまうだろう。
不必要にあわてまくる時がある。 初めて海中でウミヘビに出会ったとき、そっと離れれば大丈夫と教えられていたのに、予期せず動揺してしまった。元々泳げない上に、頭が飛んでしまって上手く手足が制御できないのでますます前に進まない。そのことでまた動揺する。動揺を増幅させるループが完成してしまった。ウミヘビの関わり知らないところで。
自分の意思で心拍数をコントロールする、リラックスした身体状況を自ら作り出すために意識して体温調節をする、そういう技術を人間は身につけることができるらしい。その技術を取得するトレーニングで、ループを断ち切ることができるだろうか? 頭による身体の制御。特殊な技能のようで、実はいつもやっていることの延長線上にある。頭が指令を出すと、身体は働くのと同時に自らの状況をフィードバックする。それを受けて、頭は身体への指令を修正する。フィードバックされる情報をシャットアウトする、又は改変するやり方を覚えると、経験に逆らった指令を出せるようになるらしい。 結局、わたしが少々の動揺に引きずられないほどに泳げるようになることと、同じなのだ。そして、たぶん、泳ぎを覚える方がたやすい。
パソコンに詳しくない。でも、そのことをなんとも思っていない。 電卓の王様のような兄のポケコンで、単純なゲームに興じていたことがある。ちびっこいカセットテープで毎回プログラムを読み込んだ。 学校の授業で、BASICで10行程度のプログラムを組んだことがある。作成者として自分の名前を表示させる為には、日本語ソフトのフロッピーを入れなければならなかった。 その貧弱な体験だけで、どんなにパソコンの用途が多様化しても、入力・演算・出力の延長線上である限り、私は慌てない。使い方は知るだけでいいからだ。
けれども、それは違うと気付いた。システムを知ることと、システム内にどっぷり浸かることは、質が全然違うのだ。現在のパソコンの用途の多様化に関心を示すことができないことにおいて、既に私は立派な旧人類なのかもしれない。 そして、システムにどっぷり浸かった故の変化が、システムを構築したものそれ自体を超える可能性をもつことだってあるかもしれない。
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