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2008/09/27(土)
ポール・ニューマン氏、がんのため83歳で死去
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『ハスラー』、『明日に向って撃て!』、『評決』など半世紀以上にわたり第一線で活躍した米俳優のポール・ニューマンが26日(金)、がんのため死去した。83歳だった。
1925年1月26日、オハイオ州クリーブランド生まれ。子どものころは、演劇好きの母親の勧めで児童劇団に入ったこともあったが、あまり興味を示さなかった。家業のスポーツ用品店を継ぐためにオハイオ大に進学。第2次世界大戦後、ケニヨン・カレッジに進みフットボール選手として活躍するが、除名処分となり、俳優の道を志す。
50年からイェール大の演劇科で学び、52年にはニューヨークのアクターズ・スタジオに入学。同期にはジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドがいた。
ブロードウェイの舞台「ピクニック」の演技が高い評価を受け、米ワーナー・ブラザースと専属契約を結ぶ。54年『銀の盃』で映画デビュー。56年の主演作『傷だらけの栄光』で、実在のボクシング世界王者、ロッキー・グラシアを徹底した役づくりで熱演し、注目を集めた。
58年『熱いトタン屋根の猫』でアカデミー賞主演男優賞に初ノミネート。61年『ハスラー』では英国アカデミー賞の主演男優賞に輝く。58年に結婚したジョアン・ウッドワードを主演に起用し、『レーチェル レーチェル』(68)で初監督に挑戦。アカデミー賞作品賞など4部門で候補になった。
何度も主演男優賞候補に挙がりアカデミー賞では常連だったが、初めて個人でオスカーを手にしたのは86年の『ハスラー2』。実に当時では最多、7回目のノミネートでの戴冠だった(主演男優賞ノミネートは通算8回、受賞は1回)。
60年代末からは、アメリカン・ニューシネマの担い手として活躍。ロバート・レッドフォードと組んだ『明日に向って撃て!』(69)が大ヒットし、同じコンビによる『スティング』(73)はアカデミー賞作品賞を受賞。『タワーリング・インフェルノ』(74)などの超大作でも存在感を放ち、スターの地位を不動のものとした。
スティーヴ・マックイーン、バーブラ・ストライサンドらとともに製作会社ファースト・アーティスツを設立。主演し、初めて製作も手がけた『レーサー』(69)を機に、カーレースに魅せられ44歳でプロレーサー・デビュー。75年に自らのレーシング・チームを結成し、デイトナ24時間レース5位、ル・マン24時間レース2位などの記録を残している。
反戦反核運動にも積極的で、ニクソン政権時代にはホワイトハウスが公表したブラックリストに載ったことも。78年の長男の死をきっかけに、麻薬撲滅運動にも乗り出している。
その後、80年代に入り『スクープ・悪意の不在』(81)、『評決』(82)などの社会派作品でさらに演技派としての評価を高める。一方、82年に設立した食品会社「ニューマンズ・オウン」で発売したサラダドレッシングやスパゲティ・ソースが世界的なヒット。その純利益を全額、恵まれない子どもたちに寄付した功績を認められ、93年のアカデミー賞でジーン・ハーショルト友愛賞をおくられている。
その後も『ノーバディーズ・フール』(94、ベルリン国際映画祭男優賞)、『ロード・トゥ・パーディション』(02、初のアカデミー賞助演男優賞候補)など精力的な活動を続け、06年のディズニー=ピクサーのフルCGアニメ『カーズ』では声優も務めた。
だが、昨年5月に出演したABCの番組で、高齢による演技力、記憶力の低下を理由に俳優からの引退を表明した。
日本にも多くのファンがおり、81〜85年には日産スカイラインのCMにも出演。だが、映画のプロモーションでは1度も日本に来たことがなく、常に“未来日の大物俳優”の1人となっていた。
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