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2008/06/20(金) 3代目セーラームーン・神戸みゆきさん急死
ミュージカル「美少女戦士セーラームーン」の3代目セーラームーンとして活躍し、映画「バトル・ロワイアルII」などにも出演した女優、神戸みゆきさんが18日午前4時8分、心不全のため川崎市内の病院で急死していたことが20日、分かった。24歳だった。昨年2月、舞台「レ・ミゼラブル」を体調不良で降板してから入退院を繰り返していた神戸さん。女優のみならず、ファッション関係の仕事を夢見て回復を信じていたが、それもかなわなかった。

 バラエティーから舞台、映画と幅広く活躍していたアイドルが24歳の若さでこの世を去った。

 所属事務所「ルージュ」の本田正樹社長(45)は、サンケイスポーツの取材に「親族に見守られて亡くなりました。(遺体は)安らかな表情でした」と事実を認め、「繊細な子で自分をギリギリまで追い込んで、持っている力以上のものを演技に出せる子だった…」と突然の訃報に肩を落とした。

 神戸さんは昨年2月、同6月公演の舞台「レ・ミゼラブル」を体調不良を理由に降板。川崎市内の病院に検査入院して以降、入退院を繰り返していた。ただ、今月9日に東京・渋谷区の事務所で社長と会った時には元気な姿を見せていた。

 以前から古着をアレンジして洋服を作るなどファッションへの関心が高く、9日も「自分のやりたいことは演技だけじゃなく、ファッションを写真で表現するような仕事もしてみたい」と意欲を燃やしていたという。だが、今週に入って体調が急変し緊急入院。親族が見守る中、静かに息を引き取った。

 神戸さんは平成12年上演のミュージカル「美少女戦士セーラームーン」のオーディションで約500人の中から主役の月野うさぎ役に選ばれ、芸能界入り。一躍人気となった。その後も映画「バトル・ロワイアルII」、ドラマ「仮面ライダー響鬼」など話題作に出演。体を張った演技は定評があり、「レ・ミゼラブル」降板後も製作の東宝から「体調が良くなったら来てほしい」とオファーを受けていたという。

 また、ある関係者によると、神戸さんは人を喜ばしたり驚かせるのが好きで、エープリルフールには「事務所辞めた」などとビックリメールを送ってきたことも。明るいキャラクターで誰からも親しまれる存在だった。

 葬儀は21日、川崎市内の斎場で近親者のみで執り行われる。

2008/06/19(木) 自殺者、10年連続で3万人超…30歳代は過去最多
昨年1年間の全国の自殺者は一昨年より2・9%多い3万3093人で、1978年に統計を始めてから、過去最悪だった2003年に次ぎ、2番目に多かったことが警察庁のまとめでわかった。

 自殺者が3万人を上回ったのは10年連続。このうち60歳以上と30歳代の自殺者は過去最多だった。

 お年寄りの「孤独感」を動機にした自殺のほか、働き盛りを中心にした「仕事疲れ」の自殺も目立ち、高齢者とともに、社会的・経済的に負担が増す世代が追い詰められている現状が浮き彫りになった。

 昨年の自殺者を年齢別でみると、60歳以上が一昨年比8・9%増の1万2107人と最も多く、全体の36・6%に上った。50歳代は2・8%減の7046人だったが、40歳代は1・8%増の5096人、30歳代は6%増の4767人で、働き盛りの30〜40歳代だけで全体の29・8%を占めた。

 20歳代は2・5%減の3309人、19歳以下は12%減の548人で、小学生は8人、中学生は51人、高校生は215人だった。

 男女別では男が2万3478人、女が9615人。

 警察庁が遺書やインターネット上の書き込みなどから動機を特定できたのは、このうち2万3209人。自殺には複数の動機が絡むケースが多く、今回からは動機の項目に「仕事疲れ」や「子育ての悩み」「いじめ」などを加えたうえで、動機が複数ある場合はすべて挙げることにした。

 その結果、動機別では〈1〉病気の悩みなどの「健康」1万4684人〈2〉借金などの「経済」7318人〈3〉家族の不和など「家庭」3751人〈4〉職場が原因の「勤務」2207人〈5〉「男女問題」949人〈6〉「学校」338人−−の順だった。

 自殺者が過去最多となった60歳以上では「健康」が6735人と最も多かったが、「孤独感」が277人、「介護・看病疲れ」も153人いた。

 「経済」を動機とした自殺では、「多重債務」が1973人で、「その他の負債」が1656人、「生活苦」が1137人。「勤務」では「仕事疲れ」が672人と最も多かった。「学校」のうち「いじめ」自殺は14人だった。

 全国の自殺者は1998年に初めて3万人を突破してから3万人を1度も割り込むことなく、過去最多の2003年は3万4427人だった。

2008/06/18(水) 小6転落死 校舎屋上の採光窓突き破り1階に 東京・杉並
18日午前9時25分ごろ、東京都杉並区和田の区立杉並第十小(宮山延敬校長、児童388人)で、杉並区和田2、会社員、中村俊晴さん(44)の長男京誠(きよまさ)君(12)=同小6年=が校舎屋上にあるドーム状のアクリル製採光用窓(厚さ4.5ミリ、高さ約70センチ、直径約130センチ)を突き破り1階の床に転落、全身を強く打ち約4時間後に死亡した。事故当時は算数の授業終了直後だったが、学校は児童らにドームに乗ることを禁じる指示を出していなかった。警視庁杉並署が詳しい原因を調べている。


調べなどによると、京誠君は算数担当の女性教諭(49)の引率で、児童25人と「10メートル歩いて何歩になるか」(1時限目)をテーマにした授業を屋上で受けた。終了後、教諭が児童を出入り口に誘導中、京誠君が採光用窓に乗り、ドームとその下のガラス製窓(厚さ約7ミリ)を突き破り、約12メートル下の1階多目的用ホールの床に転落した。窓の下は吹き抜けで1階にいた男性教諭が発見した。同署はドームが体重を支えきれなかったとみて、学校関係者らから事情を聴いている。

 事故を受け、杉並区は井出隆安教育長らが同日夕会見し、屋上の出入り口は通常は施錠されており、この日は授業で広いスペースが必要だったため、鍵を開けて使っていたことを明らかにした。女性教諭は屋上の使用を校長らに報告しておらず、アクリルの覆いに乗ると危険なことも児童に注意していなかったという。井出教育長は「児童だけでは近付けない場所なので、上に乗ることを想定していなかった。安全であるはずの学校で事故が起き大変申し訳ない」と謝罪した。

 同級生らによると、亡くなった京誠君は小学校の野球チームに所属。クラスのリーダー的存在で優しい性格だったという。別のクラスの男子児童は「亡くなったなんて信じられない」と涙ぐんだ。

 同小は午後6時半から保護者会を開き、宮山校長が事故の経緯を説明した。

 ◇「乗った場合」想定なく 文科省の指針

 小学校内の施設についての留意事項を示した文部科学省の「小学校施設整備指針」(92年作成)によれば、採光用窓について児童らが乗った場合を想定した記載はない。ただ、総則には「児童の多様な行動に対し、十分な安全性を確保した計画にすることが重要」とあり、ガラスも「人体の衝撃に対し、破損しにくくすること」と記されている。文科省の担当者は「区教委から事情をよく聴き、採光用窓がある他の学校でも対応が必要なのか検討したい」と話した。

 事故があった区立杉並第十小の屋上には「トップライト」と呼ばれる採光用窓が5基あり、86年に校舎ができた際に設置された。3年に1度、建築士が目視点検しており、06年の検査では異常は見つからなかったという。他の区立小中学校13校にも同様の採光用窓があり、杉並区は18日、点検や再発防止を指示した。

2008/06/17(火) 連続幼女誘拐殺人事件から20年、宮崎勤死刑囚の死刑執行
東京と埼玉で幼女4人が殺害された「連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が17日、東京拘置所で執行された。猟奇的な手口、挑発的な犯行声明文や遺骨を送り付けるなど社会に衝撃を与えた事件から20年。「オタク」の象徴とされた男は公判で不可解な言動を繰り返し、最後まで謝罪や反省の言葉はなかった。

 日本中を震撼(しんかん)させた事件の主人公は、悔いる言葉を残すことなく人生の幕を閉じた。

 宮崎死刑囚は1988年8月から89年6月までの約10か月間で、埼玉と東京で当時4〜7歳の幼女4人をわいせつ目的で相次いで誘拐、殺害したとして06年2月に最高裁で死刑が確定していた。

 犯罪史に残る猟奇的な事件だった。犠牲者宅に遺骨入りの段ボール箱を送り付けたり、「今田勇子」の名で犯行声明を犠牲者宅や新聞社に郵送した。完全犯罪への自信を見せる挑発的行動の一方で、幼女を殺害後にわいせつ行為をして遺体をビデオカメラで撮影、遺体の一部を食べるなどの異常行動もしていた。

 89年7月に逮捕後、宮崎死刑囚の自宅からは約6000点のビデオテープや漫画本が押収され、その中には残忍なホラービデオなどに加え、殺害後の遺体を撮影したビデオも発見された。

 引きこもりがちだったという宮崎死刑囚の怪しげな暮らしぶりは、アニメ収集仲間らが互いに呼び合う言葉から生まれた「オタク」が広まるきっかけとなった。

 公判でも宮崎死刑囚は独特の世界観を広げていった。90年3月の初公判で「覚めない夢の中でやったような感じ」と淡々と殺意を否認。殺害の状況を「女の子が泣き出すと、ネズミ人間が出てきて、気が付くと女の子が倒れていた」など意味不明な証言が続いた。

 裁判は善悪を判断する刑事責任能力の有無が最大の争点となった。犯行時の精神状態をめぐって長期化したが、1、2審ともに宮崎死刑囚の責任能力を認め、最高裁も上告を棄却、死刑が確定していた。

 不可解な言動は法廷外でも繰り返された。06年1月の最高裁判決の直前には「(事件は)良いことをしたと思います」と記した手紙を共同通信に寄せるなど被害者感情を逆なでした。最高裁判決当日、面会した臨床心理士から判決を伝えられると「そのうち無罪になる」とも答え、約1か月後に出版した著書では最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判したという。

 一方で、その後に月刊誌「創」編集長にあてた手紙は「絞首刑は恐怖で残虐。薬を使った執行でなければいけない」と死刑を強く意識した内容で、「刑執行の恐怖と闘わねばならず、反省のことなど考えなくなる」と薬物での安楽死刑を勧める“持論”を展開した。

 本人の依頼で再審請求していたが、結局「心の闇」は解明されないまま、45年の生涯を終えた。

2008/06/16(月) 副都心線、平日初日は通勤ラッシュで大混乱
「本日はダイヤが乱れて、お客さまには大変ご迷惑をおかけします。お急ぎのところ申し訳ございません。深くお詫び申しあげます」

 ダイヤの乱れを詫びる放送が繰り返される東京メトロ副都心線「池袋駅」構内。平日初日となる6月16日(月曜)、夕刻のホームは電車に乗れない人でごった返していた。

 「乗り換えで使えると思って今日から副都心線を使ってるんだけど、朝からダイヤが乱れて会社、遅刻したよ。今も電車がこないんだってさ」

 携帯電話で話していた男性は、とぼやいていた。

 記者も池袋駅から1つ目、雑司が谷駅に向かうのに、30分以上も待ってしまった。これなら歩いたほうが早かった。雑司が谷駅は各駅停車しか止まらない。ただでさえ来ない電車は、来るのは急行ばかり。足止めをくらってしまう。

 そんな中、なかなか来ない電車に嫌気がさしたのか、可動式ホームの柵から体を乗り出して電車を見ようとする人が現れたり、「また、急行かよ」と怒鳴る男性も出てきた。

 反対ホームの電車は停車位置手前に止まったまま、動かなくなり、中にいる人たちを閉じ込めたまま立ち往生している。なかなか定位置まで移動できない。やっと来た電車の行き先が突然、変更になったりもした。全体を通して物理的にうまく流れていない。

 ホームにいるオレンジのチョッキを着た警備員に質問してみた。

───開業初日(6月14日)もカメラ撮影をする人たちなどの影響でダイヤが乱れたと聞いたのですけど、今日と比べて混雑ぶりはいかがでしたか?

 「土日に比べると今日のほうが凄いですね。今日から通勤に使う人が増えて、混雑で朝から大幅にダイヤが乱れてしまい、そのままズルズルと混乱が続いています」

 別の警備員の方にも聞いてみる。

───どうして今日はダイヤが大幅に乱れているのですか?

 「あくまで個人的な見解ですが、東武東上線や西武池袋線からの乗り入れがうまくいかず遅れが出てしまったのかもしれないですね」

 毎日新聞によると運転手が運行操作に慣れておらず、行き先などのタッチパネルの入力に手間取ったために、最大で34分の遅れとなったと書かれていた。

 とにかく大変だ。雑司が谷駅から新宿3丁目駅にたどりついたときは、ついに混雑の影響で、小竹向原〜池袋駅間の運転は見合わせとなり、池袋と渋谷の折り返し運転となった。

 「地下鉄に急行を取り入れたから、トラブルが出やすいんだ」

と一眼レフのカメラを首から提げた鉄道に詳しそうな人は話していた。そうなのだろうか。

 通勤などで副都心線を利用しようと楽しみにしていた記者だったが、本日の混雑ぶりに疲れ果て、運行状況が落ち着くまでは、しばらく様子をみようと思った。

2008/06/15(日) <イラン邦人誘拐>中村さんテヘランに到着 17日帰国へ
イラン南東部で昨年10月、武装麻薬密輸団に誘拐され拘束されていた横浜国立大生、中村聡志さん(23)は14日解放され、15日にテヘランに到着、在イラン日本大使館が無事保護した。日本政府は事件の緊急対策本部長の小野寺五典副外相を同夜、イランに派遣。中村さんの父淳貴(きよたか)さん(54)も同行し、16日にテヘランで中村さんの身柄を引き受けて17日夜に帰国する予定だ。

 現地警察によると、中村さんはパキスタン領内で約8カ月ぶりに解放されたあとパキスタン当局に保護され、国境でイラン当局に身柄を移された。テヘランの空港に降り立った中村さんは元気そうな様子で、日本大使館員に「ほっとしました」と話したという。

 高村正彦外相は15日、「イラン政府が総力を挙げて努力されたことに深い謝意を表したい。誘拐という卑劣な犯罪行為を断固非難する」との談話を発表した。

 中村さんは昨年10月7日、イランのケルマン州バムで、宿泊先から城塞(じょうさい)遺跡を見物に出掛けた後、少数民族バルチ人の密輸団「シャハバフシュ」に誘拐された。

 密輸団は当初、中村さん解放の見返りに収監中の仲間3人の釈放を要求。イラン当局は拒否したが、今年3月、要求を基本的に受け入れる形でいったん合意した。だが、密輸団は翌4月、イスラム教シーア派聖職者を新たに誘拐し、先の要求に2人を加えた計5人の釈放を求め、交渉は暗礁に乗り上げた。

 イランのモホセニエジェイ情報相は14日、「イラン当局が情報活動などにより密輸団の主要メンバーを逮捕、密輸団側が日本人と聖職者を解放せざるを得なくなった」と発表した。逮捕者の人数などは明らかでない。

2008/06/14(土) 岩手・宮城内陸地震 6人死亡、155人負傷 不明11人
14日午前8時43分ごろ、東北地方で強い地震があり、岩手県奥州市と宮城県栗原市で震度6強、北海道から愛知県までの広い範囲で震度6弱から1の揺れを観測した。気象庁によると、震源地は岩手県内陸南部で、震源の深さは8キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は7.2と推定される。この地震で6人が死亡、155人が重軽傷。宮城県内で計11人が行方不明になっているとの情報があり、懸命の捜索・救助活動が続いている。山間部で土砂崩れが多発し、道路が寸断されて孤立する集落も相次いだ。ヘリコプターなどで救出された住民もいるが、孤立集落に取り残されている住民も多く、不安な一夜を過ごしている。


気象庁はこの地震を「平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震」と命名。岩手県と宮城県はそれぞれ、一関市と栗原市に災害救助法の適用を決めた。

 各県や県警などによると、胆沢(いさわ)ダム(岩手県奥州市胆沢区)工事現場で、作業をしていた千葉正彦さん(48)=同県滝沢村=が顔面に落石の直撃を受けて死亡した。宮城県栗原市花山本沢熊倉の国道398号では、門脇特殊工業(山形県鮭川村)の作業員3人が生き埋めとなり、五十嵐正巳さん(54)と門脇義富さん(53)=いずれも鮭川村=が救助されたが、死亡が確認された。残る作業員1人は行方不明となっている。

 栗原市花山本沢岳山(だけざん=湯浜地区)の土砂崩れ現場でも車両3台が埋まり、うち2台から3人を救出したが、1人は死亡していた。2人は病院へ運ばれた。残る1台は白い軽トラックとみられるが、救助が困難だという。

 栗原市栗駒沼倉耕英東の旅館「駒の湯温泉」では7人が行方不明で、生き埋めとなっている可能性が高い。市災害対策本部によるとうち2人は、地域づくりプランナーとして知られる麦屋弥生さん(48)=東京都葛飾区=と、地方鉄道の保存活動で知られる鉄道博物館学芸員、岸由一郎さん(35)=東京都北区=の可能性が高いという。他にも同市内で、「橋から2人が落下した」「釣りに行った家族が帰ってこない」という計3人の行方不明情報があり確認を進めている。

 がけ崩れなどのために孤立したのは、岩手県一関市と宮城県栗原市を中心に少なくとも6集落644人。一部はヘリなどで救助されたが、日没で救助が続けられず、全員の救出には至っていない。

 重軽傷者は14日午後10時現在、▽宮城112人▽岩手29人▽秋田13人▽山形1人−−の計155人。宮城県で196人、岩手県で72人、秋田県で3人が避難している。

 建物被害は岩手県で5棟が全壊するなど、岩手、宮城両県で105棟が損壊。がけ崩れは多数に上り、確認を急いでいる。

 流れ込んだ土砂が川を遮断する「せき止め湖」が、宮城、岩手両県内7カ所で確認された。雨で増水すると決壊の恐れもあるため、国土交通省と両県は15日から本格的な調査を始める予定で、無人ショベルなど機材の準備を進めている。

 岩手県奥州市の石淵ダムでは、えん堤最上部に亀裂などが生じ、のり面の一部も崩壊。異常がないか確認するため、午後2時半から放流を始めた。秋田県湯沢市の県営皆瀬ダムでも、えん堤の上部に亀裂が生じたが、決壊の恐れはないという。

2008/06/13(金) <秋葉原殺傷>歩行者天国の中止 都公安委が決定
東京都公安委員会は13日、日曜・祝日に実施してきた東京・秋葉原の歩行者天国を15日から当面中止することを決めた。地元の千代田区や町会、商店街の意向を踏まえた措置で、中止は73年6月の開始以来初めて。


当面中止となったのは、中央通りの須田町交差点から外神田5丁目交差点までの約800メートルの区間。

 千代田区や町会などは9日以降、歩行者天国の存続の是非について協議。「あり方や安全対策を再度検討すべきだ」「当面自粛した方がいい」という声が相次いでいた。このため区は12日、当面の中止を求める要望書を警視庁万世橋署を通じて都公安委員会に提出していた。

 再開時期について、区は「早くても7月下旬以降になるだろう」と話している。

2008/06/12(木) 点滴死 タオル使い回し ずさん衛生管理 谷本整形
三重県伊賀市の「谷本整形」で点滴を受けた患者が異常を訴え、73歳女性が死亡した問題で、谷本広道院長が12日、診療所で報道陣の取材に応じ、点滴薬剤の作り置きについて「以前はたくさんやっていた」と述べた。一方、県の立ち入り調査などで、院内感染対策の指針がなく、作り置きした薬剤を事務机に置いたり、看護師がタオルを使い回しするなど、ずさんな衛生管理が明らかになった。

 院長が問題発覚後に取材に応じたのは2回目。県警の家宅捜索終了直後に玄関に姿を現し、「野戦病院のような診療所で、多い時は(1日)350人の患者を診ている。院内感染の発生率も高いと思う」と語った。

 「昨年と一昨年に(今回と同じような被害が出た事案が)2件あった」と明かし、「(看護師にはその後)そういうことをするなと言ったが、徹底されていなかった」と述べた。「反省しなければならないところが細部にわたっていろいろある」としたが、「私は早朝から深夜まで休みなく働いている。命をかけてやっている」と涙ぐむ場面もあった。

 一方、立ち入り調査などによると、診療所では毎朝、10〜30人分の点滴薬剤を作製。鎮痛剤の点滴の調合作業は待合ロビーの奥の「中待合」の作業台と隣接する点滴室の2カ所で行い、調合後は点滴室の事務机の上で薬剤納品用の紙箱に入れて保管。医療機関では手洗い後は紙タオルや使い捨ての滅菌布を使うのが普通だが、布製タオルを掛けて看護師が共有使用していた。

 県の担当職員は「感染症への認識が薄いという印象を持った」と話した。

2008/06/11(水) 水野晴郎さん死去「シベ超最終作」製作予定だった
「いやぁ、映画って本当にいいもんですね」の名文句で親しまれた映画評論家の水野晴郎(みずの・はるお)さんが10日午後3時5分、肝不全のため都内の病院で亡くなった。76歳だった。葬儀は近親者による密葬で執り行われる。

 関係者によると、水野さんは今年に入って、持病の肝臓の調子が思わしくないため、都内の病院で入退院を繰り返していた。

 映画評論家の木村奈保子さんは、「5日前にお見舞いにうかがったときは『背中が痛い』とおっしゃっていた。でもお年の割に頭の回転が速く、クリアで映画の話で盛り上がりました。私がジャッキー・チェンの新作の話をすると『ジェット・リーとの戦いが見たい』とうれしそうに話してらしたのに…」と話した。

 水野さんは骨が弱く、4年前と昨年6月に背骨を骨折。さらに昨年末に自宅で転んで肋骨を折った。今年3月13日に都内で行われた、日本映画批評家大賞の授賞式に出席したのが公に姿を現した最後だった。この時は松葉杖をつき壇上に上がれず、いすに座ったままあいさつを行っていた。

 映画評論家の渡部保子さんは授賞式での水野さんについて、「体調が思わしくなく『病院から直行してきたよ』と力なく話していた。式が始まるまでずっと部屋で横になっていた。自宅で転んだ骨折のダメージがかなり大きかったようで、見ていてつらかった」と話した。

 1931年、岡山県高梁市生まれ。幼少時は中国東北部(旧満州)で過ごした。両親を亡くしたが戦後は郵便局職員として兄弟を支えた。アメリカ映画から民主主義を学んだことで映画に夢中になり、56年、24歳で20世紀フォックスに勤務。5年後に日本ユナイト映画の宣伝総支配人となった。

 ノルマンディー上陸作戦を描いたハリウッド大作「ザ・ロンゲスト・デイ」を「史上最大の作戦」と名付けるなど邦題で大ヒットさせるアイデアマンだった。72年から日本テレビ系映画番組「水曜ロードショー」「金曜ロードショー」の解説者となり、97年3月まで担当。日本アカデミー賞、ゴールデン・グロス賞の発案者として知られ、特に日本映画批評家大賞は批評家が選ぶ賞として、水野さんが中心となって91年にスタートした。

 また、96年には主役の山下奉文陸軍大将を自ら演じた「シベリア超特急」を「MIKE MIZUNO」名義で監督した。

 棒立ち、棒読み−の素人風の演技が、かえって北野武監督やイラストレーターのみうらじゅん氏らに絶賛され、サブカルチャー界から人気が拡大。“シベ超”の愛称でファンを生み、映画と舞台でシリーズ化された。昨年には最終作の製作が予定されていたが延期となっていた。

 83年当時の新自由クラブから参院選に出馬したが落選した。内外の警察事情に精通し、『世界の警察』などの著書がある。

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