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2008/06/17(火)
連続幼女誘拐殺人事件から20年、宮崎勤死刑囚の死刑執行
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東京と埼玉で幼女4人が殺害された「連続幼女誘拐殺人事件」の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が17日、東京拘置所で執行された。猟奇的な手口、挑発的な犯行声明文や遺骨を送り付けるなど社会に衝撃を与えた事件から20年。「オタク」の象徴とされた男は公判で不可解な言動を繰り返し、最後まで謝罪や反省の言葉はなかった。
日本中を震撼(しんかん)させた事件の主人公は、悔いる言葉を残すことなく人生の幕を閉じた。
宮崎死刑囚は1988年8月から89年6月までの約10か月間で、埼玉と東京で当時4〜7歳の幼女4人をわいせつ目的で相次いで誘拐、殺害したとして06年2月に最高裁で死刑が確定していた。
犯罪史に残る猟奇的な事件だった。犠牲者宅に遺骨入りの段ボール箱を送り付けたり、「今田勇子」の名で犯行声明を犠牲者宅や新聞社に郵送した。完全犯罪への自信を見せる挑発的行動の一方で、幼女を殺害後にわいせつ行為をして遺体をビデオカメラで撮影、遺体の一部を食べるなどの異常行動もしていた。
89年7月に逮捕後、宮崎死刑囚の自宅からは約6000点のビデオテープや漫画本が押収され、その中には残忍なホラービデオなどに加え、殺害後の遺体を撮影したビデオも発見された。
引きこもりがちだったという宮崎死刑囚の怪しげな暮らしぶりは、アニメ収集仲間らが互いに呼び合う言葉から生まれた「オタク」が広まるきっかけとなった。
公判でも宮崎死刑囚は独特の世界観を広げていった。90年3月の初公判で「覚めない夢の中でやったような感じ」と淡々と殺意を否認。殺害の状況を「女の子が泣き出すと、ネズミ人間が出てきて、気が付くと女の子が倒れていた」など意味不明な証言が続いた。
裁判は善悪を判断する刑事責任能力の有無が最大の争点となった。犯行時の精神状態をめぐって長期化したが、1、2審ともに宮崎死刑囚の責任能力を認め、最高裁も上告を棄却、死刑が確定していた。
不可解な言動は法廷外でも繰り返された。06年1月の最高裁判決の直前には「(事件は)良いことをしたと思います」と記した手紙を共同通信に寄せるなど被害者感情を逆なでした。最高裁判決当日、面会した臨床心理士から判決を伝えられると「そのうち無罪になる」とも答え、約1か月後に出版した著書では最高裁判決を「『あほか』と思います」と批判したという。
一方で、その後に月刊誌「創」編集長にあてた手紙は「絞首刑は恐怖で残虐。薬を使った執行でなければいけない」と死刑を強く意識した内容で、「刑執行の恐怖と闘わねばならず、反省のことなど考えなくなる」と薬物での安楽死刑を勧める“持論”を展開した。
本人の依頼で再審請求していたが、結局「心の闇」は解明されないまま、45年の生涯を終えた。
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