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2007/06/28(木) <訃報>宮沢元首相が死去 「55年体制」の幕引き役
「保守リベラリスト」として知られた自民党元衆院議員、宮沢喜一(みやざわ・きいち)元首相が28日午後1時16分、老衰のため東京の自宅で死去した。87歳。通夜・密葬は近親者のみで行い、告別式は内閣・自民党葬などが検討されている。自宅は東京都渋谷区神宮前6の34の1。喪主は妻庸子(ようこ)さん。
 1919年10月、東京生まれ。東京帝大法学部卒業後大蔵省(現財務省)に入省し、池田勇人蔵相(当時)の秘書官に起用され頭角を現した。一貫して保守リベラルの道を歩む一方、経済政策では積極財政路線を取り、高度経済成長の流れを作った。53年4月、衆院議員だった父裕氏の地元・広島から参院議員に初当選。67年に衆院旧広島3区にくら替えし当選12回。
 初入閣は62年、第2次池田再改造内閣の経済企画庁長官。通産相、外相、官房長官、党総務会長などを歴任し86年9月、池田派に連なる「宏池会」を継承、故竹下登元首相、故安倍晋太郎元外相らとともにニューリーダーと呼ばれた。ただ竹下内閣時代の88年12月、リクルートコスモス未公開株取得に関する問題で副総理・蔵相を辞任した。
 91年に首相に就任、1年8カ月間政権を担当した。しかしバブル崩壊後の景気低迷で困難な政権運営を余儀なくされ、金丸信元自民党副総裁の脱税事件に見舞われるなどスキャンダルにも悩まされた。結局、最大テーマだった政治改革の法案取りまとめに失敗。内閣不信任決議案が自民党内の造反で可決されると衆院解散に打って出たが、衆院選に敗北、退陣し、非自民の連立政権が誕生して「55年体制」の幕引き役となった。
 その後、97年7月に小渕内閣の蔵相として再入閣。不況下の経済運営を託されての就任に、昭和恐慌時、首相退任後に蔵相となった高橋是清と重ね「平成の是清」と言われた。03年10月、世代交代を迫る小泉純一郎前首相の要請で政界引退。テレビなどで言論活動を続けていたが昨年6月、出血性胃かいようのため都内の病院に入院、その後療養を続けていた。

 ▽安倍晋三首相の話 バブル崩壊後の不況という極めて困難な時期に内閣総理大臣の重責を担われ、日本経済の立て直しに尽力された。また、国際平和協力法を成立させ、自衛隊による国連平和維持活動への参加に道を開かれた。優れた指導者の訃報(ふほう)に接し、悲しみの念を禁じえない。

 ◇頑固な大正生まれのリベラリスト
 名刺を渡し型どおりのあいさつをする駆け出し政治記者の私。「岡部仁」の名前に目を落とす宮沢喜一さん。
 「あなた、お生まれは戦後?」
 「はあ、(昭和の)21年ですが……」
 「そうだろうなあ……(独り言のように)そんな『間抜け』はいなかったもんなあ」
 (名前だけで戦後生まれとわかるのか? 間抜け!? 誰のことだ)
 なにやらムッとしたことを、覚えている。
 後に親しくなり聞くと、戦前、皇室に遠慮して名前に「仁」の一字を使わない風潮が広がり、役場に出生届を出す際、職員がチェックして名前の仁の字を避けさせたもので「見落とすような『間抜けな役人』は珍しかったはず」という意味だと分かるのだが……。
 自民党が輩出した総理総裁の中で「知性派ナンバーワン」と自他ともに認めた宮沢喜一さんが亡くなって思い出したのが30年前の初対面のこんなエピソードだった。
 政治家には珍しい合理主義者、と言われ続けてきたが、当時は褒め言葉ではない。理詰めの言動や対人折衝に冷たさを感じさせる宮沢さんには心底ほれてくれる子分はいないと評された。
 80年、鈴木内閣発足で官房長官に就任。人脈を広げる夜のつき合いを増やすのかと期待されたが、夕方、公務が終わると姿を消す日が続く。ひそかに仏語の個人教授に通っていたのだ。堪能な英語に加えて仏語もという向学心に驚くのと、それを宣伝しないシャイさ、さらには夜は個人の時間という割り切りこそが宮沢さんの良くも悪くも真骨頂であった。
 首相の座に就いて中曽根康弘元首相ばりのパフォーマンスを求められると、「経済大国となった日本は巨大タンカーで、みんなが協力して動かすもの。船長はブリッジで指揮を執るので、外に出てくるものではない」と首をタテに振らない。頑固な大正生まれのリベラリストであった。
 しかし、首相のリーダーシップは自民党内外の人脈、パイプの太さと、パフォーマンスや実績から来る人気、世論の支持の高さの二本足で支えられるもの。両足が頼りない政権では、政局運営は思うに任せない。最後は政治改革を求める世論と、これに抵抗する自民党内の板ばさみとなり、自民分裂、解散・総選挙に追い込まれて敗北、退陣する。政策には明るいが政局音痴との定評は最後まで覆せなかった。
 小泉前政権時には、イラクへの自衛隊派遣、憲法改正、さらには首相の靖国神社参拝と中国、韓国の反発などアジア外交のつまずきに強い懸念を持ちつづけた。ハト派・リベラル保守の立場から右傾化とみられる潮流に警鐘を鳴らした。宮沢、小泉純一郎両氏をよく知る田中秀征元経企庁長官が2人を対比して「判断力はすごいが決断力は乏しい宮沢さん」「決断力はすごいが判断力はない小泉さん」と評したことがある。その宮沢さんは小泉靖国参拝について「わがままでしかない。おやめなさい」と珍しく強い口調で言い切ったが、小泉氏の決断は変わらなかった。代わった安倍晋三首相も小泉政治を引き継ぐポピュリズム・タカ派路線と見ていて、リベラル穏健な自民党政治が変質しつつある、という憂慮を最後まで持ち続けていたようだった。


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