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2006/02/10(金) 藤田元司巨人元監督、74歳で死去
ONを支え、常勝巨人の伝統を守り続けた名将が逝った。元巨人監督で、OB会会長も務めた藤田元司氏が9日午後6時40分、心不全のため都内の病院で死去した。享年74歳。通算119勝を挙げ、エースとして巨人を支えた藤田氏は、監督としても長嶋、王の後を受けて2度の「登板」を果たした。4度のリーグ優勝、2度の日本一に輝き、江川、西本の両エース、桑田、槙原、斎藤の3本柱など投手王国を築いた。96年に野球殿堂入り。正力賞、沢村賞選考委員も務めた。昨年12月、巨人OB総会で姿を見せたのが公の場では最後となった。昨年12月の仰木氏に続き、球界はまたも悲報につつまれた。葬儀・告別式は未定。
 巨人の危機を救い続けた名将が、静かに息を引き取った。午後9時20分、遺体を乗せた車が都内の自宅に戻る。同乗していた妻節子さん(70)と娘婿の岩井美樹・国際武道大監督が気丈に応対した。節子さんは「前から何となく分かってたから覚悟はできていたんですけど。心不全でしょう。内臓が全部弱っていたんで。今日は午前中は普通に話をしていたんですが…」。昨年12月22日に人工透析中に目まいがして入院。胆石も患い、容体がこの日急変した。巨人激動の歴史とともに歩んできた藤田氏の野球人生は幕を下ろした。
 社会人でも巨人でも、エースとしてマウンドを死守した。そして最初の監督就任は80年秋だった。
 列島激震となった「長嶋解任劇」を受けて緊急登板。巨人の使命である「常勝」の2文字を背負い、就任1年目の81年、西本、江川の両エースを軸に、打線も新人原を起用して、リーグ制覇、日本一を果たした。見事な手腕でチームを再建した。
 2度目の「登板」も巨人が危機的状況に陥っている時だった。88年9月29日。V逸の責任を取る形で解任された王監督(現ソフトバンク監督)と同席で就任会見を行った。「ワンちゃんが疲れたというので、いったんリフレッシュしてもらうことに」。
 当時、心臓に持病を抱え、いつ発作がおきてもおかしくないほど体調がすぐれなかった。最初の監督時代の81年7月1日の阪神戦(甲子園)で体調不良を訴え、王助監督(当時)が代行を務めた。そのころから、薬のニトログリセリンを携帯するようになっていた。岩井氏によれば「2回目の監督を受ける時に医者に『死にますよ』と言われたらしい。そういう時代じゃないですか。自分の命をね。ジャイアンツに世話になったからって」。節子さんも「2度目の監督をやった時、相当体を痛めてますから」と振り返った。
 それでも指揮を執り、89年リーグV。日本シリーズの相手は、昨年12月に逝去した仰木彬監督率いる近鉄。これも何かの因縁だろうか…。球界は名将を相次いで失った。
 92年秋、長嶋監督にバトンを譲り、その後は球界発展に尽力していた。96年に野球殿堂入り。何度も体調不良が伝えられたが、人工透析などを行い、昨秋は沢村賞、正力賞の選考委員として姿を見せていた。
 先日、原監督からも連絡が入っていた。だが入院中だった藤田氏との面会はかなわなかった。岩井氏によれば「辰徳が(監督を)やれば大丈夫だろうと言ってました。辰徳から“あいさつしたい”とキャンプに行く前に連絡があったんですが。だから野球界では一番先に第一報を入れました」。57年、巨人のユニホームに袖を通して半世紀。巨人に命をささげた名将が惜しまれながら、逝った。

■原監督悲痛 「恩師以上の恩人」 ずっと見守っていて欲しかった


奪回に向け、厳しいキャンプを送っている原監督のもとへ、突然の悲報が舞い込んだ。恩師の藤田元監督が死去。第一報を伝え聞いた指揮官は、号泣したという。その後、球団広報を通じてコメントを寄せた。

 「なんとコメントしていいか分からず、戸惑っています。容体が悪いことは聞いていました。それでも心の奥底で『藤田監督が亡くなるわけないだろう。オレをずっと見守ってくれる人なんだ』というお願いに近い妄想を抱いていました。だから今になっても信じられない気持ちです。私にとって恩師という言葉以上の恩人であり、かけがえのない人でした。今、こうしてあるのも藤田監督あってのことです。しっかりしたコメントを残さなければいけないのでしょうが、今はこれだけ話すのが精いっぱいです」

 藤田監督がいなければ「巨人・原辰徳」は誕生しなかった。子供のころから大好きだったジャイアンツに、自分を引き入れてくれたのが藤田さんだった。1980年11月26日、運命のドラフト会議。東海大の原辰徳に4球団が競合、クジ引きとなったが、藤田監督(当時)の右手が原を引き当てた。

 その時、熱っぽく藤田監督に語られたという。「朝起きて風呂に入って爪を切った。爪を切っていたがために、違う紙(外れクジ)を取らずに違うものを取った。それがお前だったんだ」

 巨人入団後は、延べ7年間にわたって監督と4番打者として師弟関係を築き、その後も公私にわたって人生の「師」と仰いできた。

 昨年12月4日に行われた巨人軍OB総会では、体調が悪いにもかかわらず、わざわざ原監督を激励に訪れた。「(原は)いい時も悪い時も心得ているから大丈夫」とエールを送った。帰り際には、原監督がつえをつき歩く藤田さんの傍らに付き添い、車に乗り込んだ後も、頭を深々と下げて見送った。

 原監督は10日午前に宮崎を離れ、桑田ともに藤田さんの弔問に駆けつけ霊前にV奪回を誓った。


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