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2006/01/11(水) 実写化の夢実現!「ちびまる子ちゃん」がドラマになる
フジテレビ系で放送中の人気長寿アニメ「ちびまる子ちゃん」(日曜後6・0)が初めて実写版のドラマになることが11日、分かった。
 〔写真:まるちゃんに決まった森迫永依(左)と親友・たまちゃんを演じる美山加恋。2人ともアニメにそっくりだ〕

 2年前、昨年1月のテレビ放送15周年を目指しドラマ化の企画が持ち上がったが、まる子のイメージにあう子役が見つからず一度は断念。だが、あきらめきれない制作サイドが昨年末に再度オーディションを行ったところ、500人を超える天才子役集団の中に、“ダイヤモンド”を発見した。

 まる子役を射止めたのは、原作者のさくらももこさんが以前目にした住友生命のCMで「まる子にいいなぁ」と思っていたという森迫永依=もりさこ・えい=(8つ)。「まる子に決まってうれしい。まる子になりきってやろうと思います」と大はりきりの森迫に、浅野澄美プロデューサーは「森迫さんは見た目はもちろん、子どもらしさと大人と対等に会話できる能力が同居している。原作のキャラクターを自然に演じることができる」と太鼓判を押した。4月に2時間スペシャルとして放送予定。

2006/01/10(火) フジ内田恭子アナ結婚、吉本興業入りも
“ウッチー”の愛称で知られる、フジテレビ内田恭子アナウンサー(29)が10日、吉本興業の社員、木本公敏さん(きもと・きみとし、32)と婚約したと発表した。2人は03年春から交際を始め、昨年12月に双方の両親と会い、婚約。吉本の吉野伊佐男社長にあいさつし、この日、フジにも報告したという。内田アナは3月末に同局を退社。その後はフリーで活動予定だが、吉本入りの可能性が高い。結婚の日取りなどは未定。
 内田アナはこの日、幸せそうな表情を浮かべてフジテレビに結婚を報告した。マスコミ各社に流した婚約発表ファクスには「彼の愛情深く、穏やかで、大きな心にひかれ、ずっと温かい気持ちで一緒にいられると思い、結婚を決意しました」とつづった。夜には情報番組「すぽると! 」にいつも通り生出演したが、結婚には触れなかった。
 人気絶頂の看板アナのハートを射止めたのは、03年春から交際していた吉本興業の東京制作部マネジメントセクションのチーフマネジャー、木本さん。フジによると、昨年9月に木本さんが内田アナにプロポーズ。12月に双方の両親とともに結納したという。
 木本さんは、関西の有名私大を卒業後の96年に入社。入社当初は「東幹久似」と評判で、最近も「速水もこみちに似ている」と言われるほどのイケメン・サラリーマンだ。タレントとカラオケに行くと「ホストと間違われた」という逸話もある。社内ではまじめで誠実な人柄でも知られる。マネジャー業は激務だが、あるタレントは「いつ会っても笑顔。疲れてる顔を絶対に見せない」と指摘した。
 97年に東京に転勤し、ダウンタウンらを担当。敏腕と評価され、現在はチーフに就任している。大ヒットドラマを映画化した「明日があるさ THE MOVIE」(02年公開)ではアソシエート・プロデューサーも務め、成功させた。
 交際のきっかけは、00年4月に始まったフジのトーク番組「ジャンクSPORTS」(日曜午後7時58分)。内田アナが司会を務め、木本さんが担当する浜田雅功が出演した。最初は木本さんが「かわいい」と一目ぼれしたという。03年春に真剣交際に発展。2人に近い関係者によると、内田アナは仕事と結婚に揺れていたが、木本さんがねばり強くアプローチし続け、最後は内田アナもその誠意を受け止めたという。内田アナの仕事仲間は「いつも彼が飼ってる犬がかわいいって言ってたから、近くの公園とかでデートしてたのでは」とほのぼのとした交際ぶりを明かした。
 内田アナは3月末に退社し、その後はフリーで活動する予定だが、吉本に所属する公算が高いとみられる。フジはレギュラー4番組について「4月以降も続けてもらう番組もある」とし、継続の調整に入った。
 結婚の日取りや新居などは未定で、今後2人で相談して決める方針。またフジは妊娠を否定している。

2006/01/09(月) キム兄&えみり“夫婦漫才”結婚会見
お笑い芸人木村祐一(42)とタレント辺見えみり(29)が9日、都内で2人そろって会見し、この日、都内の区役所に婚姻届を提出したことを報告した。2人によると、昨年10月に交際スタート。11月下旬に木村がプロポーズし、えみりが即答。8日から同居し始めた。外見は美女と野獣だが、まるで夫婦漫才のように息はピッタリ。「新婚さんいらっしゃい! 」への出演プランもあるという。4月に親族らを集め挙式し、その後、芸人仲間らと披露宴を開く予定。
 「(プロポーズは)僕と一緒に結婚してくれませんか」「はい、私も同時に言ったような形です」「5回目のデートです」「え〜っ、うっそ〜」。意外性120%カップルの結婚会見は、夫婦漫才のノリで行われた。
 2人が知り合ったのは約6年前。吉本興業の複数の芸人がいた食事会に、共通の知人の紹介でえみりも出席した。当時は交際に発展しなかったが、昨年10月に日本テレビ系「ダウンタウンDX」で共演し、すぐに親密交際に発展。11月下旬には「0・93カラットの世界で1つしかないダイヤの指輪」(木村)を贈ったという。
 木村は2度の離婚歴があるが、えみりは「全然気にならない」。その魅力について「すごく大切にしてくれるところ。とにかく大きい」と表現した。また父親の西郷輝彦と比べて「彼(木村)の方が格好いい。(顔に)心が出る。外見は借りものですから」とのろけた。えみりは両親の離婚経験から、男性と交際はしてもなかなか結婚に踏み切れなかった。13歳年上の木村の包容力が、そんな慎重な心をとかした形だ。
 この日の漫才会見が物語るように、相性も交際約3カ月のスピード婚の決め手だったようだ。吉本興業の社員も「(えみりは)芸人仲間のパーティーに入っても全く違和感がない」と指摘した。
 そんな2人だけに、桂三枝司会の名物番組「新婚さんいらっしゃい! 」(テレビ朝日系)に出演することも考えている。木村は「出るんやったら、絶対(おもしろトークでイスから落ちる三枝より)先にこけたる」と宣言している。
 えみりは妊娠していない。2月3日から舞台「夫婦犯罪」(12日まで、本多劇場)に出演するため、挙式は4月に親族らを集めて行う予定。同舞台後もドラマ出演の予定がある。

2006/01/08(日) 仙台の乳児誘拐、夫婦と知人の3人を逮捕
仙台市宮城野区東仙台6、光ヶ丘スペルマン病院(志村早苗院長)で6日、同区、会社員山田斉(ひとし)さん(27)の長男柊羽(しゅう)ちゃんが男に連れ去られた事件で、仙台東署捜査本部は8日午前6時、同区内で、生後13日の柊羽ちゃんを50時間ぶりに無事保護した。

 捜査本部は、6150万円を志村院長に要求する脅迫文が見つかったことから、身代金目的の誘拐事件と判断。現金の受け渡し場所や移動を指示する電話の逆探知などから浮上した、宮城県七ヶ浜町、衣料品販売業根本信安(54)、フィリピン国籍の妻ネモト・カルメンシータ・プラデハス(35)、知人の仙台市宮城野区、会社員佐藤和美(かずよし)(32)の3容疑者を身代金目的誘拐容疑で逮捕した。

 8日午前5時38分、「国立病院裏の廃虚に赤ちゃんを解放した」と、根本容疑者からスペルマン病院に電話があった。病院から通報を受けた捜査本部が、仙台市宮城野区の国立病院機構仙台医療センターの倉庫を調べたところ、廊下の台車の上で、白の産着姿の柊羽ちゃんが見つかった。母親の弓美さん(23)が、顔のほくろや、連れ去られた時と同じ産着などから柊羽ちゃんと確認した。

 調べによると、根本容疑者らは6日午前3時半ごろ、スペルマン病院の産婦人・小児科病棟に侵入、病室で弓美さんの隣で寝ていた柊羽ちゃんを連れ去り、志村院長に身代金の支払いを要求した疑い。柊羽ちゃんを連れ出したのは根本容疑者だった。3容疑者はいずれも大筋で容疑を認めているという。根本容疑者は数千万円の借金を抱えているとみられ、捜査本部は、金目当ての可能性もあると見て動機を追及する。

 捜査本部は、根本容疑者が7日午後4時22分から8日午前1時6分までに、志村院長の携帯電話などにかけた計5回の電話を逆探知。1回目は仙台市から約25キロ離れた同県大河原町内の公衆電話ボックスからの発信で、多賀城市、仙台市宮城野区などへと移動するうち、根本容疑者らの乗る車を割り出した。一連の犯行には3台の車を使ったという。8日、3人に任意同行を求め、仙台東署などで事情聴取していた。

 事件は、7日午前2時40分ごろ、病院から約700メートル離れた朝日新聞販売店のガラス戸に、身代金を要求する志村院長あての脅迫文が入った封筒が張られているのが見つかり、誘拐事件に発展した。脅迫文を張ったのは根本容疑者だったという。

 脅迫文には〈1〉6150万円を用意しろ〈2〉現金をバッグに入れて石巻駅で連絡を待て〈3〉取引が終われば柊羽ちゃんを返す――などの指示が書かれていた。

 志村院長は指示通りに、現金を持ってJR仙石線の電車で仙台駅から石巻駅へ行き、さらにタクシーで三陸自動車道を仙台方面に戻るなどした。しかし、根本容疑者らは現金の受け取りに現れず、電話連絡も途絶えたことから、捜査本部は8日午前3時にいったん接触を断念し、志村院長を病院に帰した。

 ◆容疑者宅を捜索◆

 宮城県七ヶ浜町の根本信安容疑者宅では9日午前0時25分から、捜査本部による捜索が始まった。仙台市宮城野区の佐藤容疑者宅の捜索も行われ、捜査員が段ボール箱を抱えて次々と家に入った。

 ◆両親「うれしい。感謝の気持ちでいっぱいです」◆

 柊羽ちゃんの両親は「このたびは皆様方に大変ご心配をおかけいたしました。柊羽が無事に帰ってくることができ、とてもうれしく思っております。今は皆様のお気遣いに対する感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました」とのコメントを出した。

2006/01/07(土) <JR下関駅放火>駅舎など焼失し、鎮火 全線運転見合わせ
7日午前2時6分ごろ、山口県下関市竹崎町4のJR下関駅(角田譲治駅長)と南隣にある乗務員センターを結ぶ2階渡り廊下付近から煙が出ていると、JR職員から119番があった。火は強風にあおられて駅舎に燃え移り激しく炎上。木造平屋建て駅舎の東側部分と鉄筋4階建ての乗務員センター、隣接する飲食店と倉庫の延べ1万1400平方メートルのうち駅舎東側部分を含む約4046平方メートルを焼き約3時間後に鎮火した。駅構内と乗務員センターに宿直の職員ら36人がいたが、けがはなかった。

県警下関署は同日、住所不定、無職福田九右衛門容疑者(74)を現住建造物等放火容疑で逮捕した。

 調べに対し、福田容疑者は「空腹でむしゃくしゃし、うっぷんを晴らすためにやった。倉庫付近で、ライターで紙に火をつけた」と供述している。

 同署によると、福田容疑者は6日午後11時40分ごろ、駅構内を巡回中の署員に職務質問を受けていた。火災後、駅付近を捜索中の署員が駅から約350メートル離れた駐車場で再び福田容疑者を見つけ、事情を聞いたところ、容疑を認めた。発見時、小銭とライターを所持していた。

 JR西日本によると線路や架線の損傷はなく、電気や信号系統への影響はなかったが、駅間連絡などに使う電話線がある配線室が焼失。即時に運行を再開できる状態ではないという。
 また、架線への送電を止めた影響で山陽線の小月―門司駅間と山陰線の長門市―下関駅間で始発から運転を見合わせた。火災当時、運行中だった下りの寝台列車「あかつき・なは」が手前の厚狭(あさ)駅で、「はやぶさ・富士」は徳山駅で運転を取りやめ、乗客計約300人を山陽新幹線などに振り替えた。
 下関地方気象台によると出火当時は風雪注意報が出ており、午前2時には約7.2メートルの風が吹いていた。空気は乾燥した状態だったという。
 下関駅は1901年開業。現在の駅舎は関門トンネルが開通した42年に建てられ、現存する三角屋根の駅舎としては唯一の駅舎だった。

2006/01/06(金) 石井弘 法的手段辞さず
今オフのポスティング・システム(入札制度)による大リーグ移籍を熱望するヤクルトの石井弘寿投手(28)が6日、制度適用が認められない場合、法的手段に訴えることを検討していることを明らかにした。同投手は昨年1月の契約更改交渉時に05年の成績次第では球団側が移籍を容認するとの確約があった点を強調。契約不履行による民事訴訟や制度適用の仮処分申請も選択肢に入れている。

 目には悔し涙があふれていた。神宮クラブハウスで行われた会見で石井は「どうしても(移籍容認の約束を)守ってくれないことが理解できなかった。約束は本当に無意味だったのか…悔しいし、悲しい。(代理人の)水戸(重之)先生に相談して法的手段を取ることを検討することになりました」と話した。

 昨年1月の契約更改時に多菊善和球団社長、大木勝年運営部長と石井の3人で交渉し、多菊社長退席後に当時の石井の代理人だった貝塚慶一弁護士が同席。大木部長から「移籍を容認する条件はシーズンにわたってフル稼働すること。優勝、タイトル獲得は条件ではない」との条件が示され、双方がメモを残した。

 石井は昨季61試合に登板し、自己最多の37セーブ、防御率1・95の好成績を挙げた。石井は昨年夏にも多菊社長から移籍容認の方針を伝えられたが、同社長は古田新監督が就任すると態度を一変させた。これまで3度の交渉を行ったが、主張は平行線。石井は「わがままを言ってるわけじゃない。僕だって契約社会の人間。約束を認めてもらう」と悩んだ末に決断に至った。

 代理人の水戸弁護士は「口頭で合意した契約で法的効力はある。球団は約束を果たす義務がある」と主張。具体的な法的手段については「いろいろな手続きがある」と語るにとどまったが、関係者によると制度適用を求める仮処分申請や契約不履行による民事訴訟などが検討されている。選手個人と球団間の対立が法廷に持ち込まれるのは過去に例がない。それだけでなく石井は、労組選手会にも救済を求める方針も明かした。

 石井の主張を伝えられた多菊社長は「そんなことはあり得ない」と一蹴。法的手段に関しても「そんな方法はあるのか?」と話しただけ。今後は石井側から連絡を受け次第、対応策を検討する。

 「長引いて険悪になってるけどしようがない」と石井。あす8日から20日まで沖縄で自主トレを行うため本人と球団側が交渉する時間は限られる。入札の期限は3月1日まで。容認の方針が打ち出されない以上、2月の春季キャンプは自費で参加する予定だが、仮に法廷闘争に発展した場合、石井が今季ヤクルトでプレーするかどうかも流動的な情勢だ。

 ≪元代理人の弁護士「確約だった」≫昨年途中まで3年間、石井の代理人を務めた貝塚慶一弁護士が、東京・西新橋の事務所で昨年1月の契約更改交渉の経緯を説明。合意文書を残さなかったのは「球団を信頼してたから」とし「結果を残したらもう1度話し合いの場を持つという話ではなく確約だった」と話した。また監督交代で事情が変わったとの球団側の主張も「去年から監督が代わるのは予想されていた。その事情変更でポスティングを認めないということは、法的にあり得ない」と一蹴した。

 ≪古田監督「もちろん残ってほしい」≫古田監督は故郷の兵庫県川西市で毎年恒例のチャリティーゴルフコンペに出席。石井が法的手段も辞さないと表明したことについて「契約というものは真剣に考えなくてはいけない。はっきりしていいじゃないですか。すっきりした形でやってほしいし、それが一番いい方法だと思うなら致し方ない」と話した。ただ、監督の立場としては「もちろん残ってほしい」という方針は変わらず、近日中にも本人と電話会談する意向を示した。

 ≪石井 WBCの出場「微妙な状態」≫石井は、選ばれているWBCの出場について「微妙な状態」と説明した。今回の問題が長引けば影響が出るのは必至で「どうなるか分からないので現時点では何とも言えない」。ただ、3月のWBCを見据えて埼玉・戸田のグラウンドで元日から始動。すでにキャッチボールも行っており「悔いの残らないように調整したい」と、出場を前提に自主トレを続ける考えを示していた。

2006/01/05(木) 江藤が西武移籍 FA豊田の人的補償
西武からFA宣言し、昨年11月に巨人入りした豊田清投手(34)に対する人的補償として、巨人・江藤智内野手(35)の西武移籍が5日、両球団から発表された。江藤は「気持ちの整理がつかない」と会見はしなかったが「巨人での6年間はいい思い出ばかり。少しでも長く野球をやりたいので、西武で一生懸命、頑張ります」と新天地での活躍を誓った。西武でも背番号は「33」で、DHか三塁での起用が有力となっている。

 運命のいたずらだった。巨人の新守護神として期待される豊田が自主トレ先のグアムに飛び立ったその日に、交換要員となる人的補償が発表された。1999年オフにFAで広島から移籍、かつてはクリーンアップを任された右の大砲、江藤だった。

 この日午後、都内のホテルで巨人の清武代表から西武行きを告げられた。「気持ちの整理がつかない」と会見には臨まなかったが、移籍を了承。その後、巨人の球団事務所に向かい、職員を前にあいさつした。「泣いちゃうかもしれない」と感極まったが「6年間いい思い出ばかりでした。少しでも長く野球をやりたいので、西武に行って頑張ります」と新天地での活躍を誓った。

 新生・原巨人は清原、ローズらが抜けるなど、スリム化を図っている。ベテランの大砲がリストから外れるのも無理はなかった。清武代表は「戦力として期待していたが、ルールなので仕方がない。FAでの獲得はそれだけ痛みを伴う」と苦渋の決断だったことを明かした。

 西武は当初、人ではなく、金銭による補償を検討していたが、伊東監督の強い希望で江藤獲得を決断した。昨年末の時点で2〜3人に候補を絞り、4日に伊東監督と黒岩代表が話し合い、最終的に江藤に決まった。この日、巨人側に打診して即日合意した。若手の中村が育っているが、フェルナンデスが楽天入りし、DHおよび三塁が不確定。新外国人のリーファーの実力も未知数のため、獲得に踏み切った。

 巨人でのあいさつを終えた江藤は、西武・黒岩代表に電話をかけ「一生懸命、頑張ります」と決意を述べた。伊東監督は「右の大砲として期待している。まだ、老け込む年ではない。今、チームは若いので、彼の経験や功績は若手に対して良い刺激になるだろう。ただ、勝負の世界なので、その中で競争してポジションを取ってほしい」とエールを送った。DHか三塁で起用する方針で、入団発表は後日、行われる予定。

 00年の巨人入団時にはミスターの背番号「33」を継承し、リーグ優勝決定試合では同点満塁弾を放つなど活躍したが、ここ数年は出番が減り、昨年は通算350本塁打にリーチをかけながら、81試合出場で打率1割7分2厘、本塁打ゼロに終わっていた。35歳のベテランは、新天地で再び燦々(さんさん)とした輝きを取り戻す。

 ◆江藤 智(えとう・あきら)1970年4月15日、東京都生まれ。35歳。東京・関東高(現聖徳学園高)から89年ドラフト5位で広島に入団。99年に巨人へFA移籍。95年には本塁打、打点の2冠を獲得。家族は友紀夫人と1男1女。182センチ、95キロ、右投右打。
 ◆人的補償 FA選手と契約した球団が、選手の在籍した旧球団へ選手と金銭を補償するルール。野球協約で定められている。旧球団は契約球団の支配下選手のうち、プロテクトされた28人と外国人を除いた選手名簿から1人を獲得できる。さらに、契約球団はFA選手が最初の権利行使なら前年俸の80%、2度目以降の行使なら40%を旧球団に支払わなくてはならない。

2006/01/04(水) 藍“勝負色”の晴れ着で20歳の誓い
女子プロゴルフ界のスター、宮里藍(20)が4日、生まれ故郷の沖縄県国頭郡東村で成人式を迎えた。同じ1985年(昭60)に生まれた幼友だち30人を代表して謝辞を述べた宮里は、自身の“米ツアー元年”開幕を前に「ゴルフを通して世界に挑戦したい」と宮城茂村長(72)ら村民の前で20歳の誓いを立てた。

 沖縄から世界へ――アジア・ジャパン沖縄オープンで男子ツアー初挑戦など、地元への強い愛着を実際のプレーと言葉で表現してきた宮里は、当然のように生まれ故郷の東村で5年ぶりに再会した幼友だちと成人式を迎えた。

 「成人になったという実感は結構、誕生日(05年6月19日)を迎えてから早めにあったので、どちらかというときょうは地元の友だちに久しぶりに会えたことの方が凄いうれしいです」

 晴れ着の絵柄には勝負色の赤を基調にした「辻(つじ)が花」を選んだ。提供を申し出るスポンサーもあったが、すべてを固辞、米ツアー最終予選会の前に両親と決めたお気に入りの品だった。

 「赤いのは絶対に着たいなあと思っていたので。いろいろ着てみたいですけど、ピンクとかもあったし……でもこれが一番、品があったので決めました」

 そんな宮里はゴルフ人生を左右する“米ツアー元年”を迎え、20歳の誓いを立てた。

 「ゴルファーとしては本当にここから。ゴルフエージといわれる30歳までのこの10年間が大切になってくると思う」「平均ストロークを特に意識していきたい。1年間で平均ストロークを70台から60台に持っていくのは難しいと思うので2〜3年越しに平均ストロークが1打ずつ縮まっていけばいいなあと思ってます」「社会人としては謝辞を書いている時に社会的義務とか、そういうことを考えました。10代とはそこらへんの重みが違う。今まで漠然とはあったんですけど、それが実感としてきょうはありました」「今はこういう(周囲から注目を集める)状況だし、ますます自覚していかなければいけないなあと」

 人口わずか2003人の小さな村の小さな成人式にこの日、40社62人の報道陣が詰め掛けた。「いろいろな分野で東村に生まれてきたことを誇りに思い、日々、努力していきましょう」という宮里のメッセージは全国に発信された。

 ≪宮里と諸見里応援ツアーも登場≫地元・沖縄では、郷土のヒロイン・宮里と諸見里の活躍を後押しするため「米国女子ツアー開幕戦 宮里藍・諸見里しのぶ応援ツアー」と題した海外旅行プランを販売している。

 那覇市に本社を置くリウボウ旅行サービスは、宮里のプロデビュー戦となった03年11月の伊藤園レディース(千葉・グレートアイランドC)でも応援ツアーを企画。その時は地元・東村の後援会関係者ら約30人が参加し、宮里に声援を送った。今回は2月16日にハワイでスタートする米ツアーの今季開幕戦SBSオープンが対象。昨年12月下旬から募集を始めており、後援会関係者だけでなく、一般のファンからも問い合わせが寄せられている。費用は2月15日から6日間が16万5000円、同7日間が17万8000円。募集は今月13日に締め切られる。

 観戦ツアーは大リーグ・ヤンキースの松井やマリナーズのイチロー、欧州サッカーのボルトン・中田やセルティック・中村らの試合でよく企画されているが米女子ゴルフでは珍しい。宮里に対する郷土の人たちの期待の大きさがうかがえる。

 ≪W杯から全英まで海外で参戦≫10日には横峯さくら(20)とともに第2回女子W杯(20〜22日、南アフリカ)の記者発表に出席。15日にW杯出場のため出発する。W杯終了後は帰国せず、そのままオーストラリアに渡って欧州ツアーのANZレディース・マスターズ(2月2〜5日、オーストラリア)に出場。米ツアーには開幕戦のSBSオープン(16〜19日)から参戦。メジャー最終戦の全英女子オープン(8月3〜6日、英国)が終わる夏までは米ツアーに専念する。

2006/01/03(火) 史上最大の逆転!亜大29度目挑戦でついに初V
第82回東京箱根間往復大学駅伝復路(3日、神奈川・箱根町芦ノ湖駐車場入口−大手町、5区間109.9キロ)史上初の大逆転! 往路6位の“ダークホース”亜大が29度目の出場で初の総合優勝を達成した。往路Vの順大や5連覇を狙った駒大など優勝候補が次々とブレーキを起こす中、「雑草軍団」が堅実な走りを続けて悲願の制覇。往路6位からの大逆転優勝は史上初めて。往路、復路ともに優勝のない総合制覇は95年の山梨学院大以来7度目。かつて実業団ニコニコドーでソウル五輪代表の松野明美を育てた知将・岡田正裕監督(60)が就任7年目で母校を頂点に導き、還暦を美酒で祝った。

 緑と青のタスキが、北風を切って大手町に帰ってきた。追う影はない。亜大のアンカー岡田直寛(3年)は両手で高々とガッツポーズ。往路6位からの大逆転は、長い大会の歴史で初めて。往路Vも復路Vもない総合優勝。たくましい「雑草軍団」が歓喜の雄叫びをあげた。岡田監督に選手が群がり、その体が2度、3度…。高く、高く宙に舞った。

 「元日にメンバーを集めて『優勝を狙いにいくぞ』と告げたら、選手たちはビックリしてましたよ。でも、実行してくれた。大学に来て指導者になってよかったです」

 67年に亜大が箱根駅伝に初出場したときのメンバー。それから39年目。還暦を迎えて、母校を初の栄冠に導いた。女子の実業団ニコニコドー監督として松野明美らを育成した実績を残し、99年春に廃部になると、初出場時に指導を受けた築地美孝・現総監督から声がかかった。母校のためならと快諾。熊本の自宅を単身で離れ、東京・日の出町の選手寮に入り、食事も風呂も選手と一緒。寝食をともにした。

 高校時代の実績に乏しい選手たちを、寮から大学まで約30キロの道のりを走って通学させ、夏合宿ではマラソン選手級の月間1100キロを超す走り込み。妥協なく鍛え上げた。

 「女子の指導をして体重管理に神経をつかったことが役立っている。選手と24時間接して、目を光らせてます」

 厳しいばかりではない。玄関脇の6畳一間の部屋から選手の生活に気を配る。「1人1役」を信条に、試合に出られない選手にも計時係や給水係など必ず役割を与えてチームの結束を強めた。木許史博主将(4年)は「監督のためにがんばろうって、みんながひとつになれる」と一体感を強調した。

 往路トップの順大から2分51秒差の6位でスタートすると、6区で7位に落ちたが、順大が急ブレーキを起こした8区で2位に浮上。復路のエース区間を志願した9区の山下拓郎(3年)は公約どおりに区間賞。「お風呂で(身長1メートル47の)松野明美さんの話をしてくれて、おまえも背が低くても強くなれるぞって励ましてくれた」。1メートル60と小柄ながら、駒大を抜く単独トップを演出した。

 初優勝がかかるアンカーの大役が託されたのは岡田直。監督と同じ熊本出身で同じ名字。運命的なものを感じた。走り出す直前、携帯電話に岡田監督から指示がきた。「3番でいいぞ。気楽にいけ」。緊張感が吹っ飛んだ。選手の性格を熟知した、経験豊かな知将の面目躍如だった。

 「還暦を迎えたら熊本に帰らせてもらう約束だったんですけどね。2連覇、3連覇するまで帰さんと言われましたよ」

 11日には地元熊本で友人とゴルフの約束があったが、早速の祝勝会でそれもキャンセルに。60歳の監督には、しばらくうれしい祝宴が続く。

2006/01/02(月) 元中日監督の近藤貞雄さん死去
中日、大洋(現横浜)日本ハムで監督を歴任した近藤貞雄氏(野球解説者)が2日午前9時22分、呼吸不全のため東京・世田谷区の病院で死去した。80歳だった。ここ最近体調を崩し、闘病生活を送っていた。
 球界屈指のアイデアマンが逝った。今でこそ常識となった「投手分業制」を確立したのが近藤氏だった。中日投手コーチ時代、板東英二をリリーフに転向させて成功。また、権藤博(元中日)を酷使した反省から「投手の肩、ヒジは消耗品」とし、球数の制限や投げ込みの禁止などの考えをいち早く球界に持ち込んだ。
 81年に中日監督に就任。「野武士野球」をスローガンに強力打線をつくり、82年には全盛期の江川、西本を擁した巨人を打ち破って逆転優勝を果たした。西武との日本シリーズでは、節目の試合で打球が一塁塁審に当たって得点機をつまれ、2勝4敗で敗退。その後も「あれが抜けていたら日本一だった」と悔しそうに振り返っていた。
 85年に大洋の監督に就任。高木、加藤博、屋鋪の俊足3人を1〜3番に起用して「スーパーカートリオ」と名付けた。細身でダンディー。88年オフには当時史上最高齢の63歳で日本ハムの監督に就任した。グラウンドでは激しく、1年目の89年に2度も退場処分となり、99年阪神野村監督(当時64歳)に抜かれるまで、最高齢退場者記録を持っていた。99年に殿堂入りした。「野球は意外性のスポーツ。仕事や日々の生活に疲れた人たちが見に来るのに、塁に出たらバント式の野球が面白いはずがない」。ざん新な発想と行動力を持った野球人だった。
 ◆近藤貞雄(こんどう・さだお)1925年(大正14年)10月2日、愛知県岡崎市生まれ。旧制岡崎中、法大を経て、43年に右腕投手として西鉄(現西武)入団。23勝を挙げた巨人時代の46年の暮れに、事故で利き腕の右手中指の腱(けん)を切断。しかし3本指を駆使する投法を開発し、中日に移籍した48年から54年の引退までに24勝した。現役11年の通算成績は222試合登板で55勝71敗、防御率2・91。81年に中日監督に就任し、82年にリーグ優勝。西武との日本シリーズは2勝4敗で敗れた。その後、大洋(現横浜)と日本ハムの監督も歴任。99年に殿堂入り。

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