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2005/09/20(火)
<中内功氏死去>栄光と挫折の人生 ひっそりと旅立つ
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戦後、創業から15年でダイエーを日本一の小売業に育て上げ、カリスマ経営者と呼ばれた中内功さんが19日、波乱の生涯に幕を閉じた。過酷な戦争体験をバネに、安売り哲学による「流通革命」に挑戦し続け、日本の流通構造に風穴を開けた。しかし、バブル経済の崩壊と阪神大震災の直撃で迷走。さらに、消費者のし好の変化を見抜けず、中内さんは経営の一線から追われた。栄光と挫折の83年間だった。最後は神戸市内の病院で近親者だけにみとられ、ひっそりと旅立った。 同日夜、中内さんのお通夜には親族ら約30人が参列。身内の一人は「安らかな表情で眠っていた」と言葉少なだった。 突然の訃報(ふほう)に接した大阪・千林商店街で花屋を営む山本正夫さん(87)は「あれだけの男も最期は孤独やったんやな。『お前、頑張って走りすぎたんや』って言ってあげたいね」とありし日の中内さんに思いをはせた。 ダイエーは1957年、同商店街で「主婦の店ダイエー薬局」として産声を上げた。山本さんは「薬はよその半値で、京都から京阪電車に乗って看護婦が仕入れに来た。客でごった返して大みそかには商店街の通りを渡れんかった」と当時の繁盛ぶりを振り返る。 80年に小売業初の売上高1兆円を達成。バブルの絶頂を経て、ダイエーは転落を始める。「大きくなり過ぎて欲が出たんかな。創業期のころの心をなくしたことが、つまずきやないやろか」と山本さんはつぶやいた。 「主婦の店ダイエー」が58年に2号店をオープンしたのが神戸・三宮。神戸は、中内さんが少年時代から暮らした古里。神戸市が進めた開発行政と二人三脚で店舗網を拡大した。 95年の阪神大震災では店舗の集中が裏目に出た。「ダイエー村」と呼ばれた三宮では7店中4店が全壊。中内さんは3日後に現地入りして復旧の陣頭指揮を執り「被災者のために明かりを消すな。客が来る限り、店を開け続けろ。流通業はライフラインや」と号令をかけた。 軍国主義を嫌い、80年の関西財界セミナーでは日向方斉・関西経済連合会会長(当時)の「徴兵制の研究が必要」という発言に対し、「日本が東西の懸け橋となる努力が大切だ」と反論した。 戦争体験から生まれた渇きを癒やすように規模の拡大を追求。しかし、消費者の志向は「安いだけではだめ」に変わり、「ダイエーには何でもあるが、欲しいモノは何もない」とささやかれ、中内さんは晩年、「消費者が見えなくなった」と嘆いた。
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