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2005/08/11(木) ディスカバリー 地元ヒューストン市民が野口さんら祝福
スペースシャトル「ディスカバリー」に乗り組み、9日帰還した野口聡一飛行士(40)が10日午後(日本時間11日朝)、地元ヒューストンでの歓迎式典に臨み、詰めかけた約1000人の市民から祝福を受けた。
 野口さんはスピーチで「打ち上げから着陸まですべてを楽しみました。地上で支えてくれたすべての人と家族に感謝します」と語った。
 3回の船外活動(宇宙遊泳)を、大学時代に熱中したアメリカンフットボールにたとえ、「国際宇宙ステーションを隅から隅まで動き回ったスティーブン・ロビンソン飛行士と私だけでなく、チームワークの成果。私はチームゲームが大好きです」と、他の乗組員を気遣った。終了後も「ソウイチ、ソウイチ」と市民がサインを求めて列を作った。
 野口さんは9日夜、自宅に戻り、家族5人で過ごした。夕食は「さっぱりしたものが食べたくてそばでした」。子どもから「地球は本当に青いの?」などと質問攻めにあったという。
 飛行15日間の無重力生活に体が慣れ、体が浮いている感覚で何度もベッドから落ちそうになったといい、「重力に逆らって階段を上るのが今も大変です」と笑った。
 飛行中、毎日のように日本列島を眺めたという。「佐渡島や富士山、種子島などがきれいに見えました」。地元・茅ケ崎市の烏帽子岩は残念ながら見えなかったが、「江の島や相模川はくっきり見え、その間にある烏帽子岩を心の目で見ました」と振り返った。

2005/08/10(水) 巨人来季監督の最有力候補に星野氏
巨人が、阪神星野仙一シニアディレクター(58)を来季監督の最有力候補としてリストアップしていることが10日、明らかになった。今季、チームは歴史的な低迷を続けており、球団は渡辺恒雄球団会長(79)滝鼻卓雄オーナー(65)らが中心となり、OBの原辰徳氏(47)中畑清氏(51)江川卓氏(50)らから人選を進めていた。しかし、ここにきて星野氏が急浮上。長年低迷した阪神を立て直し、03年に優勝に導いた手腕を高く評価。周辺調査も進めており、球団初の外部招聘(しょうへい)に乗り出す可能性が高くなってきた。
 巨人が、再建へのウルトラCに向けて水面下で動き出していた。チームは後半戦に入っても浮上の兆しを見せず、10日も横浜に敗れ、借金15の5位と低迷。75年以来となる最下位の危機にも瀕(ひん)している。こんな状況に業を煮やした読売首脳が、堀内監督に代わる来季の監督候補として新たに名前を挙げているのが、02年から阪神で2年間監督を務め、それまで低迷していたチームを優勝させるなど、見事に立て直した星野氏だった。
 読売本社サイドはこれまで、OBの中から、02年に就任1年目で日本一に輝いた原前監督、アテネ五輪で長嶋茂雄氏の監督代行を務めた中畑氏、現役時代に「怪物」として人気者だった江川氏らを候補に挙げ、水面下で調査を続けてきた。ここにきて中畑氏、江川氏は候補から外れ、原氏の復帰と並行して外国人監督を含めた外部招聘を視野に入れ、人選を進めてきた。
 巨人は今季が創立71年目だが、過去に監督を外部招聘したことはない。ここにきて星野氏を最有力候補としたのは、現状への強い危機感の表れといえる。誰より、先月「中途半端よりどん底までいったほうがいい。反省せん、みんな」と突き放すような発言で危機感をあらわにした渡辺会長が熱心とされ、読売幹部が星野氏に近い関係者に意向を調査し始めている。
 渡辺会長を含め巨人はことあるごとに星野氏から厳しい発言をされてきた。しかし、渡辺会長と星野氏は球界全体のことで忌憚(きたん)なく意見を交わしたこともあり、認め合っている部分もある。改革と人気回復。強い巨人復活のため、その両方を任せられるのは星野氏がもっともふさわしいと判断したようだ。
 阪神監督時代の02年オフには24人の選手を入れ替えるなど、大改革を断行。就任2年目の03年に18年ぶりのリーグ優勝に導いた。カリスマ性、グラウンド内での厳しい指導はもちろん、戦力強化のための積極的なトレード敢行、フロントへの進言など、GM的な役割も期待される。昨年8月に就任した滝鼻オーナー、清武球団代表が中心となって「G改革」を進めているが、さらに軌道に乗せるためにはうってつけの人材だ。先月中旬に滝鼻オーナーは「てこ入れというか設計図というか、決めて何とかしないと野球人気自身がおかしくなっちゃう」と現体制の見直しを示唆していた。
 今後は、星野氏が2年前に体調を理由に阪神監督を辞任したこともあり、慎重に一本化作業に入る。今季中は阪神との契約が残っており、正式打診はシーズン終了後が予想される。

2005/08/09(火) 横浜佐々木“引退登板”、清原大泣き
 大魔神が、ライバル相手に燃え尽きた。今季限りで現役引退を決めた横浜佐々木主浩投手(37)が、故郷仙台で行われた巨人13回戦で“引退登板”。2回、親友でもある清原和博内野手(37)と対戦し、フォークで空振り三振を奪った。涙をこらえて投げる佐々木、涙で球が見えなかった清原−。この時期の特別な登板には異論もあったが、一時代を築いた2人のラスト対決に、満員の球場は感動に包まれた。
 マウンドと打席のわずかな距離なのに、お互いの姿がかすんでいた。2回無死一塁。打者清原の場面で「ピッチャー佐々木」がコールされた。特別に計らってもらったワンポイント登板。ブルペンの投球練習時から、佐々木の足は震えていた。
 地元ファンからスタンディングオベーションで迎えられての、ラスト対決。最後だから、数々の名勝負を演じてきたライバル清原とやりたかった。「サインが見えなくなるので、投げるボールは決めていた。キヨの顔を見たら、涙が出そうになった」。唇をかみ、必死に涙をこらえ投げ込んだ。直球だけでカウント2−1と追い込み、128キロ外角フォークで空振り三振を奪った。
 「もう対戦できなくなる」。思いは清原も一緒だった。佐々木が1球投じるごとに、大粒の涙が目を覆った。最後はボールが見えないほど号泣、本能だけでバットを振った。そのまま2人は、マウンド付近で握手し抱き合った。ベンチに戻った清原は、目を赤くしたまま動かない。佐々木はロッカー室で、男泣きした。
 佐々木「プロでここまでやれたのも、フォークボールがあったから。だから最後は投げたかった。こういう場をつくってくれた球団と監督とチームのみなさんに感謝してます。清原君をはじめ巨人軍にも感謝してます。思い残すことなく、悔いなく、投げることができた。ファンの方も最後まで熱い声援、ありがとうございました」。
 純粋な思いだった。シーズン途中で引退を表明し、地元仙台での巨人戦登板を希望。わがままという批判など、球団内にも賛否両論あったが、どうしても引き際に清原との対決にこだわった。それが佐々木の野球人生の生きざまだったからだ。
 佐々木「キヨがいたからここまでこれた。意地やプライドなんて言葉では表現できないほどの気持ちでやってきた。最後まで負けるもんか!  の思いで投げたかったから、キヨとやりたかった」。
 清原とは67年度生まれの同期生。東北高時代、PL学園の清原、桑田のKKコンビは雲の上の存在だった。ともに高3だった85年夏の甲子園。対戦はなかったが、出入り口から特別扱いされるKKに対し、コンプレックスを感じプロ根性が芽生えた。開会式の日、清原のスパイクを偶然見つけて、砂をかけた思い出がある。
 佐々木「片や球界のエリートで、オレは東北の田舎者だった。でも今に見てろと。プロに入ったらオレが一番になる思いで、それからずっとキヨを意識してやってきた」。
 清原もそのエピソードを覚えている。「ええ根性しとるヤツがおるな、と思ったな」。プロになっても佐々木は清原を追い求め、プライベートでも清原が高級車を購入したと聞けば、自らも高級車を購入した。負けたくない一心でプロ人生を送ってきた。
 あれから20年−。2人ともプライドが高く、負けず嫌いの性格。佐々木がメジャー時代には衝突して距離を置いた時期もあった。だが、2人の絆は再びグラウンドで固いものとなった。
 清原「いろんなものが込み上げてきて。本当に寂しいよ。最後は世界一のフォークがきた。成績ではなくて、最後は日本球界で、という生き方に敬意を表したいな。また1人サムライがいなくなるのは寂しいが、オレも力の続く限りやっていく。佐々木の魂はもらった」。
 将来、指導者として激突するであろう永遠のライバル。佐々木は清原との4球を胸に刻んで、マウンドを去った。

2005/08/08(月) 郵政法案 参院本会議で否決、衆院解散・総選挙へ
小泉純一郎首相が政権の命運をかけてきた郵政民営化関連6法案は、8日午後の参院本会議で採決が行われた結果、自民党内の造反によって17票差で否決された。「法案の否決は内閣不信任とみなす」と公言してきた小泉首相は同日の同党臨時役員会で、衆院解散の意向を示し「反対派は公認しない」と述べた。公明党の神崎武法代表も採決前、解散に同意する意向を明らかにした。総選挙は今月30日公示、9月11日投票の日程が有力視されている。首相は「小泉構造改革の継続か否か」を最大の争点にしたい考えだが、自民党の分裂選挙は避けられず、政権交代の可能性をはらんだ選挙戦になるとみられる。
 本会議は午後1時に開会し、賛成、反対討論に続いて、議員が木札を投じる方式の記名投票で採決が行われた。投票総数233票(欠席・棄権8票)で、賛成は108票、反対は125票だった。自民党執行部は反対派の切り崩しに全力を挙げたが、同党の114人のうち、倉田寛之前参院議長や中曽根弘文元文相、鴻池祥肇元特区担当相ら22人が反対に回り、野党を加えた反対票が自民、公明両党の賛成票を上回った。
 採決に先立つ8日午前、公明党の草川昭三参院会長が自民党の片山虎之助参院幹事長らと会談し、反対派に配慮するため、本会議で法案を再修正するよう要請した。片山氏は武部勤幹事長や与謝野馨政調会長らと断続的に協議したが、「時間的に厳しい。与野党で合意できるかどうかも分からない」として断念した。
 また自民党では、解散回避策として、参院本会議で法案を継続審議にする案も検討されたが、首相が「継続も否決と同じだ。可決か否決しかない」と採決を強く求めたため、見送られた。
 自民党は参院採決の直後、役員会を開き、首相が党総裁として解散断行を表明した。続いて首相は神崎代表と与党党首会談を行い、解散・総選挙への理解を求め、ただちに解散詔書を決定するための臨時閣議を招集するとみられる。参院での法案処理に伴う衆院の解散は前例がなく、異例の解散になる。
 自民党は、衆院本会議で反対に回った37人を公認せず、代わりの新人候補を擁立する方針だ。造反組は新党を結成して選挙に臨むとみられ、自民党の分裂は必至。選挙後は、自民、民主両党を軸に、公明党や新党を巻き込んた政界再編絡みの展開が予想される。
 郵政法案は、日本郵政公社を07年4月から持ち株会社の下で郵便局を保有する窓口会社、郵便事業会社、郵便貯金銀行、郵便保険会社に分社化する内容。小泉首相が「改革の本丸」と位置づけていた。

2005/08/07(日) “大魔神”佐々木が引退を表明
右ひざを手術して2軍で調整中のプロ野球、横浜ベイスターズの佐々木主浩投手(37)が7日、横浜スタジアムで会見し、今季限りでの現役引退を表明した。
 佐々木は4月に3回、救援に失敗して2軍落ち。「オールスター明けまでに自分の納得できるピッチングができなかったら、と思っていた。それで腹を決めた」と、7月下旬に引退の意志を固めていたことを明らかにした。また、シーズン途中で引退を表明した理由については、一部報道で引退が取りざたされたため、「チームに迷惑をかけるのが嫌だった」と話した。
 佐々木は00年から4年間、米大リーグ、マリナーズでも129セーブを挙げるなど日米で活躍。「大魔神」の愛称で知られ、日米通算16年目のシーズンだった。
 佐々木は90年に東北福祉大から大洋(横浜の前身)にドラフト1位で入団。2年目から抑えに定着した。日本一の原動力となった98年は防御率0.64、自己最多の45セーブを記録し、セ・リーグの最優秀選手賞(MVP)、ベストナインなど多数の賞を獲得した。
 ▽巨人・清原 (佐々木とは同級生)今の時代の投手は5、6種類の球種を投げるが、佐々木はたった二つの球種でアメリカに乗り込んで世界一のクローザーになり、また夢を持って日本に帰ってきてくれた。そういうピッチャーと戦えたことを誇りに思う。(佐々木が対戦を希望していることについて)指名してもらってうれしい。その空間を大事にして、心の中に大切にしまいたい。
 ▽ヤクルト・古田 (佐々木とは89年ドラフト同期生)引退するとは思っていなかったので、驚いている。あんなフォークは見たことがなかったし、今後見ることもないと思う。大いに悩み、考えて決断したことだろうから、決断には敬意を表したい。

2005/08/06(土) 渡辺美里スタジアム20年「西武は卒業」
渡辺美里(39)が6日、20年にわたる西武ドーム公演を涙で締めくくった。86年、20歳だった美里が西武球場時代に始めたコンサート。夏恒例のイベントとして数多くのファンを集めてきたが、20回の区切りでフィナーレを迎えた。この日は3万9000人のファンを前に3時間半、43曲を歌った。最後は「まだ夢は続いていきます」と涙ながらにあいさつし、「夏が来た! 」をファンと一緒に大合唱した。
 夏祭りには帰ってこいよ−。20年にわたる西武ドーム公演のラストソングは「夏が来た! 」だった。総立ちの3万9000人が大合唱。歌い終えた美里は、1986〜2005の年代が刻まれた花道を踏みしめて、ステージ裏に消えた。大型ビジョンには「来年の夏、どこかでお会いしましょう」のメッセージが流された。
 アンコールの前、スタンドで大きなウエーブと美里コールが起きた。「一夏一夏、実感しながら走ってきたら20年経ちました。ここまでやれたのも、スタジアムは私にぴったりだったからだと思う。まだ夢は続いていくので、夢の途中だと思ってください」。あいさつは、涙が止まらなかった。
 この日は大江千里(44)山口智充(36)が飛び入りで出演し、ヤンキース松井秀喜(31)もビデオで登場した。松井が「来年はヤンキースタジアムでいかがですか」とメッセージを送ると、美里は「みんな、パスポート取っておいてね」と笑顔でファンに叫んだ。
 86年の第1回は「KICK OFF」のタイトルだった。それから20年、子連れファンが目立ったことも、時の流れを感じさせた。「20年の節目」だからと終了を決意したのは昨年夏。ラスト公演のタイトルは「NO SIDE」に決めていた。
 女性アーティストが同一スタジアムで20年連続で公演を行うのは前人未踏。美里は「西武は卒業だけど、これからも、お祭りみたいなイベントを続けたい」と話しており、来年以降、新たなイベントがスタートする可能性は高い。秋にオリジナルアルバムを発売し、10月2日からオーケストラとの共演ライブを4公演行う。12月21日には、20年の公演の映像を収録したDVDを発売する。

2005/08/05(金) 勘三郎ショック 弟子が覚せい剤所持で逮捕
歌舞伎俳優、中村勘三郎(50)一門の歌舞伎俳優、中村銀之助=本名・亀山晃平=容疑者(32)が覚せい剤取締法違反(所持)の現行犯で警視庁三田署に逮捕されていたことが5日、分かった。事件を知った勘三郎は衝撃を受け、「破門せざるをえない」と厳しい処分を下す姿勢だ。

 同署の調べによると、銀之助容疑者は4日午後11時ごろ、東京・豊島区の自宅アパートでプラスチック製の容器に約9グラムの覚せい剤を隠し持っていた疑い。調べに対し「自分で使おうと思っていた」と容疑を認めており、同署は入手経路を調べている。

 同容疑者は、勘三郎一門(現14人在籍)の昭和48年生で、平成12年に東京・国立劇場第十五期歌舞伎俳優研修を修了し、同4月に同劇場「夏祭」の捕手でデビュー。翌年4月の東京・歌舞伎座「義経千本桜」で中村銀之助を名乗り、勘三郎(当時勘九郎)一門の若手として活躍してきた。

 勘三郎はこの日、マスコミ各社にファクスで「非常に申し訳ない。弟子の指導のどこに問題があったか、あらためて深く考え、反省しております」と悲痛な心境を告白し、「破門せざるをえない」としながらも「本人の更正を第一に考え、一日も早い更正につながるよう見守っていきます」と綴った。

 二男の歌舞伎俳優、中村七之助(22)が今年1月に公務執行妨害事件を起こして逮捕されたのに続く身内の不祥事。十八代目中村勘三郎を襲名した年だけに、ショックを隠し切れない様子だ。

 興行元の松竹は銀之助容疑者について「今後の出演を取りやめることは当然として、事実関係を確認し厳粛な対応を行う」とコメント。同容疑者は今月11日に初日を迎える歌舞伎座「八月納涼歌舞伎」に出演予定だった。歌舞伎俳優の覚せい剤逮捕について同座は「聞いたことはありません」と話した。

 豊島区内にある銀之助容疑者の2階建て自宅アパートの住民は「誰が住んでいるか知りませんでした」。近所付き合いは全くなかったようだ。

2005/08/04(木) 明徳 夏の甲子園史上初の出場決定後辞退
球児の夏が突然の不祥事で大きく揺れた。第87回全国高校野球選手権大会(甲子園)の開幕を2日後に控えた4日、高知代表の明徳義塾が部員の不祥事で出場を辞退、大会規定により高知大会準優勝の高知の代替出場が決まった。出場決定後の辞退は夏の甲子園史上初で、組み合わせ抽選から一夜明けた甲子園は大混乱。24年ぶり10度目の出場となる高知は、5日の開会式のリハーサル後に大阪入りし、大会は6日に開幕する。

 球児の熱闘を待っていた甲子園にとんでもない衝撃が走った。午前11時30分、大阪市西区の日本高野連で行われた最初の会見で明徳義塾の出場辞退を発表。その30分前には、49代表校の最後に宇部商が甲子園練習を終えていた。あとは5日の開会式のリハーサルを経て開幕を待つばかりの中で、優勝候補の夏が幕を閉じたのだ。

 「残念の一語に尽きる。選手たちには非常に気の毒だが、従来と同じ処分という枠組みの中で対処しなければいけないと思う」。会見で日本高野連・脇村会長は苦渋の表情を浮かべた。前日の組み合わせ抽選では01年の日本一・日大三との対戦が決定。その屈指の好カードが一夜で消え、戦後最多の8年連続出場という記録も消滅した。

 明徳義塾ナインは出場辞退を知らないまま、午前9時から西宮市内の津門中央球場で練習。日大三の左腕・大越らを想定してフリー打撃を行っていたが、30分ほどしたところで飯野副部長が練習を中止。「なぜ練習をやめるの?」と首をひねった選手たちが事実を知ったのは、宿舎に戻ってからだった。午前10時すぎ、大部屋に選手全員を集めて馬淵監督が説明すると「何で!」と叫び声が上がり、肩を震わせ泣き叫ぶ選手もいた。

 今回の不祥事は、3日までに県高野連などに送られてきた匿名の封書で発覚した。日本高野連では事実の確認を続けていたが、明徳義塾側がこの日の午前に「出場することは不適切」(吉田校長)と伝え、受理されたのは午後2時からの臨時運営委員会だった。学校によると、今年4月から7月初旬にかけて、1、2年生部員計11人が寮内で喫煙したほか、上級生が1年生部員に正座の強要や腕や胸を叩くなどの暴力行為をした。暴力行為に関しては保護者から抗議を受け該当選手と馬淵監督らが謝罪、了承が得られたとして高知大会に出場。6月には学内で刺傷事件も起こっていただけに、吉田校長は「大変遺憾」と話した。

 すぐ目の前にある甲子園で戦えなくなった赤瀬主将は「全員で甲子園を目指してきただけに残念です」と声を震わせ、チームは関西出身の選手も多いことから夕食後、宿舎で解散した。そんな明徳義塾の代わりに出場する高知は、開会式のリハーサルに参加せず大会へ臨む。何から何まで異例の事態。球児の夏は激震の中で幕を開ける。

 ≪馬淵監督は辞意≫日本高野連で会見に臨んだ明徳義塾・馬淵監督は、いつものだみ声を小さくして弁明した。不祥事の発生を高知大会の開幕(7月16日)前に知りながら、県高野連に報告せず部内で解決を図っていたが「生徒のことを考えた揚げ句やったことの結果。何とか丸く収めようとした。隠す気はなかった」と説明した。

 暴力行為については被害者の1年生部員の保護者が7月15日に学校を訪れて抗議。翌16日に被害者宅を訪れた馬淵監督らは「何とかこらえてください」と謝罪した。17日には1年生部員の保護者が転校を考えていたことから授業料の返還を申し出て、了承を得られたと判断。18日の初戦(2回戦)に出場した。また、喫煙については「生徒が自主申告してきたので、更生の見込みがあると思った」と話した。

 ただ、日本高野連では加盟校に事件や事故の報告を義務づけており、これを怠ったことが問題視された。「反省している。その時に報告しておれば、こんな問題にならなかった」と悔やんだが、指導者としての認識の甘さは致命的。90年の就任以来春夏合わせて18度甲子園に導いた名監督は、不祥事の責任を取って辞任する意向を表明した。

2005/08/03(水) 田中達代表初ゴールも 無念のドロー
先発メンバー総入れ替えの日本代表が執念でドローに持ち込んだ。男子の東アジア選手権第で3日、中国と対戦し前半に2点を許す苦しい展開となったが、後半13分にDF茂庭照幸(23=FC東京)が追撃弾。さらに42分にA代表初先発のFW田中達也(22=浦和)が左足でゴールを奪い2―2で引き分けた。W杯1次予選で敗退した中国に、前半は決定機を逃し続け、守備陣は集中力を欠いて2失点と今後に課題を残した。2試合を終え勝ち点1にとどまり優勝は厳しくなった。

 サッカー小僧の執念が幸運を呼び込んだ。敗戦もちらついた後半42分、阿部へのスルーパスはDFに阻まれたが、ボールは再び田中達の足元に返ってきた。

 「パスを出したら戻ってきたんで打とうと思った」。ためらいなく左足を振り切った。貴重な同点ゴール。国際Aマッチ2試合目で初先発の新顔が、代表初得点でジーコジャパンを救った。

 この1年、自分がレベルアップすることだけを考えてきた。世界を肌で感じられると楽しみにしていたアテネ五輪では、同じスピードを生かすスタイルで、同い年の大久保にポジションを奪われ、ほとんど出番がなく悔しさだけを味わった。A代表入りも先を越された。「もう、自分にはA代表しかない」と目標を絞った。だからこそ巡ってきたチャンスを逃すわけにはいかなかった。

 アテネ五輪世代の立ち上げとなった02年トゥーロン国際大会。初顔合わせが多い中、人見知りをする田中達は思った動きができなかった。しかし、今回は「自分から溶け込もうと頑張っている」と親しい関係者に打ち明けた。ルーティンになりがちなシュート練習でも「どういうボールを出すのか分かるし、勉強になる」と集中してパスの出し手の癖、球筋を頭にインプットした。前半8分、初めて2トップを組んだ巻と2人でシュートまで持っていったのも練習のたまものだ。

 納得のいかない試合の後は、たとえオフでも浦和のグラウンドを黙々と走る。反骨心と努力でここまできた。「小さいことが不利だと思ったことは1度もない」と言うように、逆に俊敏さを生かすドリブルをマスターした。大柄なDFを手玉に取るのも、足元のボールを見ずに相手の逆を突く動きができるからだ。

 チームの勝利に結びつかなかったため、田中達は「勝てるチャンスがあったんで悔しい。個人的にシュートも少なかった」と笑みを見せなかったが、ジーコ監督からは「本当によくやった。いいアピールをした」と合格点をもらった。本人に満足感はないが、この2試合で見せたゴール前での思い切りの良さ、シュートの正確性で、FWのポジション争いに本格参戦したことは間違いない。アテネ経由ドイツ行き。田中達はこのまま走り続ける。

 ≪駒野&村井奮闘≫駒野と村井のA代表初出場コンビが中盤の両サイドで奮闘した。右の駒野は前半から何本もクロスを上げ、決定機をつくった。「アテネ組がいたのでやりやすかった。レギュラー組に自分の特徴を知ってもらえたのでは。クロスを上げられたし、1対1も仕掛けられた」と手応え。左の村井もクロスを積極的に放ったが、後半29分に三都主と交代。「タイミングが合わなくて残念。勝ちたかったのに」と悔しそうだった。

2005/08/02(火) 羽田空港 トラブル続き、相次ぐ「空」への不信の声
夏休みで混雑する羽田空港で、管制システムがダウンした。飛行機の発着がすべて止まり、旅行や出張に出かける人は異常事態に混乱。約1時間後に復旧したが、トラブル続きの「日本の空」に不信を口にする人が相次いだ。
 羽田空港第1ターミナルの出発ロビーは、運航再開を待つ帰省客やビジネスマンなどで込み合った。搭乗受付再開のアナウンスが流れると、待ちかねたように窓口に長蛇の列ができた。
 出張のため福岡空港に向かうという食品メーカーの男性社員(70)は「急いで行こうと思い、新幹線より早い飛行機にしたが、タイミングが悪かった。ただ待つしかない」とため息をつき、背広を脱いでソファに座っていた。
 双子の男児(1歳)を連れ、家族で徳島県に帰省する東京都北区、会社員、吉田浩司さん(34)は、搭乗受付の列に並びながら、「予約したチケットを受け取ろうとしたら、トラブルが起きたと知らされた。再開のめどが立ったみたいなので、ホッとしている」と話した。
 川崎市宮前区の主婦、岡田節子さん(61)は、夏休み中の孫娘(7)と、午後1時10分発鹿児島行きの便で帰省する途中だった。「早めに空港に着いたら、システムがダウンしたと聞いて……。孫にとっては初めての鹿児島、初めての飛行機だったのに」と残念そうに話していたが、正午過ぎに離発着再開の放送が流れると、「ああ、良かった」と顔をほころばせた。
 徳島県まで出張する男性会社員(62)は相次ぐ空のトラブルに「たるんでいるのだろう。しっかりしてほしい」と話した。
 このトラブルで、各地から羽田に向かう便も出発できない状態になった。全日空の広報担当者は「何便が遅れるか、いつダイヤが正常化するか全く分からない」と頭を抱えた。
 全日空の予約窓口には、予約客らからの問い合わせが殺到。「あまり聞かないトラブル。影響を最小限にくい止めるよう務めたい」と話した。
 埼玉県所沢市の国土交通省東京航空交通管制部によると、午前11時33分ごろ、羽田空港の管制を通じて「回線が断した」と連絡が入った。このため、離陸予定の航空機に対して、「上空での待機」を指示するとともに、別の空港への着陸の振り分けを促したという。午後零時24分ごろ、羽田空港より復旧の連絡が入ったという。溜池邦博次長は「24機を待機させ、15機を成田や中部へ振り分けた。こちらとしては事故もなく、的確な振り分けができたと思う」と緊迫した声で話した。
 同管制部では洋上を含む東北地方から中国地方までの日本が管轄する空域の約70%を担当し、各空港に離着陸したり管轄空域を通過したりする航空機に対し、航空路管制と進入管制をしている。

8月絵日記の続き


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