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2005/06/16(木)
野茂が日米200勝達成 日本人選手初の快記録
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米大リーグ、デビルレイズの野茂英雄投手(36)が十五日のブルワーズ戦で今季4勝目を挙げ、日米通算200勝を達成した。野茂は近鉄時代の五年間で通算78勝。渡米してから122勝を積み上げ、大リーグ十一シーズン目で節目の数字に到達した。 近鉄のエースが大リーグ移籍を訴え、騒動になったのは平成七年早春。阪神大震災と重なる。阪神の岡田彰布監督(当時、労働組合・日本プロ野球選手会会長)は「選手会として(リーグ会長らと)話をしようと東京に着いた翌朝やったな、地震は」と振り返る。震災が何もかものみ込んだかのように、近鉄球団は野茂の任意引退扱いを決定し、野茂はドジャースと契約した。 渡米一年目(一九九五年)。その強烈な個性−トルネード(竜巻)投法と二種類のフォークボールは「ノモマニア」という熱烈なファンを生み出した。野茂は「ドクターK」のニックネームを授かり、観客席には奪った三振の数を表す「K」のプラカードが並んだ。 当時の大リーグは、新鮮味のある無垢(むく)なスターを求めていた。ワールドシリーズをも奪った前年のストライキは「億万長者同士の醜い争い」として、ファンに強い嫌悪感を抱かせていた。日本から独り、海を渡ってきた右腕は、米国民の心の底にあるフロンティア精神を刺激した。たとえ敵地であれ、どこの球場でもブーイングとは無縁であったことが、先駆者を尊ぶ米国のファンに認められた証しだった。 ◇ この年、野茂は13勝を挙げ、ドジャースの地区優勝に貢献した。だが、レッズとのプレーオフ第三戦で敗戦投手となり、一年目のシーズンを終えた。試合後、先制2ランを放ったレッズの主砲ガントが歩み寄り、「ありがとう。君はメジャーを救ってくれた」と握手を求めた。「君がいなければ、ストが終わったばかりのメジャーは寂しいものになっていた。選手は皆、感謝している」 移籍時、日本球界を混乱させたことを正当化するのは難しい。野茂にできることは、勝つことだ。 もし野茂が失敗していれば、大リーグに挑む日本選手の数は激減していただろう。移籍制度の確立が遅れ、イチロー外野手(マリナーズ)がシーズン最多安打記録(262本)を樹立することもなかったかもしれない。 ◇ 近鉄時代、野茂は同僚の吉井理人投手(40)とメジャーへの夢を語り合った。今年一月二十七日、野茂はデビルレイズと年俸八十万ドル(約八千六百万円)でマイナー契約を結んだ。メッツなどを経て日本球界に復帰した吉井は昨秋、オリックスを解雇され、テストを受けて年俸四百四十万円(金額はいずれも推定)で再入団した。 グラウンドという夢舞台で、プレーを続けるためなら、何でもする−。プロはその覚悟がある人間だけが生き残れる世界だ。選手としてのピークは過ぎたものの、野茂は先発ローテーションを守り続け、吉井も今季3勝を挙げて健在ぶりを示している。彼らは信じている。マウンドで全力を尽くした時間は決して無駄にはならない、
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