本日のニュース
その日にあった出来事で一番気になったニュースを載せていきます。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2005年12月
前の月 次の月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新の絵日記ダイジェスト
2009/02/08 <覚せい剤>高知の漁港に120キロ 中国籍の3容疑者逮捕
2009/02/07 モンゴルで日本語教師の女性遺体、強盗殺人か…北海道出身
2009/02/06 <殺人>23歳女性死亡 ストーカー相談直後 埼玉・草加
2009/02/05 円天事件 波容疑者、逮捕直前ビール飲み熱弁「冤罪だ」
2009/02/04 <窃盗>どうやって?たった1メートルのすき間から壁に穴 銀座の宝飾店強盗

直接移動: 20092 1 月  200812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 7 6 5 4 3 1 月 

2005/12/21(水) 吉岡秀隆、内田有紀 結婚3年で離婚
俳優吉岡秀隆(35)女優内田有紀(30)夫妻が21日、離婚した。02年9月放送のドラマ「北の国から 2002 遺言」での共演をきっかけに交際。同年12月に結婚した。夫妻に子供はなく、2人の恩師である脚本家・倉本聰氏(70)は「結婚というものを2人ともよく分かっていなかったのではないか」と話した。

 「北の国から」の舞台の北海道・富良野で雪舞う中、ロマンチックな結婚式を挙げてから丸3年。現実はドラマのようにはいかなかった。

 離婚届を提出したのは21日午後5時ごろ。代理人が都内の区役所に届け出た。関係者によると、書類には今月12日ごろにそれぞれサインしたという。内田は愛の巣だった都内のマンションを先月いっぱいで出ており、部屋には吉岡への書き置きがあった。現在は、都内の実家に戻っている。吉岡はそのまま住んでいるとみられるが、取材への対応はなかった。

 2人は「北の国から…」の撮影で、01年9月から翌02年3月までの半年間、厳冬の富良野や知床で共同生活を送った。毎日顔を合わせる中、ドラマのストーリーそのままにひかれ合い、放送から3カ月後の同年12月7日にゴールインした。

 内田は結婚後は仕事を休業し、主婦業に専念。公の場に姿を見せることはなく、近所の商店街に夫婦仲良く買い物に出かけるなど幸せな新婚生活を送っていた。

 しかし、吉岡に現在公開中の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」など主演作が相次ぐ中、すれ違いの時間が増えていった。自宅でひとり、夫の帰りを待つ日々が続く中で寂しさは募るばかり。次第に将来への考え方の違いも広がっていったようだ。内田の今後について関係者は「すぐに仕事をすることは考えていない。しばらく時間をおいてからでしょう」と話している。

 ◆内田 有紀(うちだ・ゆき)1975年(昭50)11月16日、東京都生まれ。93年、ユニチカ水着キャンペーンガールに選ばれ、同年のドラマ「その時、ハートは盗まれた」で女優デビュー。「17才」「半熟卵」など連続ドラマに主演し、95年「花より男子」で映画初主演。

 ◆吉岡 秀隆(よしおか・ひでたか)1970年(昭45)8月12日、埼玉県生まれ。5歳で劇団に入り、77年「八つ墓村」で映画デビュー。81年から「男はつらいよ」シリーズにレギュラー出演。並行してドラマ「北の国から」に主演。

2005/12/20(火) 渡部・里佳子別々に離婚会見「仕事に熱中しすぎて」
かねて危機が伝えられていた俳優、渡部篤郎(37)と女優、村上里佳子(39)が19日に離婚届を提出、20日に相次いで会見した。

 この日午前、東京・赤坂のTBS局内に表れた渡部は、「仕事に熱中しすぎて、家族とのバランスがとれなくなっていた。それが彼女のストレスになっていたんだと思う。僕が至らなかった」と淡々と説明した。

 午後になって、里佳子は東京・汐留の日本テレビで会見し、「離婚しても、父として母として、協力して子供を育てることには変わりありません。憎みあったりする関係ではなく、週に何度かは会います」と話した。

 渡部によると、離婚の話が出たのは、今年の夏。その後、渡部のほうがあらかじめ書いた離婚届を里佳子に渡していたという。

 これまで渡部には、業界関係者の女性との交際など、女性問題がつきまとうと報道されていた。しかし、渡部は「それはまったくない」ときっぱり、女性問題が離婚の原因との見方を否定した。

 一方の里佳子は、離婚を切り出された際の心境を、「理解できない、というか考えが違うんだな、と。私が求める家庭は子供が最優先…。それで彼に寂しい思いをさせたのかな…。子供が生まれると子供が一番になって、パパが後回しになっちゃう。やっぱりパパが一番というのがベストなのかな」と話した。そして、「私に彼が合わせるのは難しいと思ったのでしょう。彼の考えが変わると思ったけれど…」とも語り、寂しげな表情を浮かべた。

 渡部によると、2人の子どもに関しては、親権、養育権は里佳子が持ち、子供が大学を卒業するまで、渡部が養育費を払う。

 2人は1994年3月に結婚し、11歳と6歳の2男児がいる。


■仰木さんに…清原オリックス入り表明

天国の仰木さん、オリックスで最後のひと花を咲かせます。巨人を自由契約になった清原和博内野手(38)が20日、オリックス入りを表明、26日にも入団発表される。東京・六本木で行われたアミューズメント企業フィールズのイメージキャラクター発表の席で明かしたもので、15日に他界した前監督の仰木彬氏(享年70)の「遺言」に沿い最終決断を下した。プロ21年目の来季、清原は生まれ育った大阪で野球人生の最終章を迎える。
清原の魂を揺り動かしたのは、亡き名将の「遺言」だった。昨年の去就騒動のときから、何度となくかけられた言葉。中でも自由契約という人生のどん底で聞いた言葉が心に残っている。

 「とにかく大阪へ帰ってこい。おまえの花道は、オレがつくってやる」――。それが決め手だった。名球会総会のためハワイ入りした直後に届いた訃(ふ)報。その瞬間から仰木氏からかけてもらった言葉の数々を思い出し、心に刻み込んだ。そして「心に響く、温かい希望に満ちた言葉をたくさんいただき、もう1度野球をやりたいと心に決めた」という。12日には、年俸2億5000万円の単年契約の提示も受けた。信義に対して礼節を持って応えるのが清原だった。

 「地元大阪、手を差し伸べてくれたオリックスさん、自分を育ててくれたパ・リーグ、そしてプロ野球ファンのため大阪で精いっぱいプレーしたい。本来なら仰木さんに直接会って、ご報告したかった。この場を借りて天国の仰木さんに報告したいと思います」

 よもやの戦力外通告を受けた8月29日から113日。「身を切られるような思い」を経て心を決めた。仰木氏への思いがこみ上げたのか、グレーのスーツ姿の清原の目は心なしか潤んでいた。思えば去就騒動で揺れた昨オフ。仰木氏は何度も神戸から会いに来てくれた。オリックスへの移籍を熱心に勧められると同時に、野球人として激励を受け、最後は「巨人に残って見返したい」という清原の思いも理解してくれた。

 獲得は断念。それでも愛弟子のイチローら数人にしか贈っていないという高級腕時計をプレゼントされた。あれから1年。仰木氏はユニホームを脱いでわずか2カ月で逝った。野球に人生のすべてをささげたその生きざまにも胸を打たれた。

 仰木氏がこよなく愛した関西、そして命を懸けたグラウンド。その地で野球人生の最終章に臨むことになる。来年8月に39歳となる清原は、1つの目標を立てた。「満39歳の大先輩方の成績を見たら、王さん(現ソフトバンク監督)が33本塁打で一番だった。その記録に挑戦したい」。39歳での33発超え。その数字は4番として期待してくれた仰木氏に応える決意の表れでもあった。

2005/12/19(月) 大雪 名古屋で23センチ 58年ぶり
東海地方に18日から降り始めた雪は19日にピークを迎え、岐阜県の山間部で195センチ超の積雪を記録、名古屋市でも最高23センチ(午前8時)の積雪となった。名古屋地方気象台によると、同市では1947年以来58年ぶりの大雪で、12月としては45年以来60年ぶりの激しい雪となった。雪の影響で高速道路が通行止めになったほか、鉄道にも大きな遅れが出た。(社会面に関連記事)
 名古屋での積雪としては、1947年2月3日に最高23センチを記録して以来の大雪。岐阜県白川村では、84年12月30日の175センチ以来の大雪。
 各地の地方気象台によると、19日午前10時現在の積雪量は▽岐阜県白川村195センチ▽郡上市長滝158センチ▽高山市44センチ▽岐阜市で23センチ。愛知県内では同9時現在▽一宮市32センチ▽蟹江町27センチの積雪。三重県では同9時現在、いなべ市で36センチを記録した。
 雪のため、東海道新幹線は上りが京都−豊橋間、下りは豊橋−新大阪間で時速70キロから230キロの徐行運転を行っており、最大83分の遅れが出た。ダイヤの乱れは終日続く見通し。在来線はJR東海道線が午前6時15分から約1時間にわたって大垣−米原間で運転を見合わせた。
 名鉄、近鉄でも一部区間で始発から運転を見合わせたり、遅れが出ている。
 高速道路は、東名・名神高速、中央道、伊勢湾岸道、名古屋高速は18日夜から通行止めが続いた。
 気象台は岐阜県の岐阜・西濃、愛知県の尾張東部・西部、三重県北部に大雪警報を出し、雪崩や路面凍結による事故に注意を呼びかけた。
 名古屋地方気象台によると、この雪は上空の気圧500ヘクトパスカルの地点で氷点下34.9度以下の寒気団が流れ込んだため。20日は高気圧に覆われ晴れ、日中は寒さも緩むが、最低気温は名古屋で氷点下5度になる見通しで、路面の凍結などに注意が必要だという。

2005/12/18(日) <大寒波>冬型の気圧配置は19日も続く
日本列島の上空に18日、この冬一番の強い寒気が流れ込み、気象庁は雪崩や暴風雪、高波に注意を呼び掛けている。冬型の気圧配置は19日も続き、北陸から北海道にかけて大雪となり、海上は大しけとなる見込み。雪などの影響で、日本航空は52便(18日午後8時現在)、全日空も61便(同)が欠航した。東海道新幹線と山陽新幹線は始発から部分的に徐行運転した。
 長野県警によると、小諸市で雪で乗用車が千曲川に転落したとみられる事故があり、1人が行方不明になっている。
 気象庁によると、上空約5000メートルにある氷点下42度の寒気が、東北地方を通過し、北海道の東海上で低気圧が急速に発達しており、北日本と東日本で冬型の気圧配置が強まっている。18日午後8時までの24時間の降雪量は▽群馬県みなかみ町65センチ▽新潟県糸魚川市58センチ▽同上越市56センチなど。
 19日午後6時までの24時間の予想降雪量は、いずれも多いところで▽北陸地方、関東甲信越地方北部60〜80センチ▽北海道、東北地方日本海側、岐阜県、滋賀県で40〜60センチ。
 JR東日本によると、新潟県内の信越線、上越線で運休が相次いだ。また、福島県の常磐道と磐越道、新潟県の関越道などが18日早朝から断続的に通行止めとなった。

2005/12/17(土) 浅田真、世界女王破り初V=安藤は振るわず−フィギュアGPファイナル
世界の女王は真央だ!フィギュアスケートのGPファイナルは17日、国立代々木競技場で各種目のフリーを行い、女子は浅田真央(15=グランプリ東海ク)が125・24点の自己ベストをマークしてショートプログラム(SP)に続いて1位となり、合計189・62点で優勝した。GPファイナルでの日本勢の優勝は03年の村主章枝(24=avex)以来、史上2人目。トリノ五輪金メダル最有力候補のイリーナ・スルツカヤ(26=ロシア)に8・14点の大差をつけての圧勝で、浅田の五輪出場を否定した国際スケート連盟(ISU)に強烈なパンチを見舞う演技となった。

 最後のポーズを決めた浅田の表情に会心の笑みが浮かんだ。誘われるように客席から拍手が降り注ぐ。ただの拍手ではない。鳥肌の立つ感動をそのまま両手に込めたような拍手だ。次々と立ち上がる。総立ちのスタンディングオベーションが、すでに浅田が世界一の座にいることを証明していた。

 得点が表示されるとうっすらと涙が浮かんだ。「びっくりしたのと、うれしいのと…。いっぱいです」。15歳の精いっぱいの言葉で浅田は感動を表現した。「きょうは100点」。前日の99点が満点に変わった。言葉通り、世界女王にふさわしい完ぺきな演技だった。

 7つのジャンプをすべて成功させた。1カ月前から宣言していたトリプルアクセル(3回転半)を2度盛り込むとの約束は「(直前の)スルツカヤさんの時に少し不安になったので(山田)先生に言って1回にした」と言う。成功していれば女子では世界初、しかも1回はコンビネーションを予定していただけに、二重の世界初だった。快挙は「次の目標」にお預けとなったが、優勝は逆に強さを際立たせた。

 この日の大会前、ISUのチンクワンタ会長はあらためて浅田のトリノ五輪出場を否定した。ルールはルール。正論をタテに、イタリア人会長はかたくなだった。だが、02年ソルトレークシティー五輪2位、世界記録保持者、昨シーズンの世界選手権女王と数々の肩書を誇るスルツカヤを下した演技は、同会長の目にどう映ったのだろう。同国にはコストナーというトリノ五輪メダル候補もいる。自国での五輪を色あせたものにしかねない決断を、浅田の演技が真っ向から否定した会心の優勝だった。

 「スルツカヤさんに勝てるとは思わなかったのでびっくりしています。前と変わらず、トリノ五輪には少し出たい気持ちがあるけど、(2010年の)バンクーバー五輪で頑張りたい」。わずか87日、規定より生まれた日が遅かっただけの浅田に、世界最高の実力を世界最高の舞台で披露する機会は失われた。それでも色あせない実力を、代々木の総立ちの観衆が称えていた。

■美姫、悪夢の3度転倒

安藤美姫(18=愛知・中京大中京高)のトリノ五輪切符は、全日本選手権(23日開幕、東京・代々木第1体育館)までお預けとなった。フリーのジャンプで3度転倒するなどミスを連発。宣言していた4回転ジャンプにも挑まず、ショートプログラム(SP)3位から4位に転落した。中野友加里(20)が初出場で3位に入り、代表争いは混沌(こんとん)としてきた。
 安藤の目には、うっすらと涙がにじんでいた。こわばった表情で得点を見た後、大きく息を吐いた。「見せたい」と願っていた笑顔はこの日、少しも出ないまま終わった。最初に話しだした言葉の語尾を「悔しい」と結んだ。唇をかんだ。
 最初の連続3回転ジャンプで転倒した。大きなため息が会場内に漏れる。この時、SP後に「失敗してもいいから『4回転の安藤美姫』のプライドを持って、めげずに滑りたい」と決めていた心が揺らいだ。静まり、誰もがかたずをのんで見守った次のジャンプは、3回転で着氷した。その後は中盤と終盤にも転んだ。2度の転倒などミスが相次いだNHK杯のフリーから0・82点上回っただけ。リベンジはならなかった。
 朝の公式練習で、4回転は5度挑戦してすべて失敗した。「体が軽くなって、ジャンプで降りる時に右足が踏ん張れなかった」。直前練習では1度だけ成功したが、強い気持ちを持ち続けられなかった。城田憲子フィギュア強化部長は「本来のキレのあるジャンプがここのところ見られない。才能はすごくある選手だけど、心も強くしていかないと」と奮起をうながした。
 昨季と変わらぬ4位。トリノ五輪代表に内定する可能性もあった表彰台は、中野に抜かれて逃した。城田強化部長は「(今大会での)内定はなし。全日本が終わった時点で、総合的に判断して五輪で勝てる人を選びます」と宣言した。これで代表争いは混沌。ただ、五輪選考ポイントでは安藤が2位以下に200点以上の差をつける。全日本で普段の滑りができれば、内定は自然と見えてくる。
 大会前に「次の全日本では気楽に滑れる位置にいたい」と話していた。納得のいく内容ではなかったが、「(私は)勝てる要素をたくさん持っている。もっと自信を持てば、比べものにならないスケーターになれる」と自分に言い聞かせるように力を込めた。失った輝きを取り戻すため、安藤は再び前を向いた。

2005/12/16(金) レコ大審査委員長・阿子島さんが遺体で発見される
「日本レコード大賞」審査委員長で12日夜から行方不明になっていた音楽評論家、阿子島たけし(本名毅)さん(65)が16日、全焼した横浜市戸塚区の自宅敷地内から遺体となって発見された。神奈川県警では、失火で逃げ遅れた阿子島さんがベランダから落ちたものと見て調べている。阿子島さんをめぐってはレコ大がらみの失踪とのうわさも出ていたが、事件性は薄れたとみられる。

 夫人(56)が14日に捜索願を提出してから3日目。阿子島さんが変わり果てた姿で発見された。火災現場の室内を中心に現場検証していた県警が16日朝、室外まで範囲を広げ庭先を掘り起こした際、焼け落ちた雨戸など、がれきの下からうつ伏せの状態で見つかった。やけどによる損傷以外に目立った外傷はなかった。

 遺体は同日午後零時半すぎ、阿子島さん宅の玄関脇の庭から、県警のワゴン車にビニールシートで隠されながら運び出された。同9時20分、司法解剖の結果、歯型が一致したため本人と断定された。死因は焼死だった。

 県警の調べによると、出火元は1階居間で、石油ファンフィーターかこたつが原因とみられる。阿子島さんは普段から居間の真上の2階の部屋で寝ており、火事に気付いたときは既に燃え広がった状態で、ベランダへ逃げて落ちたようだ。

 これまでの調べでは、阿子島さんは12日午後9時半すぎまで、東京・新宿のホテルで行われていた演歌歌手、泉ちどり(54)のディナーショーに出席。同11時ごろには、阿子島さんによく似た男性が、最寄り駅のJR戸塚駅の改札から出る姿を駅構内の防犯カメラがとらえていた。足取りはここで途絶えていたが、阿子島さんはそのまま帰宅し、就寝中に火事に巻き込まれたようだ。

 火事は木造2階建て約77平方メートルを全焼。近所の民家2棟も全半焼した。出火当時、夫人は神奈川・葉山町にある阿子島さんの妹夫婦宅を訪れており、阿子島さんと14日になっても連絡が取れず、捜索願を出していた。

 今年のレコ大をめぐり阿子島さんを非難する怪文書が出回っていたため、それに絡んだ失踪ではともうわさされたが、阿子島さんの遺体が発見されたことと、玄関の鍵がかかっていたことから、事件性は薄れたとみられる。

 レコ大を主催する日本作曲家協会では「コメントは控えたい」と話し、後任審査委員長についても「未定」としている。ただ、審査委員長代行として、協会理事長の三木たかしさん(60)を推す声も出ている。

2005/12/15(木) オリックス前監督・仰木彬氏が急死…野茂、イチロー育ての親
オリックス前監督の仰木彬氏(オリックス・シニアアドバイザー)が15日午後4時10分、呼吸不全のため、福岡市内の病院で死去した。70歳だった。近鉄、オリックスの監督として3度のリーグ優勝、オリックス時代の平成8年にはイチロー(現マリナーズ)を擁して日本一になるなど、幾多の栄光を築き上げた名将の死。プロ野球界の功労者がまた一人、帰らぬ人となった。葬儀・告別式は、故人と家族の意向により密葬で執り行われる。

 プロ野球界の偉大な恩人がまたひとり、この世を去った。パ・リーグに一時代を築いた仰木氏が、肺がんとの壮絶な闘いの末、福岡市内の病院で死去した。

 最期の最期までユニホームとともに歩んだ。3年間の評論家生活を経て、今季からオリックス・近鉄の合併球団の初代監督としてオリックスに復帰。3年連続最下位から脱出、盤石のリリーフ陣を築き上げるなど4位に浮上させた。それどころかチームを最後までプレーオフ争いに導いた。

 しかし、高齢による体調面の不安から今季限りでの勇退を決意。球団シニアアドバイザー(SA)に就任して、中村GMを新監督として後を託した。今オフは巨人を戦力外となった清原獲りに熱意を燃やすなど補強面に力を注いでいたが、体調が悪化。福岡市内の病院に入院していた。

 野球一筋に燃え尽きた。平成13年に一度はオリックスの監督を退いた後も、体調悪化で入退院を繰り返していた。昨年、オリックス・近鉄の合併が決まると、両球団を熟知した最適任者として初代監督を請われた。

 70歳という高齢ながら陣頭指揮を執り、9月1日の西武戦(スカイマーク)では判定に怒り、試合後、審判室に怒鳴り込むなど気迫を見せた。それは精いっぱいのパフォーマンス。実際は体調悪化に苦しむシーズンだった。

 夏場も長袖シャツにウインドブレーカー。抗がん剤を使用していたため、薬の副作用の跡がある肌を露出するのを嫌った。9月中旬には顔色も悪くなり、試合開始ギリギリまで監督室にこもるようになった。睡眠もままならず、食欲も次第に落ちていった。それでもシーズンを戦い抜いた。

 足跡は常に輝いていた。西鉄時代は二塁手として黄金期を支えた。昭和42年に現役引退後は2年間の西鉄コーチを経て、同45年に近鉄へ。18年間コーチを務めた後、同63年に近鉄の監督に就任。仰木マジックでリーグを席けん、10月19日の川崎球場でのロッテとのダブルヘッダーは、歴史に残るゲームとして語り継がれている。

 第2試合はドローで優勝を逃したが翌年、見事にリーグ優勝。平成6年から8年間はオリックス監督。イチローを二軍から1番打者に抜てきして前人未到の210安打を達成させた。阪神大震災に見舞われた同7年は「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝、同8年には長嶋監督率いる巨人を破って日本一に輝き、被災に沈む神戸市民を勇気づけた。

 指導者として野茂、イチロー、田口らメジャーリーガーを育て上げた名将。その功績が認められ、昨年野球殿堂入りした。プロ野球の発展に尽くした70年の生涯が、静かに幕を閉じた。

2005/12/14(水) 耐震偽造 関与を否定、鉄筋指示文書で釈明 総研社長
衆院国土交通委員会は14日午後、耐震データ偽造問題をめぐる証人喚問を、午前中の姉歯秀次元1級建築士に引き続いて行った。経営コンサルタント「総合経営研究所(総研)」の内河健社長は「構造計算が分かる人間は社内にいない」などと関与を否定したが、総研幹部が構造設計を元請けした「平成設計」に、鉄筋の減量を文書で指示していた事実などを突きつけられると、一転して1級建築士が5人いることを認め「文書は知らなかった」と釈明した。「木村建設」の木村盛好社長と篠塚明取締役(元東京支店長)は、姉歯氏への改ざん指示を否定した。
 総研は同委員会の参考人質疑で「黒幕」と名指しされた。内河社長は、開業指導したホテル24棟で姉歯氏の構造計算書の改ざんがあったことを明らかにしたうえで「我々はコンサルタント。構造計算が分かる人間はいない」と無関係であることを強調。雑誌などで自ら鉄筋の減量を推奨していたことを指摘されると「私は技術屋でない。自分で(関係する)数字を計算しただけで、鉄筋を減らせとは言っていない」と反論した。
 ところが、馬淵澄夫委員(民主)が、総研のチーフコンサルタントの四ケ所猛氏が平成設計に対し、鉄筋の減量を指示した文書を示すと、四ケ所氏ら5人の1級建築士がいることを認めたうえで、「素人ばかり」としてきた説明を覆し「早急に調べて、ご回答申し上げる」と調査を約束した。
 四ケ所氏は、偽造発覚のきっかけになった04年3月の学生マンション(東京都港区)設計の打ち合わせに出席。構造計算書の問題点が論じられたが、記者会見などで「技術的なことは分からなかった」と釈明していた。
 またホテル建設計画の組織表(03年5月)で、構造設計に姉歯氏の名前が明記されていたことも判明。内河氏は「組織表は知らなかった。構造設計士を指定したことはない」と釈明に追われた。
 一方、木村建設の篠塚氏は「どの業者にもコストに関して(削減を)お願いしている。法令の範囲内で、という趣旨だった」と説明。姉歯氏が「98年にグランドステージ池上(東京都大田区)が最初」と述べたことについては「知り合ったばかりで、具体的な話はしていない」と否定。さらに「社内や総研の指導で全体のコストダウンの話はあった」としたものの「建築確認されたから安全だと思った」と、改ざん指示疑惑に反論した。
 この日の証人喚問は姉歯氏、木村社長と篠塚氏、内河社長がそれぞれ2時間15分ずつ行われた。

■耐震偽造 証人喚問見た住民は「無責任」「真相隠してる」

「あまりにも無責任だ」「まだ真相を隠している」。衆院国土交通委員会で14日開かれた証人喚問を、耐震データの偽造が発覚したマンション住民は、傍聴席で、またテレビで見守った。
 木村建設の施工で、強度不足のために退去を求められている「グランドステージ東向島」(東京都墨田区)の対策委員会メンバー4人は、交代で傍聴席に入り、メモを取りながら喚問に聴き入った。
 副代表(36)は、木村建設の篠塚明取締役(元東京支店長)が、姉歯秀次・元1級建築士に220万円を振り込ませていたことについて「信じられない話。それを見つけ出せない企業体質に問題がある。最上階の自分の部屋は雨漏りするが、やはりこういう会社が造ったためだ」と語った。
 震度5強程度で崩壊の恐れがある「グランドステージ住吉」(江東区)ではこの日夜、緊急の住民総会を開催。八住庸平・管理組合理事長(42)は証人喚問での姉歯氏の発言に触れ「検査機関の確認が、存在意義もないほどずさんだったと、がく然とした」と話した。
 自営業の男性(43)は「姉歯氏は謝ってはいたが、検査機関に責任転嫁して開き直っている。住民のことなど考えておらず、感覚がまひしている」と憤り、木村建設についても「現場に携わる者としてあまりに無責任。マンションを建てたのがあの2人の会社だと思うと、さらに怒りが込み上げてくる」と語った。
 一方、証人喚問で姉歯氏が「最初に偽造した」ことを明かした「グランドステージ池上」(大田区)の管理組合理事(56)は「姉歯氏らの言うことは全く信用できないが、偽造だったことだけは間違いなくなった。かすかな希望を持っていただけに、やるせない気持ちだ」と怒りを抑え切れない様子。
 建築主のヒューザーが「問題あり」と認めながら、区が一度は「問題なし」と発表。その後も偽造があったか、なかったのかは灰色のままで、住民はほんろうされてきた。理事は「なぜ裏付けも取らずに『問題なし』と発表したのか」と区の対応を批判したが、「強度も分からないので対応も取れず、先が見えない」と途方に暮れていた。

2005/12/13(火) えっオレ?小田、中日へ  FA野口人的補償
巨人は13日、FAで獲得した野口茂樹投手(31)に代わる補償選手として、小田幸平捕手(28)が中日へ移籍することを発表した。この日、中日から小田を指名するとの通知文書が巨人に届いた。小田は東京・大手町の球団事務所で会見。驚きと無念さをにじませながら、新天地での活躍を誓った。

 球団事務所の会見場に姿を現した小田の表情は、ショックに打ちひしがれていた。「8年間お世話になったんで、悲しいのが一番ですね…。悲しいけど頑張ります」突然、チームを去ることになり、ショックを隠しきれなかった。

 想定外だった。15日から自主トレを行う豪州ケアンズ行きに備え、この日の午前中、荷物を取りにジャイアンツ球場を訪れた。「荷物整理に行ったら、違う荷物整理になってしまって…」球団事務所で正式に中日からの“指名”を聞かされ、了承した。

 97年にドラフト4位で巨人に入団以来、8年間G一筋。「02年の優勝パレードが一番の思い出。そして先輩と後輩に恵まれた。清原さん、元木さん…。後輩では慎之助。どこに行くのも一緒だったんで、寂しいですね」感傷的になりつつも、必死に涙をこらえた。

 「中日には谷繁さんという日本を代表する捕手がいる。少しでも盗んで、貢献できたらなと思う」と最後に目標を語った。

 ◆人的補償 野球協約では、FA宣言した選手と契約した球団は、選手の旧球団に対し、金銭および選手を補償しなければならないと定めてある。支払う金額は、FA選手が最初の権利行使なら旧球団と契約していた前参稼報酬年額(年俸)の80%、2度目以降のFA行使なら40%になる。人的補償は、FA選手を獲得した球団が保有する支配下選手のうち、外国人選手およびプロテクトした28人を除いた選手名簿から1人を旧球団が獲得できる。過去に人的補償を求めたケースは、95年に河野博文が日本ハムから巨人へ移籍した際の川辺忠義、01年に前田幸長が中日から巨人へ移籍した際の平松一宏、同年、加藤伸一が近鉄からオリックスへ移籍した際の田中裕貴の3度。もし、旧球団が人的補償を求めない場合は、80%が120%に、40%が60%になる。

2005/12/12(月) 京都小6殺害 緊急説明会で、保護者から批判の声
学習塾の教室で生徒の小学6年生、堀本紗也乃(さやの)さん(12)が殺害された事件で週末、萩野裕(ゆう)容疑者(23)の自宅や現場で府警が家宅捜索し、塾側は保護者への説明会などの対応に追われた。また、12日は事件後初の登校日を迎え、紗也乃さんが通っていた市立神明小学校の児童たちは緊張した面持ちの保護者や教職員に付き添われ、集団登校した。
 京都府宇治市の小学6年女児殺害事件で、学習塾「京進」は11日、事件現場となった宇治神明校の保護者を対象に、緊急説明会を同市内で開いた。保護者約60人が参加。「どんな基準で容疑者を採用したのか」「受験を控えて今後の授業はどう続けるのか」という声が相次ぎ、説明会は2時間半に及んだ。
 説明会は午前10時からあり、立木貞昭社長ら幹部が、事件の経緯や今後の安全対策や倫理教育など再発防止策を説明した。
 説明会後、同校に通う中3男子の祖父(74)は「受験を控えて事件は極力話題にしていないが、孫に詳しい事情を知りたいと頼まれて参加した。孫は(萩野容疑者を)『笑わせてくれるいい先生』と言うが、子どもと同じレベルではなかったのか。勉強は出来ても資質に問題があった」と話した。小4女子の父親(40)は「通り一遍の説明しかなかった。娘にどう事件を説明してよいか悩んでいる。講師の大半がアルバイトという現状で、緊急の際の態勢が取れるのか」と納得できない様子だった。
 また事件発生時、塾内にともにアルバイトの萩野容疑者と男性講師(22)しかいなかったことも分かった。立木社長らはこの日、前日に続いて京都市下京区の本社で会見し、「校長ら社員が不在だったことは安全管理上、問題だった」と落ち度があったことを認めた。宇治神明校は校長ら正社員3人に対し、アルバイト講師9人と非正社員が多数だったという。
 京進は12日夕、宇治神明校の生徒のために、同市内の別の場所に教室を設置する。
 ◇紗也乃さん 無言の帰宅
 京都府宇治市の小6女児殺害事件で、堀本紗也乃(さやの)さんの遺体が11日夜、宇治市開町の自宅に戻った。
 午後8時20分ごろ、白い車で自宅前に到着し、棺(ひつぎ)が玄関から運び込まれた。両親や祖父母が帰宅を待ち受け、遺体は1階の部屋に安置された。両親はかなりしょうすいした様子だったという。
 一方、府警宇治署は11日、萩野裕容疑者を殺人と銃刀法違反容疑で京都地検に送検。塾や萩野容疑者の自宅を家宅捜索した。

12月絵日記の続き


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.